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2 黒の上着

 

 冊子を開く。

 一年生の、中秋の頃だった。



 昼間は茹だるような暑さがしつこく残っていた。それでも、陽が落ちれば肌寒い。黄昏時を過ぎた薄闇が弓道場をすっぽりと包んでいる。


「上着を着てもいいぞ。風邪を引くなよ」

 部長の北原先輩が、外で素引きをしていた一年生へ声を掛ける。はいっ、と同期の女子たちは運動部特有のさっぱりとした返事をして、女子の部室へと向かう。


 少し寒いとは思ったが、弓道着の下に着た長袖を伸ばして誤魔化す。もうすぐ立ちの順番だし、上着を取りに行くのも面倒くさい。


 数分ほどで、高校指定の濃紺色のジャージを着た女子たちが、部室から出てくる。

 有名ではないが、高校がある神奈川県出身のデザイナーが手掛けたという。ジャージのデザインは非常にシンプルで、制服とは違い、誰が着ても無難に着こなせる。


「鳴海ー、立ちだぞ。お前、大後(おち)な」

 弓道場の玄関から、ひょっこり田村が顔を覗かせた。素引きをやめて、弓道場へ入る。


 立ち順でネームプレートが貼られた、的中数記録用の黒板を確認する。


「次、看的(かんてき)か」

「やっと看的に行くのか。憎たらしいヤツめ」

 早々に看的へ行った田村がぼやいた。


「立順なんだろ。俺に言うな」

「看的争いの時、覚えてろよ」

 部活も終わりに近づく五立ち目には、全員が看的をやっている。二回目の看的は暗黙の了解で、その立ちの中で的中数が低い部員が行う。


 部内ではそれを看的争いと呼ぶ。


 どうして記録される一立ち目と二立ち目に本気を出さないのか、と疑問に思うほど、皆の的中が良くなる。


 立射で四矢。

 この立ちの結果は葉分けだった。


 弽を外しながら、的中黒板の記録係へ看的に行って来ることを伝える。

 弓道場を出て、矢取り道を通る。

 日は完全に暮れていた。矢道と(あづち)を煌々と照らす野外灯のおかげで、木の根がうねる矢取り道でも転ばずに済む。下手に転ぶと骨折するぞ、と先輩たちに脅されている道。


 看的小屋に辿り着くと、すでに矢取りの赤旗が地面の竹筒に刺さっていた。小屋の中に看的役の姿はない。弓道場から矢取り許可の白旗が出たのをいいことに、俺を待たずに矢取りに向かったのだろう。矢拭きの手ぬぐいを取って、垜へ走る。


「遅くなりました」

 大後から中までの的の矢を抜いている榊先輩へ声を掛ける。

「遅い」

 ご苦労さま、という部の決まり文句をすっ飛ばして俺を詰った。


「立順が大後だったから、しょうがないでしょう」

「知ってる」

 それはそうだ。榊先輩は看的役だった。理不尽だ。


 全ての矢を抜き終わり、二人して看的小屋へ引っ込む。赤い旗を小屋の中に取り込んで、矢取り終了。

 榊先輩が片手で器用に看的板を直しながら言う。


「お前、寒くないのか」

 夜になって気温が下がっている。

 榊先輩はオーバーサイズ上着を着ていた。女子にしては背が高い榊先輩が着ても、身丈が余る。


「上着を取りに行ってたら、先輩に矢取りを全部やらせてしまうことになるんで」

「真面目だなぁ。よし、許してやろう」

 歪みなき上から目線。偉そうだと思うが、弟子の身分では頭が上がらない。


 榊先輩に矢を渡す。矢を受け取った榊先輩は、泰然とした足取りで矢取り道を戻っていく。黒の上着を着たその姿は、野外灯の光を受けても真っ黒い影のようだ。


 頭の片隅で何かが引っ掛かる。

 けれども、射位からの弦音が聞こえたので、看的に集中した。




「ありがとうございましたっ」

 正座した全員が神棚へ頭を下げ、部活が終わる。

 ぴんと張り詰めていた空気が弛緩する。


「だあー」

 隣りに正座していた田村が大きく伸びをした。途端に田村の腹が鳴る。


「腹減ったー。なんか食ってから、自主練やろうぜ」

「そう言って、なかなか射込まないくせに」

「いいだろ。やろうという気持ちが大事」


 弓道場を出て、男子の部室に戻る。

 居残りをする部員は、皆一様にカバンから食料の入ったビニール袋を取り出した。部室の中はガサガサと賑やかになり、同時におにぎりや焼きそばパンなど食べ物の匂いが充満する。


「ゴミ箱の中身は、忘れずにゴミ置き場まで持って行け。部室内で〈生きた化石〉を発生させたら許さん」


 北原先輩の眼鏡がぎらりと光る。

 部内ヒラルキーのトップに立つ部長の命令を受け、一年生男子でじゃんけんをした。あいこが続き、最終的には俺と田村との一騎打ちとなり、結局俺が負けた。


 ゴミをまとめたビニール袋を持って、暗闇の中、階段を上る。〈紫苑の森〉に建てられた弓道場は、何故か校舎や他の建物より低い土地にある。高校自体が丘を切り崩して建てられているからなのだろうか。


 地面に埋められた単なる石の階段を上ってゴミ置き場へ向かう。外灯も何もないので何やら不気味だ。部室の懐中電灯を持ってくればよかったと後悔する。


 学生会館の裏手、トタン屋根のコンクリート打ちっぱなしの一区画。ブロック塀で囲まれ、燃えるゴミ、燃えないゴミ、ビンと缶、新聞とダンボールなどなど分かれている。燃えるゴミ置き場は野良猫や野生動物にゴミを荒らされないようにネットが掛かっていた。ゴミを捨て、しっかりとネットを掛け直す。


 足音がしたので、後ろを振り返る。


 そこには真っ黒い影が立っていた。


 悲鳴を上げる前に、影が喋った。


「何だ、鳴海か」

 榊先輩だった。


「……こっちの台詞ですよ」

 心臓に悪い。

 胸に手を当て深呼吸を繰り返す。脈が狂ったように飛び跳ねている。

 榊先輩は何食わぬ顔でネットを持ち上げ、ゴミを捨てた。俺を一瞥する。


「懐中電灯はどうした。男子の部室にあるだろ?」

 確かに部室の入り口の壁に一個吊り下がっている。次は借りてこよう。

「肝試し用のが」

 やっぱりやめよう。

 思考を読んだのか、にやにやと榊先輩が笑っている。


「あれは特別製だぞ。なんせ、世界民族風俗記念日研究部の変人が、粋を集め腕に縒りをかけて作ったものだから」


 世界民族風俗記念日研究部。その長ったらしい正式名称を、ほとんどの生徒は知らない。別の名前で呼ぶ。


 オカルト研究部。


「何で、そんないかがわしいものが男子部室にあるんですか」

「賭けの戦利品。向こうが、この上着を欲しいって勝負を吹っ掛けてきたんだ」


 榊先輩が両手でジャージの裾を引っ張る。

 サイズが大きすぎて身に合っていない。それにしても、女子の上着が欲しいとは噂に違わず見事な変人だ。変態か。


「今は私が使っているが、これは先輩からの借り物だし、取られるわけにはいかない」

 納得した。借りた物だからサイズが大きいのか。


「先輩って、今の三年生ですか?」

 夏の終わりに引退した三年生。たまに部活へ顔を出してくれるが、上着の持ち主は誰だろう。女子で長身な人はいたか?


「どうかな、もっと前かな。倉庫にしまわれていたから」

「倉庫に?」


 主に巻藁置きに使っているが、確か奥に棚がある。

 新入部員の勧誘で使う看板や文化祭の装飾や古い弓道教本など、部活に関係あるものをはじめ、ボール、野球バッド、テニスラケット、フラフープ、石灰、塩、長縄、風船、お面と、遊び道具もごちゃごちゃと置いてあった。


「あのカオスの中から、勝手に持ち出したんですか」

「ちゃんと洗ったよ」

 そういう問題ではない。


「いろいろと便利だから借りている。いつか、ちゃんと返すさ」

 そそくさと榊先輩が弓道場に帰る。

 ため息をついて、その背中を追う。


 榊先輩に脅かされた心臓は平常に戻りつつあったが、明るい弓道場まで戻ると、再び飛び跳ねた。


 玄関へ入ろうとした榊先輩をとっさに呼び止める。


「何?」

「どうして、上着の色が黒なんですか」

 ジャージの上着の色は、濃紺だったはずだ。


「へぇ。鳴海は、気づいたか」

 榊先輩がにやり嗤う。何か含みのある言い方。


「他の皆は……気づいていないんですね」

「そう」


 看的小屋で感じた、違和感の正体。

 矢道と垜を照らす野外灯の光は、看的小屋と矢取り道まで届いていた。

 それなのに、矢取り道では榊先輩の姿は真っ黒い影に見えた。

 夜で屋外だったから、濃紺も黒に見えるだろうと無意識な思い込み。


 部活終わりの挨拶の時。道場内の明るい電灯の下でさえも、ひとりだけ違う色の上着を着ていることに誰も気がつかなかった。


「大丈夫なんですか? いわくつきの物じゃないですよね?」

 弓道とは違った、摩訶不思議な道を突き進む榊先輩。

 その弟子ではあるが、危険なものは見過ごせない。


「借りるにあたって名前も記したし、ちゃんと洗ったから大丈夫」

 そういう問題ではない。


 怪異とも呼べるものと平等、またはそれ以上の立場で渡り合う彼女のことだ。何もないはずがない。


「むしろ、いろいろと便利だぞ」

 雪駄を靴箱へ入れ、榊先輩は弓道場に上がる。その後を追う。

「例えば?」

「着ていれば、良くないものを寄せ付けない」

「具体的には?」

 榊先輩が眉をひそめた。


「北原みたいだぞ、鳴海。なんでもかんでも言葉で説明できるか」

「おれが何だって?」


 榊先輩と一緒に背後を振り返る。

 玄関の三和土に、制服へ着替えを済ませた北原先輩が立っていた。


「北原の石頭、眼鏡、判らず屋、現実主義者、鈍感、朴念仁、生徒会長」


 唐突に榊先輩が悪口をぶつける。生徒会長は悪口になるのか?

 別に堪えた様子もなく、北原先輩は腕を伸ばして壁に掛った名札をひっくり返す。墨で書かれた名前が表になり、帰宅を告げる。


「自主練は六時半までだぞ、榊」

「一方的だな。あと三十分で、片付けを含めて何本射込めると?」

「もう暗いから、皆と一緒に早く帰れと言っているんだ」

 保護者のような物言いに、榊先輩が反発する。

「自分は逢引するくせに」

「馬鹿か。塾だ」


 二人のやりとりを傍で聞いていると面白い。

 何処となく、他人と一線を引いている榊先輩が、その垣根を取り去っている。


 さすが幼馴染。家が隣り同士で、生まれた時から一緒に過ごしていると、独特の距離感になるのか。


「正門で可愛い一年生が待ってる。告白される」

 僅かに北原先輩が目を見張った。


「勘か」

「そう」

 眼鏡のブリッジを北原先輩は指で押し上げた。

「わかった。善処する」


 俺がその言葉の意味を図りあぐねていると、榊先輩は肩をすくめた。

「もったいないな。来年のミスコン一位だぞ」

 榊先輩の勘は、何故かよく当たる。


「……どうでもいいことに、勘を働かせるな」

「受賞の時、ある人を見返すために女を磨きましたって、言う」

 それは勘なのか。


 北原先輩は無言だった。じっ、と榊先輩は視線を逸らさない。

 束の間、二人の間で冷たい火花が咲く。

「嘘だな」

 榊先輩が目を眇めた。


「さぁ、どうかな。学祭の模擬店の何を賭ける?」

「すず屋のどら焼き」


 文化祭で特別に出店してくれる老舗和菓子屋の絶品どら焼き。長蛇の列に並ぶのは必至で、その当日整理券を裏で捌く生徒のダフ屋もいるらしい。


「限定の紫いも味がいい」

「わかった」

「よしっ。約束だぞ」

 的中の掛け声。榊先輩はどら焼きがもう手に入ったかのように、ご機嫌で胸当てと弽を準備し始めた。


「後は頼むぞ、鳴海。居残っているヤツら全員、時間になったら叩き出せ」

「はいっ」


 思わず飛び上がりそうになった。先輩の命令は絶対だが、その中でも部長命令は特別。できる、できないの問題ではない。やるしか選択肢はない。


 お疲れ、と言い残して北原先輩は帰って行った。

 ため息をついて、柱に掛った時計を見る。さて、何本射込もうか。その前に部長の絶対命令を部室へ伝えるか。


 上着を脱いだ榊先輩はさっさと射位に入っていた。立射。腰を屈め、四矢の内、一手を床に置く。


 ふと、畳の上にある黒い上着が目に入った。

 乱雑に脱ぎ捨てられている。榊先輩の射は美しく正確で手本にしたいぐらいだが、やること成すことを手本にしたら駄目な気がする。せめて脱いだ上着は畳んでほしい。他の後輩に示しが付かないではないか。


 そう思っていた矢先、ふわりと黒の上着が宙に浮かび上がった。

 風はない。

 それなのに、上着はふわふわと宙に浮いている。


「ちょっ!」

 射位へ振り向くと、榊先輩は会に入っていた。起こっている現象に気づいていない。会の時は迂闊に声を掛けられない。矢が放たれる手前の状態は、危険。


 どうしたらいいのか。もう一度、宙に浮かぶ上着を見る。上着の両腕部分が折られ、背中側へ見えなくなる。思わず目を疑う。

 上着は身丈部分で半分に畳まれ、そのまま音もなく畳の上へ着地した。


 澄んだ弦音が響く。間髪入れずに矢が的へ的中する。よしっ、とパブロフの犬のように、反射的に掛け声が口から滑り出た。


「便利だろ?」

 榊先輩が物見を返した。

 当然のことのように、次の矢を中仕掛けへ番える。


 上着が勝手に畳まれる。

 確かに多少手間が省けるが、そういう問題ではない。


「何が、良くないもの寄せ付けないですか。上着自体が立派に良くないものじゃないですかっ」

「危害は加えないから大丈夫。ちゃんと洗ったし」

 そういう問題ではない。


『黒の上着』


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[一言] 榊先輩の勘スキル、欲しいです。
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