プロローグ
赤い。
どこを見ても、赤い。
今、自分はその“赤”に囲まれている。
彼の家も、村も、何もかも、あっという間に、“赤”に食い尽くされてしまった。
さっきまで聞こえていた隣の家のお姉ちゃんの泣き叫ぶ声も、夕方まで一緒に遊んでいた友達の助けを呼ぶ声も、あっという間に“赤”の餌食になった。
もう、誰もいない。
何もない。
ごうごう、と鳴る炎が、彼から全部、奪ってしまった。
わかってる。次は自分だ。
いいよ。
こんな体、“赤”にあげる。
もう、僕には必要ないから。
一緒に笑い会う家族も。
守るべき妹も。
何もないんだ。
僕の命なんて、もう、何の意味もない。
いっそ、父ちゃんや母ちゃんが、“赤”に喰われた時、僕も一緒に喰ってくれればよかったんだ。
なんで、僕だけ生き残らせたの?
僕は死ぬ価値すら、ないのかな。
そこまで考えて、彼は静かに目を伏せた。
でも、それも、もうどうでもいいことだ。
今度は自分もこの村の人たちと一緒に逝く。そして、村のみんなのもとへ、父ちゃんと母ちゃん、妹のところへ行くんだ。
彼は燃え盛る家屋へとゆっくり足を進めた。
と、その時、それまで炎の音しか聞こえなかった彼の耳に、不思議な声がささやきかけてきた。
──おいで。もう、苦しむことも、悲しむことも、一人ぼっちになることもない。だから、こっちへおいで──。
誰かいる。
あの炎の中で、自分を優しく呼ぶ声がする。
「……母ちゃん?」
彼は胸が高鳴るのがわかった。
ああ。
母ちゃんが呼んでる。
僕を待ってる。
(待ってて。今行くよ)
彼は、また一歩、また一歩と“赤”へと足を進めた。
そのたびに、心も体も軽くなるような。
この世から、だんだんと魂が抜け出ていくような。
そんな不思議な感覚にとらわれた。
そして、彼が“赤”へとゆっくり手を伸ばした、その瞬間。
「おいっ!」
彼は自分の体が、ふわりと浮き上がるのを感じた。
ああ、これが死ぬってことなのか。妙に納得する。
これで自由だ。
自分はもう、苦しみから解放される。
(暖かい……)
次に感じたのはそんな感覚だった。
例えるなら、遠い昔、母ちゃんの腕に抱かれていた時の温もりに似ていた。でも、母ちゃんとは違うのはすぐにわかった。
別の、もっと柔らかくて暖かくて、すべてを任せてもよいと思わせる……そんな包容感。
これが、自分を迎えに来た天女の腕なのか。
彼は、目を閉じそんなことを考えていた。
「怪我はないか?」
彼の背後から柔らかい声が聞こえてきた。
聞こえてきたその声で、彼はゆっくりと瞼を押し上げる。
「……」
焦点の合わない彼の目に、少しだけ黒い色が戻る。すると、それを合図にするかのように、一度放棄した彼の五感が、すーっと次々に引き戻されていく。
(……あれ?)
いつもより視野が高い。しかも、ふさふさと柔らかな毛と、暖かな生き物の温もりを太ももに感じる。
そうか、馬だ。自分は今、馬に乗っている。でもなぜだろう。乗った覚えなどないのに。
「おい、大丈夫なのか?」
再び、頭上から彼を心配するように怒鳴る声が聞こえてきた。
(え? 頭上?)
驚いて、思わず後ろを振り返る。
途端、息ができないほど、強い輝きを放つ二つの目に──捕らえられた。
(──……)
吸い込まれる。
目が離せない。
もうその二つの目から逃げることはできないと悟った。
なぜだろう。
彼は、怖いほどの、強い光をその瞳の中に見て、動けなくなった。
「大丈夫そうだな」
その人はふわりと笑った。
それを見たと同時に、彼は自分の心臓が大きく脈打つのを感じた。
どくん。
どくん。
また一つ脈打つ鼓動に、全身の感覚が鮮明になっていく。
頭も回り始めたのか、やっと自分の置かれた状況が飲み込めた。
炎の中にその身を投じようとしていた自分は、この男に馬上へと担ぎ上げられた────命を助けられたのだと。
「良尚様!」
背後から蹄の音とともに別の男が姿を現した。その男は馬にまたがったまま一礼する。
「だめですね。遅かったようです。生存者は──」
後からきた男はそう告げると、すっと顔を上げたので、そこで彼は男と目があった。
「生存者は、その子供だけのようですね……」
「そうか……」
良尚と呼ばれた人物は、苦しそうに顔をしかめ、目の前に広がる赤い村を眺めやった。
「すまなかった……私がもう少し早く気づいてやれれば……」
彼は静かに、良尚を見上げる。その大きな良尚の瞳は、青空に舞い上がる炎を映し出していた。
「もう少し……私が……」
彼にはその良尚の大きな瞳に、自分の胸が切り刻まれるような痛みを感じた。
この人はなんて泣きそうな顔をしているのだろう。
なんて苦しそうな顔をしているのだろう。
(みんなが死んだのは、この人のせいではないのに……)
それなのに、必死に泣くまいと唇を噛しめ、挑むような目つきで“赤”を睨みつけている良尚の姿が不思議だった。
この人は、“赤”から逃れられると思っているのだろうか。
“赤”に勝てると信じているのだろうか。
不意に、良尚が彼を見下ろした。
視線が交わったその瞬間、彼の胸がどきんと跳ね上がったのがわかった。良尚の大きな瞳の奥に暖かさを感じた。
良尚がそっと彼に手を伸ばし、優しく頭をなでた。その手の平が彼に、強く訴えかけてきたような気がした。
『生きろ』と──。
……──――赤。
それは命の最後。
全てを無に変える――――最後の叫び……。