3 節目
冊子を開く。
いつかの、朝練の時だった。
「やっべ!」
盛大に筆粉を零した。
サァーと、白い灰が板張りの床一面に広がる。
弽も着けて準備万端、さあ射込もうと思ったのに。筆粉入れとして使っている水色のタッパーの中身は半分もなくなっていた。
ため息が出る。
やってしまったものは、しょうがない。
弓を弓立てへ置き、弽を外した。弓道場の片隅から箒と塵取りを取り出し、床の上に形成された灰の海を集める。本当はゴミを取り除くために篩を掛けたほうがいいのだが、昨日の部活終わりに掃除したから床はきれいだろう。集めた筆粉をそのままタッパーへ戻す。
箒と塵取りを片付けて、ぞうきんを手に外へ出た。
弓道場をぐるりと回り、水道の蛇口がひとつだけある小さな水場でぞうきんを濡らす。弓道場の外壁の板に水しぶきが掛かり、朝の澄んだ光の中で艶やかな光沢を見せる。
道場内に戻って床を拭く。
そうして、見つけた。
床板に黒い模様がふたつ、目のように並んでいる。
初めは墨の跡かと思ったが、ぞうきんで擦ってみても落ちない。床板に使われた木材の節目だった。
ふいに、思い出した。
一年生の、部活動見学の日だった。
矢が的に中る度に、見学している新入生たちから驚嘆の声が零れた。
「すげーな。あんな離れてるのに、よく当てるよな」
隣りに立つ田村が目を輝かせている。
弓道場の雨樋から的がある小屋まで、黄色いスズランテープが規制線のように張られていた。テープの向こうは、ところどころ草が生えた地面――もらった勧誘チラシによると矢道というらしい。矢が空を切り裂いて飛んでいく。矢の通る道。
「射る場所から的まで、二十八メートルだってさ。的の大きさは一尺二寸……三十六センチか」
田村が胸の前で、何かを抱えるように腕で丸を作った。
「的って、これぐらい?」
「たぶん。距離はそうだな、大雑把に例えると二十五メートルプールか。田村、お前プールの端から野球ボール投げて、的に当てられる自信あるか?」
「ビミョー。まず届くかどうか、ギリギリだと思う」
「だよなぁ」
タァンッ、と気持ちの良い高音を響かせて矢が的中する。前から二番目、長い髪を一括りにした背の高い女子がよく当たる。何故だか、目が惹きつけられる。他の部員と違って、矢を射る動作が静かだ。無駄がない、というのかもしれない。
背の高い女子が最後の矢を当てると、弓道着を着た部員たちは一斉に拍手をした。
「えっ。何、何?」
つられて拍手をしながら、田村がきょろきょろと周囲を見回す。
「四本全部、的中させたんだよ。ほら、道場の中にある黒板に当たりの丸が並んでいる。皆中だってさ」
勧誘チラシ参照。的中は一中、葉分け、三中、皆中と数えるらしい。
「すげーな」
四本の矢が刺さった的に田村が釘付けになる。
「なー」
同意しながら、俺は黒板から目が離せなかった。ネームプレートが並ぶ中で、ただひとり一文字の名字。
全員が射終わって、メンバーが変わった。五人ずつ、順番にやるらしい。区切りがいいので次の部活場所へ移動することにした。田村の希望で、柔道部と気が進まないが剣道部を見学する予定。
声を掛けてくれる部員の先輩たちに頭を下げ、石の階段へ向かう。森の端にある弓道場は、何故だか校舎よりも低い土地に建っている。
強い視線を感じた。
ざわっと、項の肌が粟立つ。
慌てて後ろを振り返ったが、誰もいない。
石の階段の前で足を止める。
辺りに視線を巡らせれば。
弓道場の板張り外壁、その一か所と目が合った。
「なっ!」
木の壁に目玉がふたつ、出現していた。
パチパチと目は瞬きをする。その黒い瞳が俺に向いている。間違いなく、目が合っている。
「どうした、鳴海? 置いていくぞ」
「田村っ、壁に目がある!」
目を指差して階段の上へ振り向いた。田村が首を傾げる。
「どこに?」
「ほら、あそこ!」
「何にもないぞ」
壁を見る。いつの間にか、ふたつの目は消えていた。
嘘だろ。
恐る恐る弓道場の建物に近寄る。
手の平で木の外壁を撫でる。表面は乾いてざらっとしている。建てられてから相当年月が経っているのか、風雨に晒された外壁は黒っぽい茶色に変色していた。
その外壁の板の一か所、黒い楕円形の模様がふたつ並んでいる。
「木の節目を、見間違えたんじゃないのか?」
「節目?」
「そー。木の節のこと。黒くて模様みたいなヤツ」
階段の上から田村が言う。
「木に枝がついていた跡なんだと。生節と死節があって、生節は、枝が生きている内に木の中へ取り込まれたもの。死節は、枝が枯れてから取り込まれたもの」
「……妙に詳しいな」
「俺んち日本家屋でさ。床の間の床柱に大きな節があって、そこから樹液が垂れてくんの。何でだろうと思って調べたんだよ。生節は木が生長する過程で、幹と組織が同化している。木は伐採されても生きているって言うだろ? だから生節も生きていて、だからだって」
伐られても、生きている。
ぞくりとした。
弓道場の一部となって、形を変えて生きている。古い弓道場の建物が、得体の知れないものに豹変したかのようで、後ずさりした。
「壁がどうかしたか」
声のほうへ振り向く。さっき皆中した女子の先輩が立っていた。
「いえ……何でもないです」
「ふぅん?」
彼女が目を眇めた。探るような視線。
「部活を見学させてもらって、ありがとうございました。じゃあっ」
頭を下げて、そそくさと石の階段を駆け上る。
「気になるなら、またおいで」
思わず振り返った。
それは部活のことか。節目のことか。
にやりと先輩は嗤う。
その眼差しは、ひどく冴え冴えとしていた。
「そんなこともあったな」
朝練にやって来た榊先輩を捕まえて、あの時の話をした。
「確かに、外の節目は目になるぞ」
「マジですか」
マジマジ、と言いながら榊先輩が頷く。畳の上に座り、上半身を後ろに捻ってストレッチをしている。
「じゃあ、この節目も……」
しゃがみ込んで床を指差す。
「安心しろ。道場内には出ない」
「どうしてですか」
「そいうものだから」
「どうしてですか」
「神棚に榊があるだろ。だからだ」
神棚に供えるのは当然ではないのか。ずっとそうしていると先輩たちに言われ、週一回必ず瓶の水と榊の葉を交換している。
何か、大事な過程が省略されている。
そこが腑に落ちない。
「ずっと言い伝えられてきたことが、当然のことになる。伝統、習慣、見えない約束。そういうものだ」
榊先輩の曖昧な言葉が宙に漂う。
答えを焦らされているようで、からかわれているようで、気分が悪い。
頭の回転が早いヤツは、過程をすっ飛ばす榊先輩の説明でも理解できるだろう。残念ながら頭はよくないと自負している。
それにしても、何だか、嫌だ。
「意味が、わかりません」
声が尖るのは不可抗力。
その場に正座して、真っ直ぐに榊先輩を睨んだ。
「どうして在るのか。どうして、そのように在るのか。俺には、わからないことだらけです。だから、訊いているんです。答えを知りたいんです」
「……真面目だなぁ」
ストレッチをやめ、榊先輩は胡坐をかいた。背筋はぴんと伸びている。泰然とした佇まいに若干、気圧される。
「正しい答えなんてこの世にはないぞ。在るのは納得解だけだ」
榊先輩の漆黒の目に鋭い光が閃いた。冴えた光。
「世の中は広すぎる。上も下もあれば裏も表もある。皆で納得できる答えを見つけて、わかったような気でいないと、脆弱な人は世の大きさに押し潰されてしまう」
押し潰される。
確かにそうだ。わけがわからなくて、知りたくて、でもわからなくて。不満と不安が際限なく膨らんでいく。
「そもそも、人如きが世の理を知ることができるものか。そう思うだろ、ホレイショー?」
「誰ですか」
「『天と地の狭間には、お前の考えが及ばぬことが在る』――沙翁のハムレット」
シェイクスピアか。
「生きていれば、いろいろなことに遭遇する。面白いこと、恐ろしいこと、不思議なこと。だがな、どれも単なる現象にすぎない。在るものが、在るように在るだけだ。どう感じるかは、自分次第だ」
「……真っ当なこと言っているようで、突き放してるだけじゃありませんか」
「知るか。所詮、自分以外は他人だぞ」
ふん、と榊先輩は鼻を鳴らした。
俯いて床板へ視線を落とす。黒い節目を見つめる。頭の中でぐるぐると思考が巡る。
わからない。
わからない。
わからない。
答えは在るのか、無いのか。
床の節目は死んだように動きもしない。
「……死節だからですか?」
榊先輩が身じろいだ。顔を上げて、彼女を見る。
「道場内に使われている板の節目は死節だから、目にならない」
へぇ、と榊先輩が声を漏らした。面白がっているようだ。
「神棚の榊と、どう関係する?」
「それは……」
最初から目にならない節目なら、神棚に榊があっても関係がない。あっけなく論理が破綻する。
「単なる悪足掻きだな」
稚拙な仮説を立てた己が恥ずかしい。
「うん。でも、嫌いじゃないな」
凛とした声。
目が合う。
「知りたいか?」
何を。
訊かずとも、榊先輩の瞳が雄弁に語っている。
「……知りたいです」
「本当に?」
「……本当です」
榊先輩がにやりと嗤う。
「なら継いでみるか? 書記係を」
知らない内に、榊先輩は古びた冊子を持っていた。
書記係の秘伝の書。墨と筆を使って、流れるような草書体で記されている。ほとんどの部員は読めないらしい。
「歴代が記し続けたもの。お前が知りたい『答え』も載っているかもしれない。もしくは、これから遭遇するかもな」
どうする、と榊先輩が目で問い掛ける。漆黒の、冴えた眼差し。
「――お願いします」
姿勢を正し、手を床に着いて頭を下げる。きっちりと礼をする。
真面目ー、と榊先輩にけらけら笑われた。
読んでいいぞ、と許しを得たので、秘伝の書を受け取る。ぱらぱらと頁を捲る。
「どこですか?」
「探すの下手だな。ここだろ」
覗きこんだ榊先輩が、トンッと指で示す。冊子の最初のほうに、その章はあった。
――板の節目、瞬く語。
「そういえば、節目って言葉は区切りという意味でも使うな」
何気ない調子で榊先輩が呟いた。
区切り。
気になったので、壁の棚へ移動した。弓道教本や植物図鑑と一緒に、何故かある辞典を引っ張り出す。区切りという言葉を調べる。
区切り。
動詞形は区切る。
意味は、分けることでそのものを出現させること。また境界をつけること。
ひやり、と背筋が凍る。
俺は、何を区切ったのだろうか。
または、何を区切られたのだろうか。
わからない。
わからない。
わからない。
ただ唯一、はっきりしていることは。
あの眼差しが、俺の人生の転機になったこと。
『節目』