目覚め(2)
◆◇
(何か手はないのか…?)
良尚は桜の木に体重を預けて、深いため息をついた。
このままでは、もうすぐ“夫”が姿を現すことになる。しかも、父のことだ、無理やりにでも既成事実を作り政略結婚を成立させるつもりだろう。
父は自分の娘をよく知っている。だからこそ、逃げ場の無い袋小路に追い詰めるつもりなのだ。
女狐の弟と結婚なんて冗談ではない。
第一、まだ嫁に行く気なんてさらさならい。
(だって──)
嫁いでしまったら、今のように馬にまたがり、風を感じることもできないだろう。
青空を眺め、川の唄を聴き、桜の華の舞を見ることも。
本当に、狭い暗い部屋の中に閉じ込められてしまう。
(……考えただけでぞっとする)
なぜ自分は男に生まれてこなかったんだろう。
男であったらならば、学問に身を投じ、武芸に励むというのに。弟たちのように文句ばかりを言って逃げ回ったりしない。ああ…なぜ自分は、女で生まれてしまったのだろう。
自分は、ただ父の野心の道具として、好きでもない男に陵辱されるために生まれてきたというのか。そして、次は世継ぎを生み出す道具として扱われるのだ。
そんなことのために、自分は生きてきたというのだろうか。
再び良尚の形のよい唇から、深いため息がこぼれた。
「……海がみたいな」
ぽつりと、涙と共にこぼれ落ちた言葉は、秋風に乗って空を舞う。脳裏に浮かぶのは、昨夜の小次郎の笑い声。
『俺がここから出してやる』
急に、体が記憶をたどるように、小次郎に抱きしめられた感覚を取り戻した。今もあの力強い腕の中にいるような錯覚。
(あんな無骨な男のくせに──)
まるで真綿で包まれるように優しく抱きしめるのだ、あの男は。
いったいどれが本当の小次郎なのだろう。
「案外、幼い頃の泣き虫のままなのかもしれないな……」
良尚は、思わず笑みをこぼした。
(まったく……勝手なんだからなぁ。私を嫁にするなんて言うし…酔っ払いの戯れ言にしてもタチのわるい…)
そんなことが叶うわけがない──絶対に。
「阿呆だ、アイツは」
くすりと笑う良尚の顔は、本人の無自覚に穏やかなものだった。
すると。
「何を一人でニヤけてるんだ?」
頭上から降ってきた声に、ぎょっとして振り返る。口の端を上げて、こちらを覗き込む小次郎の姿がそこにあった。良尚は一瞬にして、顔が赤くなるのが分かった。心が弾むように軽やかになり、自分が喜んでいることが否応なしに自覚させられる。
嬉しい?
何が?
小次郎にあえたことが? そんなまさか。
自問自答の中、取り繕う声はうわずってしまった。
「な、なんでここに居る」
「……散歩?」
「こんなところまでか!?」
「まあな。これは桜か?」
小次郎は頭上の木を見上げた。良尚もつられて見上げる。
「そうだ」
川原には、この桜の木が1本だけ青い空に向かって、まっすぐ立っている。
「この桜は、母上の木なんだ」
良尚はそっと目を細めた。
「京からここへ来た時に、父上が母上に差し上げたそうだ」
「ほう……」
京を離れて寂しくないように。
父は、母の京の実家にあった桜の木をここへ一本植え替えたのだ。
父は暇をみては母をここまで連れてきていたらしい。
「屋敷の庭にも桜があるんだ。あれはこの木の枝を……」
良尚はそこで一度言葉を切る。小次郎は静かにその良尚の寂しげな横顔を見つめた。
「……母上が亡くなった時に、父が手折って植えてくれたんだ」
良尚が寂しくないようにと。
それから、庭の桜を母と思い何度眺めたことか。
川原まで来て、この桜の木に何度悩みを打ち明けたことか。
父は変わってしまった。母が愛した父はもういない。母を心から愛した父は、あの義母が現れた時に死んだのだ。
あの女が二人の仲に割り込んだ時に。
あの女が父に野心を植え込んだのだ。間違いない。
「そうか……」
それまで黙って耳を傾けていた小次郎が、不意に優しげな表情をみせた。
「この木はお前のすべてを知っているのだな。良き相談相手だったのだろう?」
笑いかける小次郎の言葉に、心臓がどくんと脈打った。
「この木はお前を誇りに思っていると思うぞ」
小次郎は再び頭上の桜を見上げた。
「見てみたいな。自慢の息子を思って咲く桜の木を。どんなに見事に咲き誇るのだろうな」
きっとその目には、鮮やかな薄紅色の花びらが舞い散るのが見えているに違いない。気がつくと、良尚はその暖かな表情から目が離せなくなっていた。
再びこちらに笑いかける小次郎の瞳に吸い込まれそうだった。
胸のあたりがほんわり暖かい。
なんだろう。この感覚。
とても──心地がよい…──。
「さあ、そろそろ屋敷にもどったほうがいい。また野党がでるかもしれん」
「……わかった」
「いい子だ」
小次郎は破願し、良尚の頭をなでた。
「や、やめろ。子ども扱いするな!」
「はいはい。泣きべそかいてたくせに、どの口がそんなことを言うんだか」
「…………帰る!」
良尚はぷいっと小次郎に背をむけ、軽やかに馬にまたがった。
「なあ、良尚」
「なんだ」
「俺は国へ帰る」
良尚ははっとして小次郎を見つめた。小次郎は、ふっと笑う。
「そんな寂しそうな顔をするな。帰れと言ったのはお前だろう?」
「……そうだ。早く帰れ」
「帰るさ。一度、屋敷に戻り、叔父上に挨拶をしてから、帰るさ」
「それがいい。……もう少ししたら、別の客人がくる。それまでに姿を消したほうがいいだろう」
「客?」
眉間にしわをよせて、小次郎は聞き返した。普段見せないようにしている小次郎の本心が、一瞬垣間見ることができたのだが、そのまたとない機会を良尚は逃す。
「常陸の……源の嫡子、源扶殿だ」
吐き捨てるように良尚が言う。
「源殿の嫡子殿がなぜ?」
「……嫁を迎えに来るのだそうだ」
瞬時に、小次郎の顔に緊張が走る。しかし、良尚は自分の負の感情を押さえ込むことで手一杯だったため、小次郎の表情まで目を配る余裕がなかった。
「…………確かに、早く退散したほうが良さそうだな」
そう言った、小次郎の口調は変わらない。表情も穏やかだ。だが、その聡明な頭の中で様々な知略が今まさに練られていた。
屋敷まで戻る間も、いくつか言葉をかわしたのだが、良尚がそれに気付くことは、ついになかった。
屋敷近くまでくると、心配そうに入り口付近をうろうろする鷹雄の姿が目に入った。
一瞬、川原での出来事が思い出され、良尚は赤面する。
「良尚さま!」
こちらに気付いた鷹雄が駆け寄ってきた。
「ご無事ですか!? 何事もありませんでしたか!?」
明らかに、不信の目を良尚の背後にいる小次郎へとむける鷹雄。
「人聞きの悪いことを言うな。俺は何もしてない、俺はな」
皮肉を込めた笑いを浮かべた小次郎だが、すたすたと先に屋敷へと向かっていく。
良尚はその背中をおもわず目で追った。
「上等な馬を用意しといてくれ」
振り返ることなく、小次郎は鷹雄に命ずる。
そうだった、小次郎の乗ってきた馬は、村で焼け死んでしまったのだった、と良尚は一人納得した。
(本当に帰るんだ……)
良尚は、だんだんと小さくなっていく背中をじっと目で追った。
(帰っちゃうんだ……)
もう二度と会うことはないだろう。
自分はもう、常陸へ嫁ぐのだから。
望んでいたことじゃないか。
これでいいんだ。
なのにどうして──胸がこんなに苦しいの……?
「ま、待て!」
いつの間にか、良尚は声をかけていた。
ゆっくりと足を止め、小次郎が振り返る。
「私の馬をやる」
良尚は馬を鷹雄に預けると、慌てて小次郎の後ろへ続いた。
「小柄だが、いい馬だ。餞別だ」
良尚は精一杯、笑って見せた。
これが最後。
もう──会えない……。
「そうか、ありがたく頂こう」
小次郎はふっと柔らかく笑った。
(あれ?)
良尚は目を奪われていた。
こんな笑い方は始めて見る。こんなに暖かな表情ができる男だったのか。
いつも、どこか余裕のある顔ばかり見ていたからだろうか。
(これが、本当の小次郎……?)
ぼけっと見とれている良尚の様子に、小次郎はいつもの意地の悪い表情を作った。
「なんだ、結局引き止めるのか?」
小次郎はニヤニヤと笑いながら、すっと手を伸ばしてきた。あっという間に肩を抱かれる。
そして、反射的にぞくりと鳥肌が立つような低い心地良い声が、耳元で囁かれた。
「今宵、必ず迎えに行く」
(──え?)
良尚の体を離し、小次郎は再び館の方へ歩き出した。
何がなんだかわからないまま、良尚は立ち尽くした。いや、立っているのがやっとだった。
◇◆
「そうか、帰るのか」
いかにも残念そうに伯父はそう言った。
「国の方も、父が亡くなったことで色々と混乱していることでしょうし、長くお世話になっては申し訳ない。今回は挨拶に参っただけですので、改めてまた」
上座にいる伯父を、あくまで“伯父”として話すことは、なかなか難しい。
小次郎はしれっとした顔ではいるものの、この伯父の小さな表情の変化も逃すまいと神経を尖らせていた。
「そうだな、今度はこちらから参ろうじゃないか」
上機嫌な様子で笑う伯父。
(タヌキが。お前が俺の国へ来る時は、俺を殺す時だろうが)
「それがいい。是非にとも」
「しかし、何もお相手できなかったせめてものお詫びに、途中まで家臣に送らせよう」
小次郎は笑顔の伯父を静かに見つめた。
(送る……ねぇ……まあ、そうくるだろうよ)
「盗賊がまだうろついてるかもしれんでな。断らんでくれよ。伯父として甥を心配するのは当然のことだ」
たたみ掛けるように伯父はそう言った。拒否することは許されない、と。
「かたじけない。では、その護衛の中に、鷹雄という馬番を貸していただけますかな」
「鷹雄……そんな男いたかのう」
「なにかと屋敷で世話になったもので、別れ惜しく」
二人の視線が重なった。お互いにお互いの思惑を探る。
数秒の沈黙が、まるで何時間にも感じる。
その沈黙は、伯父が崩した。
「良いだろう。ただし、家臣は誰もやらんぞ。みな、大事なわしの家臣だからのう。わははは」
陽気に笑ってみせる伯父に、小次郎は愛想よく微笑み返した。