覚悟(3)
◇◆
数人の男たちと小次郎を隔てるものは、太い木の幹だけ。林の中の日常に同化するのも楽ではない。
否応なしに、体がこわばる。いくら息を潜めても激しく脈打つ自分の鼓動が、周囲に聞こえてしまいそうだ。背筋を冷たい汗が流れた。
(たく……いくら俺が戦の天才だからと言っても、限界があるってもんだ)
多勢に無勢すぎる。いったい何人の追っ手がいるのか。検討もつかない。こういう時は、人も獣と同じ世界で生きていると実感する。やるか、やられるか。隙を見せたら殺される。
パキン。
不意に張りつめた空気が、一点に集中する。
小次郎のいる場所とは反対の方向で、木の葉を踏みしめるような乾いた音がしたのだ。
「あっちだ」
すぐさま、兵たちはその音へと誘われていった。
遠ざかる人の気配に小さく息を吐き、小次郎は天を仰いだ。
「……」
とりあえず、今は命が繋がったようだ。だが、このまま林の中を逃げ回っているだけでは、拉致があかない。どうしたものか。
と、思案をめぐらす暇も無く、すぐにまた人の気配がする。
(……っち。考える余裕もねぇ!)
しかし、目で確認したわけではないが、相手は一人のようだ。
かさ、かさっと一歩一歩、小次郎の方へ近付いてくる。
(一人なら……やれるか)
小次郎は腰の短剣に手をやった。全神経を耳に集中させ、相手との距離をはかる。
かさ……かさ……。
好機は一度だけ。しかも一瞬で絶命させなければならない。
タイミングが全て。
(すまんな――)
敵が一人で小次郎の前に現れたのが運のつき。小次郎は目にも留まらぬ速さで敵の背後にまわる。口元と首を捉えられた不憫なエモノは、ゴキっという鈍い音と共に絶命した。その間、30秒。
再びあたりに静寂が訪れた。まるで何もなかったかのように。
小次郎はふう、と短く息を吐く。これで何人の敵を減らすことができただろうか。途中から数えられなくなった。
体力も限界だ。
(まったく何人を使って俺さま一人を追いかけてるってんだ。ええ? ずいぶんと伯父上に見込まれてるってもんだ)
皮肉めいた顔を浮かべながらも、全身で周囲の様子を伺う。まるでその姿は獣そのものだった。
────パキン。
再び、枝の折れた音が空気を貫いた。
またか。音はまだ離れたところから聞こえたようだった。しかし、瞬時に小次郎の筋肉に、ぴりっと緊張が駆け抜ける。
すると聞き覚えのある声が小次郎の耳に飛び込んできた。
「俺はこっちをさがす、お前はあっちを」
用心しながら、大きな幹の影から音のした方を覗き込むと、人影が二つ。
(……あれは……)
人影は一つになって、真っ直ぐに小次郎のいる木へと近付いてくる。
小次郎は息を潜めた。
ざく、ざく、と徐々に大きくなる足音。
(――どっちに付くつもりだ)
姫か。それとも屋敷の主か。
あっという間に感じた。考えあぐねていたからかもしれないが。
鷹雄は、今まさに小次郎のいる木の目の前へとたどり着いたのだ。
もし、殺すなら今しかない。
無いのだが。
(お前の主はどっちだ――鷹雄!)
ごくりと生唾を飲む音が、大きく感じた。
「返事はするな。そのまま聞け」
それは小さな声だったが、しっかりとしていた。
「馬がある」
(――!)
鷹雄は、くるりと小次郎に背を向け、幹に背をもたれさせた。
まさに、二人をへだてる物は、一本の木しかない。
「村へ行け。ツネ婆が手配してくれる」
やはり、姫から何か言われていたのだ。間違いない。
「夜まで村に隠れていろ。そして闇に乗じて国へ帰れ」
もう大丈夫だと、小次郎は確信した。
無事に国へ帰ることができるだろう。
――自分一人ならば。
「良尚様からのお言葉だ『世話になった。これはその礼だ。恩に思うことは何もない。それに生きていれば、いずれ会えよう』」
一言一言、姫の顔が、声が浮かぶのはなぜだろう。鷹雄の口から出ているというのに。
あの笑顔が自分の胸を熱くさせるのだ。
あの声が自分の心に命を吹き込むのだ。
「それから『私は海を夢みる鳥になる。命は大事になされよ』と言っておられた」
(鳥になる……?)
小次郎の脳裏に、あの夜の姫が思い出される。
泥まみれで村を走り回っていた姫を。馬に跨り、田畑を耕し、村人と大笑いし。日を浴びて、その光をすべて自身の輝きへと変えてしまうような女性を。
『私は海を夢見る、鳥になる。
海を夢み、飛びたくて。でも飛べない鳥に。
羽をもぎ取られ、籠に押し込められた、鳥になる』
この言葉の真意。そして先ほどの扶の姿。
(――それでは今宵、源扶のものになる、そういうことか!)
瞬時に、小次郎の脳で一本に繋がる。
風が木の葉を揺らし、林がざわめいた。
『逃げろ──私にかまわず』
彼女が風の声を借りて、そうささやいた気がした。
小次郎の瞳に光が灯る。その意志と同様に激しく強く。
「姫に伝えよ」
鷹雄のかわりに、木々が答える。はらはらと舞う落葉が蝶のように小次郎の目の前を過ぎた。
「約束は必ず守る」
小次郎はそれだけ言うと、村の方へと姿を消した。まるで風のように。
良兼からの撤退命令が届くのは、この数分後のことだった。