4 鳩(上)
冊子を開く。
一年生の、冬の頃だった。
この時期の朝は、叩けば硬質な音がしそうなほど寒い。
いつものように弓道場へ朝練に向かう。〈紫苑の森〉の端にある弓道場は、何故か校舎や学生会館など他の建物より低い土地に建っている。
土に石を埋め込んだだけの階段。
その両脇には白梅と蠟梅が花を咲かせていた。某先輩曰く。紅梅もあったが、別の場所へ飛んで行ってしまったらしい。
澄んだ大気に蠟梅の甘い香りが漂う。白梅の花弁が一枚、ひらりと地面に落ちる。風はない。
しん、と静まり返った弓道場を階段から見下ろす。葉を落とした木々の枝を透かして、矢道に蠢くものが見えた。
「……何だ?」
石の階段を一段跳びで駆け下り、弓道場をぐるりと回る。草が生えた地面、矢道に辿り着く。
そこには大量の鳩がいた。
クックックック、と喉を鳴らし、地面を嘴で突いている。茶褐色と灰紫色の羽根に、鱗のような模様。頸の横に青と白の横縞 ――キジバトだ。
その数、二十、三十羽。
矢道の上で一心に餌を探している。見慣れた鳥の姿に拍子抜けする。
「何だ」
むくりと悪戯心が疼いた。
霜柱をざくざくと踏みながら、矢道に侵入する。
俺に気づいた鳩が、慌てた様子で飛び立った。
「うおっ」
羽ばたく音が静まっていた大気を震わせる。小さな風が起こる。思った以上の羽音に驚いた。
空を見上げ、飛び立った一群を見送る。
抜けた羽根が重力に引かれ、時間差でゆっくりと地面に落ちた。
「もう、そんな時期か」
榊先輩が張った弦を三回弾く。澄んだ弦音が道場内に響き渡る。弓を引く前の彼女の癖。
「冬になると、神社の鳩が群れで飛来するんだよ」
「冬になると……ですか」
何か引っ掛かった気がするが、それ以上に気になることがある。
「うっかり射殺したら、どうするんですか」
「射殺した矢で墓を作る」
淀みのない返答に、自分の顔が強張るのがわかった。
「……すでに、誰かが経験済みですか?」
「さぁ。どうだろうなぁ」
にやにやと榊先輩は笑う。彼女の話は嘘か本当かわからない。紅梅が飛んで行ったと言う人だ。確かに弓道場に紅梅はない。嘘だと思ったら本当のことだったりする。性質が悪い。
「鳴海がおどかされた群れに、白い鳩はいたか?」
「俺がおどかしたんです。……ええっと、いなかったと思いますよ。全部キジバトでした」
「ふうん」
興味を失くしたように榊先輩が筆粉を握る。
筆粉の付いた弓手で、弓の握革をこすった。はらはらと筆粉が板張りの床に落ちる。
「鳴海。もし白い鳩を見掛けたら、教えろよ」
「捕まえるんですか」
やること成すこと規格外の先輩だ。やりかねない。
「いや。丁重にお帰りいただく。南無八幡」
意味がわからない。
白い鳩を見つけたのは、部活の時だった。
「うわ! 何これっ!」
田村が矢道で叫ぶ。その大きな声にも鳩は飛び立たなかった。
「ここまでいると、壮観だな……」
二十五メートルプールより一回り広い、矢道という名の空き地。矢が通る空間の下、地面の上はキジバトの大群で埋め尽くされていた。百か二百か、もしくはそれ以上。もはや数える気にもなれない。
見渡す限り、羽毛が蠢いていた。
「こいつら、大社から飛んで来たのかな」
田村が首を傾げる。直近で思い付く神社はそこしかない。
大社の〈鎮守の森〉は若宮と弓道場と演武殿を有する、それなりに広い森である。キジバトの百や二百は棲んでいるかもしれないし、やっぱり棲んでいないかもしれない。わからない。
「とりあえず、垜の準備をするか」
たぶん、榊先輩が来れば、何とかするだろう。
「えっ! この群れの中、突っ切って行くのか?」
田村がびびるのもわかる。矢道から溢れたキジバトは、クックックックと喉を鳴らし頭を振りながら、いたるところを闊歩している。
「矢取り道を行くか」
何故か、矢取り道には鳩がいない。
「うわ遠回り。めんどくさー」
田村がぼやく。
「別にいいぞ。俺はその遠回りしていくから、田村は最短の矢道を行けばいい」
準備中だから、矢道に侵入しても背後から射殺される心配はない。
クックックック。
田村の目の前を鳩が通り過ぎる。
クックックック。
「……いや、オレもついて行く」
クックックック。
幾重にも重なった鳩の鳴き声が鼓膜を震わせる。
雪駄を履いた足元から、冬のせいではない寒気がじわじわと這い上る。
正気の沙汰とは思えない、鳩の大量発生。数の脅威。見慣れた鳥なのに、百単位で集まっていると恐怖を感じる。
弓道場をぐるりと回り、矢取り道に入る。鳩は一羽もいない。木の根がうねうねと露出している矢取り道は、さすがに鳩にとっても足場が悪いのか。
「一匹、射殺しちゃだめかな。そしたら他のヤツも逃げるんじゃね?」
木の根を避けながら、田村が冗談を言う。
「射殺したら、その矢で墓を作るんだぞ」
「え、マジ?」
「マジマジ。榊先輩が言ってた」
途端に田村が押し黙る。
部内の生き字引。
榊先輩が言ってた、という言葉はある種の呪文だ。ひとりを除き、大方の部員はそれで納得する。
「じゃ、ホースで水を撒いたらどうだ? 穏便な対処法だろ」
「あぁ。悪くないんじゃないか」
殺傷するわけでもないし。
ただ、怒った鳩が襲ってきたら怖い。
「よし、決まり! とっちめてやる」
何故か、鳩へ敵愾心を燃やしている。万が一鳩が襲ってきたら、田村を盾にすることにしよう。
そんなことを勝手に思っていたら、視界の隅で白いものが動いた。
看的小屋に辿り着き、もっとよく見るために垜の前へと走った。二、三羽うろちょろしていたが、俺が近づいても飛んで逃げない。朝とは違って図太い。
「何だ。どうした、鳴海」
「……群れの中央に、白い鳩がいる」
他はすべてキジバトだが、その一羽だけが真っ白だった。
「えー、どこだよ。黒っぽいヤツならいるけど、白はいないぞ?」
田村の反応に、ひやりと嫌な予感がする。
俺にしか見えないのか。
「計画変更だ、田村。鳩に水を掛けるのはやめよう」
「何で。さては、びびったかこの野郎」
さっきびびっていたのはお前じゃないか。
不服そうな田村へ向き直り、呪文を唱える。
「榊先輩が大量の鳩を見掛けたら教えてくれって、言ってたのを思い出した」
「マジで?」
「マジマジ」
若干嘘だったが、効果は抜群だ。すぐに田村が踵を返す。
「さぁ遊んでないで的の準備をしよう! そうしよう!」
垜の上に掛っていた葦簀を手早く丸める。
「お前、普段そんなに張り切って準備しないだろ。どうした」
「何を言っとるんだね君は。僕はいつでも一生懸命さ」
「おい。キャラ違うぞ」
俺も看的小屋から竹箒を取り出して、垜の砂を履き上げる。うろちょろしていた鳩が矢道へ走って逃げる。飛ばない。
田村が演技がかった身ぶりで言う。
「オレは思った。偉大なる先輩方がいらっしゃる前に、すべての準備を整えておかねばと。準備に先輩のお手を煩わせるなんて、言語道断!」
「そのココロは」
「準備が遅れて部長に怒られるのが怖い。榊先輩が何とかしてくれる」
同意見だったので黙って頷いた。
――鳩(下)へ続く






