3 心の声を(1)
3 心の声を
屋敷の最西にある部屋で、姫君はじっとその時を待っていた。
普段この時分なら、明るい笑い声が聞こえてくるというのに、今は見る影もない。部屋には、あたかも罪人を匿うような、言いようのない重苦しさと緊張感が漂う。
すでに太陽がその役目を終えたため、地上からは色彩が半分以上奪われている。
いつの間に女官が部屋へ訪れたのだろうか。尚子のすぐ目の前にある油差しに、気づかないうちに火がともっていて、今はそれが唯一の光源となっていた。
床に映し出されたの尚子のシルエットは、ゆらゆらと揺らめいて、実に心もとなく見える──まるで尚子の心のように──。
そんな静寂と闇の牢獄で、どのくらい静かに座り続けて居ただろう。尚子は一人、一点を見つめたまま、息までも止まったかのように動かない。その顔から表情はとうに消え失せていた。
こんなに時が長く感じたのははじめてだ。
何も感じない。
いつも体中で感じる自然のかけらを一つも感じない。
草と土のまざった、庭のにおい。
虫や葉、星達の声。
秋のそよ風は、まるで、母がそうするように頬を撫でる。
そんな自然のかけらに全身をゆだねる時間が、尚子は好きだった。
それなのに、今は何も感じない。
婚礼用に身につけたこの紅の着物は、死に装束だったのか。そう思うと、くすりと笑みがこぼれた。
(もう、どうでもいい……)
自分の運命は、父の娘として生まれ落ちた時に決まっていたのだ。
そもそも、本来なら、ずっとこの部屋に閉じこめられていたはずなのだ。
この部屋の外の空を知らずに、いや、外の風を知らないことすら知らずに。
この部屋から見えるもだけが、自分の世界であると信じて疑わずに。
どんなにそれが“幸せ”なことか。
あのまま何も知らずにいられたなら……。
(そうだ……“尚子”に戻るだけなんだ)
今宵、“良尚”が死ぬ。それだけのこと。
自分は尚子として、一人の女性として、生きていくだけ。
夢から覚めるだけなのかもしれない。
「これでいいんだ……」
かすれた小さな声が部屋に広がる。
──後悔してる?
そう自分の中で“良尚”が問いかけた気がした。
──知らないほうがよかったか?
花のため息。
鳥の舞い。
風の唄。
月のぬくもり。
──みんな知らないほうがよかったのか?
わからない……。そんな自分が想像できない。
──松吉やツネ婆、鷲太にも会えなかったぞ。もちろん……鷹雄にも。
嫌だ! それは絶対に嫌だ!
──小次郎にだって相手にされなかったかもしれない。
……小……次郎?
ぽたりと何かが、膝の上に落ちた。それは円を描くように広がり、絹地にしみこんでいく。
そっと自分の頬に振れると確かに濡れていた。自分は……泣いているのか。その事実がどこか人事に感じた。
(何も知らない私は、“私”じゃない)
あんな幸せだった日々を、無かったことになんてしたくない。
毎日を、確かに自分は“生きていた”のだから。
あの日々を無かったことにするくらいなら。自分は自分の運命を受け入れてやる。
……でも。
「楽しかったな……」
震えた声の最後は、形にならなかった。
あとからあとから溢れる涙。体は正直だ。
納得しているのに。
もう決意したのに……。
心が悲鳴をあげている。
──嫁になどいきたくない。あんな男のものになど、なりたくない!!
心がそう叫んでる。
「姫様……」
背後から声がした。尚子の瞳に、わずかながら生気が戻る。
いつからそこにいたのだろう。鷲太が、膝を抱えて部屋の隅に座っていた。その横には白い猫。赤い瞳をキラリとさせ、こちらをじっと見つめている。
「鷲太……」
慌てて尚子は涙を拭う。
「こちらへおいで」
足音を立てずに、鷲太は尚子のすぐ目の前へ歩み寄る。そして、小さな手で尚子の頬に触れた。
彼の手の平から伝わる優しさが、尚子の胸を熱くする。
一度溢れた感情は、せき止めるには難しい。
尚子は自分の手を、頬にある鷲太の手に重ねた。
泣かない。心配かけたくない。
笑え……笑うんだ。
やっとの思いで絞り出した声は、震えてしまう。
「頼みがある」
「はい……」
「その猫をつれて、今日は鷹雄の部屋で寝てほしい」
「…………」
「さあ、行って」
「……明日になったらまた姫様と一緒に寝れるのですか?」
尚子は静かに目を伏せた。
明日には、自分はこの屋敷から追い出されるに違いない。
本来、この時代の婚姻は3日間、男が女の元へ通うことで成立する。
しかし、それは都の中でのこと。離れた家間では同居を望むのが道理。尚子も、この住み慣れた上総を出て常陸へと移住することになる。
尚子は、そっと鷲太を抱きしめた。
「また会える」
「いやだ! 姫様と離れて、生きていてもしょうがないよ!」
鷲太がしがみつく。尚子はそれに答えるように、しっかり抱きしめてやる。
「……鷲太」
尚子は名残惜しそうに、鷲太を引きはがし、まっすぐ見つめた。
「鷲太。しゃんとしろ。お前は私がいなくても生きていける。生きていけないような男など私はいらん」
「……姫様」
「また会える」
「……」
「……さあ、行きなさい」
尚子は、そっと猫を抱き上げ、鷲太に差し出す。
鷲太はしぶしぶ、その猫を受け取った。そして、押し出されるように尚子の部屋を後にする。何度も何度も、窓辺の尚子の姿を振り返りながら。
尚子はそんな鷲太の小さな背中をいつまでも眺めていたかった。
だが、ほどなく尚子の心を引き裂くような、木戸の音が部屋に響く。
──ガタン。
ついにその時がきたのだ。