星たちの宴(2)
◇◆
月明かりで慣らされた目は、暗闇ではしばらく使い物にはならない。
誰かに口元を手で押さえつけられたかと思えば、あっという間に床に押し倒された。驚きと恐怖で声もでない。体は強張り、力が入らない。
自分の体は、何者かによって、今まさに、強い力で床に押し付けられているのだ。尚子がそう認識するまで、長く時間がかかったように思える。
「……っ!」
はなせっ! と言ったつもりだった。力いっぱいに体をよじり、自分の上にのしかかる不届き者を蹴飛ばしたつもりだった。しかし、どれも実現しない。
「静かにしろ」
尚子のすぐ耳元に、息がかかる。ぞくりと、背筋に冷たいものが走った。
(──小次郎!)
声の主の顔がすぐに脳裏に浮かんだのだ。そして同時に、思い出された父の言葉。
『やつを殺せ』
尚子は、体中に先ほどとは違う緊張が走るのが分かった。
小次郎も、急に抵抗をしなくなった姫の様子に、彼女を抑え込んでいた力を緩める。
「手を離しても、叫ぶなよ」
尚子は、こくりと首を縦に動かした。ゆっくりと、尚子の口元から、小次郎の手が離れていく。自由になった口で、尚子は一つだけ深く息を吸った。少しだけほっとした。
が、今度は、違うもので口をふさがれることとなった。
「……うっ」
唇に生暖かい感触と、夜着の中に忍び込む骨ばった手の感触に、言いようも無い恐怖と嫌悪感が尚子を襲った。
「ちょっと、何をするんだ!」
尚子は慌てて顔をそらし、小次郎の手を引っ掴んで夜着の中から追い出した。
「何って……相撲が始まるとでも思うのか?」
暗くて見えないが、その声から小次郎の意地悪くにやけた顔が簡単に想像できた。
「思えるわけがない」
「だろう? じゃ、続けようか」
再び、小次郎の手が夜着の中へと動こうとしたので、尚子は慌てて「ま、待て!」と声を上げる。
「何だよ。なかなか、野暮な姫さんだな、あんた。こういう時はな〜、雰囲気と勢いに流されておくもんだぞ」
「わ、私が誰だか知っているのか?」
小次郎は、ふっと鼻で笑った。なんとなく、頭に良尚のすねた顔が浮かんだからだ。明かり一つ無い部屋の中では、お互いのシルエットしか分からない。だが、声から、口調から、実に良尚にそっくりだった。
だが、良尚ではありえない。なぜなら、すでに女性であることは、先ほど確認済みだった。確かなふくらみが胸元にある。
この分だと、顔もそっくりに違いない。もしや、双子ではあるまいな。
小次郎は勝手に妄想を繰り広げながら、頬を緩ませた。
姫には申し訳ないが、小次郎には初対面に感じないのだ。だからなのか、妙に小次郎には余裕がある。その余裕が余計に尚子を焦らせているのだが。
「夜の恋人たちに名前が必要だとは知らなかったな」
小次郎は、わざとらしく、低い心地よい声で姫の耳元で囁いた。
尚子は息と一緒に、小次郎の体温を耳に感じた。尚子の心臓が跳ね返る。たとえ、相手があの憎たらしい小次郎だと分かっていても、だ。勝手に胸が詰まる。鼓動が早くなって、呼吸がうまくできない。
(か、顔が近いっ)
尚子は、慌てて「だ、誰が恋人なのだ!」と言い返し、腕をいっぱいに突っ張り小次郎の体を引き離す。しかし、つれない態度とは裏腹に、すでに眼が回るほどの血が頭に集まってきてしまっているようで、顔が熱い。声も勝手に上ずってしまった。
「姫。貴方には縁談があるそうですね。いや〜、相手の男が羨ましいことだ」
「……知っていながら、このようなことをするのか……って、わっ! ちょ、ちょっと、どこ触ってるんだ!」
「……足? ……こっちのがお好きなのかな、姫は?」
暗闇の中、小次郎がそう言うか言わないかで、尚子の予想もしないところを、小次郎の手が這う。だから──。
「うひゃいっ!!」
尚子自身驚くような、なんとも色気がない声が出てしまったのだ。
「ぷっ」
その尚子のひどい叫び声に、たまらず小次郎が噴出した。まるで、可笑しくてしょうがない。
「うひゃいって……ぷくく」
体を震わせて、くくくと笑い続ける小次郎の姿に、さすがの尚子も眉間にしわを寄せる。そんなに笑われる覚えはない。
自分の上にのしかかったままの小次郎の胸を押すと、今度は簡単に自分から剥がれた。床の上にしりもちをつく形になっても、なお、笑い転げる小次郎に、尚子は逆に自分が恥ずかしいことをしたような気持ちになる。女として、だ。よかったような、良くなかったような、そんな複雑な気分に、つい口を尖がらせてしまう。
(いや、でも、あのままだったら……小次郎なんかに良いようにされてたまるか! だからこれでいいんだ、いいんだけど。でもなんか面白くない!)
小次郎は小次郎で、笑いながらどうしてもこの姫が良尚に思えてしかたない。なんだか、違う興味が沸いてきてしまっていた。
「いや、すまん。すっかりその気がうせた」
「あっそう!」
尚子がふてくされたような声を出したので、小次郎は意地悪く問う。
「あれ、不服そうですね。ご希望とあらば、仕切りなおして頑張りますが?」
「いい! 希望してない!!」
姫の慌てた返事に、小次郎は再び、くくっと、ちいさく笑う。
「あら、残念」
尚子は思わず舌打ちした。 それを聞いた小次郎は、完全に毒気を抜かれた気分になった。
「まったく、おまえたち兄妹は……」
小次郎はそう言って、ごろりと床に大の字になった。
「え? 兄妹……?」
「良尚とそなたのことだ」
暗闇の中では分からないが、おそらく自分の顔を覗き込んでいるのだろう姫に、小次郎は笑いかけた。勿論、その小次郎の表情も姫には見えていないのは分かっている。
それでいい。自分のことは知らないままで。
この娘は自分とは別の世界に生きているのだ。白く清らかな世界だ。正しいものを正しいと言える。好きなものを好きだと。嫌なものは嫌だと。そう言える世界に。
この娘を自分たちのいる世界に引きずり込んでやろうと思った。利用してやろうと。
なのに──。
「……兄……を知っているのか?」
「知っているとも。無鉄砲で無謀で向こう見ずな、阿呆な男だろう?」
「全部似たような意味じゃないか!」
「でも──」
小次郎は言葉を置いた。
「でも……?」
姫が当然食いついてくる。その素直な反応が心地よい。
「面白い男だ。見ていて飽きない」
思わず目で追ってしまう。どこか危なっかしくて、放っておけない。
なぜ、あんなに村の者たちのために必死になれるのか。
なぜ、あんなに楽しそうに笑うのか。
なぜ、あんなに泣けるのか──他人のために──。
そんな良尚のために、思わず周囲は手を貸したくなるのだろう。助けてといわれなくても、その前に手を差し伸べたくなるのだろう。もっと良尚の喜ぶ顔が見たいから。もう二度と、良尚の泣き顔を見たく無いから。
だから良尚の周りに人は集まる。良尚の周りで人は動く。良尚のために。
人は良尚に魅せられる──自分のように。
「それ、誉めているのか?」
つまらなさそうな姫の声に、小次郎はふっと笑った。
「誉めているさ〜。最高の誉め言葉だ、俺の」
「……そなたに誉められても嬉しくはない……と、思うぞ兄は」
「そうだろうな」
小次郎は気持ちよくからからと笑った。そして、寝転がりながら、ごろりと体の右半分を起こして、姫の方へ向き直った。姫のシルエットに小次郎には良尚の表情が重なる。そして自分でも驚くべきことを口にした。
「そなた、俺のところに嫁にくるか?」
「────へ?」
「……俺、今すごいこと言ったな。いや〜うん、すごいこと言ってるぞ?」
「……じ、自分で言って自分で感心するやつがいるかっ!」
「たぶん、今まで生きてきた中で、一番、頭を使わずに言った言葉だな、今のは」
小次郎は、さも、ひとごとのように、けらけら笑いながら再び、体を転がして大の字になった。
そうかもしれない。
考えてない。
感じたのだ。感じるままに出た言葉なのだ。
自分の側にいて欲しい、と。
「あははははは」
小次郎は声を上げて笑った。
「なっ、なんなんだよ、さっきから!」
「いや、すまん。なんだか、可笑しくてな」
「可笑しい?」
「ああ、そなたのことじゃないぞ。俺が、さ」
「何が、だ?」
姫のシルエットの頭が少し左に傾いた。首をかしげたのだろう。
「俺にもまだ、『俺』があったってことさ」
「…………どういう意味だ。さっぱりわからない」
小次郎はもう何も言わなかった。尚子もそれ以上聞かなかった。
「ところで、そなたは、良尚に声がそっくりだな!」
「…………双子なんだ! 見た目もよく似ていて間違えられる」
「なるほどな〜。しかし、男と女の双子でも、姿かたちが同じになるのか?」
「……お、同じなのだから仕方が無い」
「それもそうだな」
小次郎が、あっさり納得したようなので、尚子はこっそり胸をなでおろした。暗闇でよかったと、初めて思った瞬間だった。
「おい」
小次郎は、天井を見上げながらしっかりとした声で言った。
「嫁に来い」
その返事がどうかなんてどうでもいい。
それが実現するかどうかなんて今は考えたくない。
欲しいものは欲しい。
それを言える自由が、今は何よりも。
そんな場所を見つけたことが、今は何よりも──嬉しい。
小次郎は小次郎であるために必要なものを見つけた。
「俺の妻になれ」
◆◇
はたと気がつくと、あたりは薄ら明るくなってきている。
あれほどに愛を囁きあっていた虫たちの唄はなりを潜め、煌々ときらめいていた星たちも早々に自宅へと引き返したようだ。
月すら、白く白く、朝焼けに溶け込もうとしていた。
もう夜があける。
夜の住人たちは、その香りすら残すことは許されない。
夢とははかなく。
日の光から逃れた世界を生きる。
明るく照らされてしまうと、見たくないものが見えるから。
魅せられたくないものを魅せるから。
白黒の世界だからこそ美しい。
はかないと知っているから、魅せられる。
小次郎は無言で立ち上がった。姫は何も言わなかった。目が慣れたとは言え、彼女のその表情までは分からない。
しかし、すでに小次郎は彼女の気持ちが空気を通して伝わってくるようだった。
「そんなにがっかりするな」
「がっかりなどしていない。早く出て行け」
「そんなに、寂しそうな声をだされると、帰りづらいじゃないか」
小次郎はからかうように、からからと笑いながら言うと、慌てて強がる声が返ってきた。
「だ、誰が寂しいものか!」
それにしても、驚いた。
ただ、話しをしていた。女と共に一晩明かしたというのに。
触れることもなく、何時間も。
ただ、ひたたすらに夢中で、話しをしていた。
他愛のない話ばかりを取りとめもなく。
自分の子供の頃の話や、父の話、虫や鳥を追いかけたころの話や、初めて海を見た時の話。
姫はその話の一つ一つに、興味をもったようだった。
例えば、海一つとっても────海とは何だ。なぜしょっぱいのだ。誰が塩をいれたのだ。波とはなんだ。と、次から次へと質問が沸いてくる様子だった。
全身で『知りたい、見たい』と伝えてくる。
表情がわからなくとも、こんなにはっきりと気持ちを伝えられたことはない。
言葉でではない。口ではいくらでも嘘が言える。ごまかせる。隠すことができる。
しかし、この暗闇の中、全身で心を伝えてくる姫のどこにその嘘があるのか。
人はこんなにも、体中で気持ちを表現することができるのか。
小次郎は、いつのまにか、彼女の小さな反応すらも、一つも逃さないようにしていた。小さな驚きの声も、かすかな喜びの吐息も。
(もっと……)
小次郎はそっと手を伸ばした。触れた姫の頬から伝わる体温。ビクリと彼女に緊張が走る。
(もっと話をしてやりたい)
この鳥籠の中から連れ出して、外の世界を見せてやりたい。
空の青さを。
海の広さを。
山も声を。
自分のこの手で────。
「……」
ゆっくりと二人の影は重なった。触れる姫の柔らかな唇から、暖かな気持ちが小次郎の体の中へと流れてきたようなきがした。
そっと唇を離すと、小次郎は思わず問う。
「……今のは姫の唇か?」
「!?」
あまりの無粋な質問に姫は返す言葉を失っているようだった。
「いや、なんというか……女の唇はこんなに柔らかかった……かなと……俺は何を言ってるんだ?」
急に照れくさくなって、小次郎は頭の後ろをぽりぽりとかいた。そして、逃げるように部屋を出ようと入り口へ大股で歩み寄った。
「帰れ!」
木戸を押し開けようとしていた小次郎の手が止まる。
「……もう帰ったほうがいい」
「だから今帰るところじゃないか」
小次郎は、一瞬姫が自分を引き止めてくれたのかと喜んでしまった自分を隠すように笑う。しかし、姫の声はかすれていた。何かに脅えるように震えているようにも聞こえる。
「もうここに居たらいけない」
「……」
小次郎はまっすぐにその気持ちを受け取った気がした。
姫の父親が自分を殺そうとしている。そう自分に言いたいのだろう。しかし、姫にとってそれは実父を裏切る行為。
“ここにいたら殺される。早く逃げて”
口からでなくても、伝わる声がある。
小次郎は自然に口元が緩み、声が優しくなってしまう。
「また、来る」
「来るな!」
「来るよ」
「……来ても無駄だ。会わない。だから来るな。帰れ」
「言ったろう? 嫁に来いって」
「冗談を言ってる場合じゃない!」
姫は小次郎に背を向けた。絹ずれの音が部屋を裂くように響いた。
小次郎も姫に背を向け、木戸を開けた。
「俺がここから出してやる」
──カタン。
木戸の音は夢の終わりを継げた。
すべてを見せる前に。
すべてを魅せた後に。