1 競べ弓(くらべゆみ)
冊子を開く。
いつの頃だったか。
土曜の昼前に弓道場へ行くと、先客がいた。
「何してるんですか」
先生用の座布団を枕にして、弓道着姿の榊先輩が、陽の当たる道場の縁に寝転がっていた。磨き込まれた古い床板が日光で温められ、弓道場の中は仄かに甘いような匂いが満ちている。
「鳴海か。部活のない日まで自主練とは、熱心だな」
立てた膝に片足を乗せて、ぷらぷらと揺らす。仮にも女子なんだから慎みを持ってもらいたい。下手したら袴の中が見えるぞ。
「部活じゃない時でも、道場で寝たら駄目だと思います。行儀が悪いです」
「真面目ー」
けらけらと笑う榊先輩の向こう、垜を確認する。的が三つ出ていた。
「田村が来たら、三人立しよう」
「あいつ来るの、午後ですよ」
「丁度いいさ」
「わかりました」
靴を脱いで弓道場に上がる。
神棚へ一礼。
その横の壁に掛けられた自分の名札をひっくり返す。木片に朱色で書かれた鳴海貴矢の名前が表になる。榊先輩の名札も同じように在部の表示になっていた。
壁に立てかけてあった自分の弓袋から、弓を取り出す。
布で軽く拭いて、弦巻から出した弦を末弭に掛ける。弓張り――柱に設けられた窪み――を使って弦を張った。
道場の入り口にある鍵掛けから、男子部室であるプレハブ小屋の鍵を取る。ちりん、と鍵に付けられた鈴が鳴る。
ふと、疑問に思って振り返った。
「俺、田村が来るって、言いました?」
何も言わず、榊先輩は口の端を吊り上げた。微笑みと言うには冴え冴えとした表情。
「……勘ですか」
「そう」
榊先輩の勘は、何故かよく当たる。
部室で着替えて道場に戻ると、榊先輩は畳の上に移動していた。弽も胸当ても着けないまま胡坐をかいて、袴の上で古びた冊子を開いている。
「正座しろとは言いませんが……横座りとか、もうちょっと慎みを持ってくれませんか」
「部活の時は気を付けている」
「いつも気を付けてもらいたいです」
「鳴海は彼女いないのか?」
「はぁ?」
話の飛躍に面食らう。
「天気の良い土曜日、絶好のデート日和だろう。なのに弓道三昧とは、味気ない」
「余計なお世話です。榊先輩はどうなんですか」
大きな目、長い黒髪をひとつに結っている和製美人。でも、色恋沙汰の話を聞いたことがない。
「今日は、約束がある」
「誰との約束ですか?」
「さぁな」
そうはぐらかして、榊先輩は再び冊子へと視線を戻した。
何を読んでいるんだろう。
立ったまま上から覗き込むと、流れるような墨の線がのたくっていた。
「……何です、それ。書記係の秘伝の書ですか」
「まぁそうだが」
榊先輩が顔を上げる。
「鳴海はまだ読めないのか」
ということは、榊先輩には読めているのか。
「古典は苦手なんで。というか、今時そんな達筆な字を読める人は少ないでしょう」
「達筆? これが?」
小馬鹿にしたように榊先輩が鼻で笑った。何か悔しい。理系クラスのくせに、古典と日本史が学年トップの人と一緒にしないでもらいたい。
「もういいです」
「意外と短気だな」
「もういいです」
弓を弓立てに置き、その傍で弽を着ける。
親指と薬指を擦り合せて感覚を確かめる。
立ち上がって矢箱から矢を一手(二本)取り、筆粉を弓手に少しだけまぶした。細く開けた窓から差す光に、灰の粒子が舞う。
「〈中〉に入っていいぞ」
「え、でも。あの的、真新しくないですか?」
「いいから」
早くしろ、と榊先輩が追い払うように片手を振った。運動部のヒエラルキーには勝てないので、大人しく従う。
本座に立つ。一呼吸置いて足を引き、座る。
一立目は座射。自主練での自分ルール。
部活は立射で行うので、座射は公式試合と審査の時にしかやらない。せっかく動作を覚えたのに、忘れてたまるかという足掻き。うっかりご無沙汰にしていると、公衆の面前で袴を踏み素晴らしい醜態を晒す。
揖をして、立ち上がる。
擦り足で射位に入り、座る。
ひとつひとつの動作を呼吸に合わせて行う。早すぎず、遅すぎず。段々と感覚が研ぎ澄まされていく。畳の上からじっと見ている榊先輩の視線が肌でわかった。所作を続ける。
矢を番えた弓を捧げ持ち、立ち上がる。
物見を行う。
矢道の向こう、垜の小屋の周囲には、タンポポのような黄色い花が群生を成していた。昨日は気付かなかった。いや、咲いていたか? 足踏みをしながら、そんなことを考える。
ごちゃごちゃ考えを巡らせていても、不思議なもので、取懸けと手の内を整えると頭の中がしんと静まり返る。周囲の音が遠くなる。
最後の物見。
見据えるは二十八メートル先、直径三十六センチの霞的。
打起し、大三、引分け。弓手の親指の付け根――虎口と背中の僧帽筋に負荷が掛かる。矢の羽根の付け根が口元に下りてくる。口割り。力が拮抗して前後左右、天地に伸びる感覚。
会。
音が全く聞こえなくなる。時が止まる。
完全な静寂。
離れ。
引き放たれた甲矢は、直線に近い放物線を描いて宙を飛ぶ。気持ちが良い音を立てて的中した。
「――よし」
榊先輩が的中の掛け声を言った。
「よし」は定型文句だが、それにしても榊先輩が口にすると、殊更偉そうに聞こえるのは何故か。
ひとまず中ったことに胸を撫で下ろして、残心。矢所を確認しつつ、弓倒し。物見を戻し、足を引く。座る。以下続く。
乙矢も同じように射たが、今度は的枠に掠って外れた。的枠の木片が飛び散ったのは見なかったことにする。矢取りの時にこっそりと拾おう。
続けて、今度は立射で射位に入った。
座射と違って、所作が少ないので射に集中できる。一手を射て、矢を二本とも的中させる。よし。
「弓を引く時、大切なことは何だと思う?」
射位から出ると、唐突に榊先輩から質問をぶつけられた。
「何って……アレじゃないんですか」
神棚の下、壁に掲げられた横断幕。紫苑の花の紫色に染めた布地に、白抜きで「平常心」の文字。
ふむ、と榊先輩が胡坐から右膝を立てた。その上に右肘を乗せ、頬杖を突く。
「では、平常心とは何か」
「禅問答ですか? その前に、行儀が悪いですよ」
「何があっても心を揺らさないこと、じゃないぞ」
「えっ」
そうだと思っていた。違うのか。
「――在るものが、在るように在ることだ」
意味深に呟いて、榊先輩が唇を吊り上げる。そうして、矢拭き用のボロい手ぬぐいを投げてよこした。
「さっさと矢取りに行って来い」
先輩が言うことは絶対。
悲しい運動部の厳しい階級制度に反旗を翻す気力もなく、大人しく従う。弽を外して靴箱の上に置き、雪駄を履く。
「鳴海、持って行け」
差し出されたのは、自分の弓。
「矢取りに行くのに必要ないでしょう」
「いいから」
腑に落ちないが、大人しく弓を受け取った。
全くもって意味がわからない。
だが、理由を尋ねたところで、榊先輩が答えてくれるはずがない。勘と気まぐれで生きる彼女だ。もう俺から興味が逸れたようで、ごそごそと壁際の棚の下から黄色い大きな缶を取り出した。鼻歌を歌いながら蓋を開け、古い硯と筆を畳の上に並べる。
外に出て、弓道場をぐるりと回る。
崖を削り取ったような矢取り道は、木の根が侵略しているせいで足を取られやすい。
本当はいけないことだが、矢道を歩いて垜へ向かう。うっかり射殺されないよう背後を振り返ったが、榊先輩は立ちにも入らず畳の上に座っていた。そもそも、胸当てを着けていない時点で弓を引く気がない。
大後側、看的小屋の壁に弓を立て掛けて、〈中〉の的の矢を抜く。散らばっていた的枠の破片は拾い集め、適当な草叢に捨てた。証拠隠滅を完遂させる。
砂がついた矢の板付を手ぬぐいで拭きながら、改めて垜小屋の周囲を見回す。一面、どこもタンポポのような黄色い花が咲いていた。
黄色い花と言ったら、タンポポとヒマワリしか思いつかない。しかし、タンポポと断定できないのは、花がどれも中途半端な蕾の状態だからだ。筒のように窄まっていて、先っぽだけ黄色い色が見えている。
それに、葉が何やら毒々しい。
切れ込みのある濃い緑色で、ところどころが赤紫色の葉。てらてらと照りがあり、ずいぶんと分厚い。垜小屋の辺りにだけ群生しているせいか。突然変異か。
矢を拭き終えた手ぬぐいを看的小屋の雨樋に掛ける。
右足の甲で矢を揃えてから、立て掛けてあった弓を手に取った。
振り返ると、男が立っていた。
「お待ちしておりました」
驚きすぎて悲鳴も出ない。体が完全に固まった。
「お待ちしておりました」
茶色い髪を後ろで引っ詰めた、目の細い男が繰り返す。
「……俺を?」
「左様でございます」
そう言って、男が深々と最敬礼――腰を九十度に折る礼――をした。雀の尻尾のような、束ねた短い茶髪の毛先だけが黄色い。
男は濃い緑色したボロボロの着物と暗赤色のボロボロの袴を履いている。はっきり言って趣味が悪い。怪しさ満点だ。
体を起こした男が言う。
「参りましょう」
「何処に?」
男がすっと指を差した。
垜小屋の後ろ、弓道場とは正反対の方向。
ほぼグランドと等しい広さで、木々が生い茂っている場所。ただし、整地されたグランドのように平らではない。
「〈紫苑の森〉に用なんてないぞ」
「競べ弓でございます」
意味がわからない。森の中で?
「試合するなら、弓道場に行けばいいだろ」
後ろを振り返ると、弓道場がなかった。見慣れた風景ではなく、ただっ広い野原が広がっていた。
意味がわからない。
「参りましょう」
男が繰り返す。顔を前に戻すと、垜小屋と〈紫苑の森〉。もう一度、後ろを振り返るが、やっぱり弓道場がない。
「どういうことだ?」
「一緒に参りますれば、お判りになります」
怪しすぎる。
「行かないって言ったら、どうなる?」
「久遠に彷徨うことになります」
じっ、と男が細い目で見つめる。嘘はついていないようだ。尚更、性質が悪い。
「わかった。行く」
男はこの上なく怪しいが、それでも不思議と怖くはない。
「ありがとうございます」
そう言って、男はまた九十度に腰を折った。容易に最敬礼されてしまっては、こちらも困る。本来、最敬礼は神様に対して行うものだ。
「自分は新参者、ただ案内する身。射手の方へ礼を欠く謂われはございませぬ」
「……真面目だな」
けらけらと笑う榊先輩の顔が思い浮かぶ。
男の後に続いて、〈紫苑の森〉へと分け入る。
枝葉を茂らせた木々が左右から迫りくる。足元には、タンポポに似た黄色い花が群生していた。ちょっとした黄色い小道だ。頭上は木の葉に覆われていたが、思ったより森の中は明るく、静かだった。鳥の声一つしない。
男は迷うことなく森の奥へ奥へと進む。
いっこうに木々が途切れない。〈紫苑の森〉ってこんなに広かったか?
二つほど、小さな丘のような勾配を過ぎると、唐突に視界が開けた。
踏み固められた土の空き地。
その端に砂を盛っただけの、見るからにお手製の垜があった。的が二つ掛かっている。
「待っていましたぞ」
振り向くと、藤色の着物を着た老爺が立っていた。
白く長い顎鬚が仙人のようだ。本当に仙人なのかもしれない。弓と四矢を手にしている。
「さぁさ、やりましょう」
老爺の言葉に空気がざわつく。辺りを見渡すと、いつの間にか案内してくれた茶髪の男がいない。
代わりに、観客が現れた。突然、現れた。空き地の左右に分かれ、茣蓙を敷いて座っている。一見、和服を着た単なる暇人たちかと思ったが、ちらほらオカシイのが混ざっている。膝丈ほどの小人や一つ目の花魁、水干姿の牛頭馬頭なんぞ初めて見た。
「どうされましたかな?」
好々爺の風情で仙人が訊ねる。ギャラリーを気にしていないのは、慣れているからか。それとも仲間か。
「いえ。それより、立ち順はどうしますか」
この際、細かいことには気にしないでおこう。さっさと射て、さっさと帰ろう。
「貴殿がお決めくだされ」
仙人のお言葉に甘えて、後を選んだ。見るからに相手の方が年上だし、先を譲るのが礼儀というもの。
「あっ、しまった」
うっかりで済まされない、大失態をした。
「どうなされた」
「弽を忘れて来ました……」
弓道場の靴箱の上だ。
「ほっほっほ。心配せんでもよろしい」
何故か仙人は笑う。
「念じなさればよい」
「念じる?」
「左様。念じなされ」
からかわれているのかと思ったが、仙人は本気だ。
「弽はとうに着け終え、支度はできていると思いなされ」
「はぁ……?」
矢を弓手へ持ち替え、目を閉じて想像する。
右手に弽は着けたと。いつものように親指と薬指を擦り合せる。革越しに指が擦り合う感覚。
「あれっ」
目を開けると、右手に弽をしていた。革のくたびれ具合から、確かに自分のものだ。
「ほっほっほ。用意はよろしいか」
仙人も準備を整えたようだった。袖が組紐で絞られ、いつの間にか弽を着けていた。頭の中で古典の教科書のページを捲る。藤色の着物だと思っていたが、狩衣だったのか。
仙人と並んで、射位に入る。
射位と言っても、地面に置かれた藤蔓を左足で越えてはいけない、という簡素なものだった。弓道場ではない、野外での射は初めてだったので、そういうものかと納得する。
地面に突き刺した竹筒へ一手を入れる。地面に直接置くのと違って、矢を取るのにわざわざ腰を屈めなくていい。ありがたい。
立ちは立射だった。
後ろから見ると、仙人の背筋はぴんと伸びている。ゆっくりと取懸け、手の内を整えている。仙人が物見をすると、場の空気が張り詰めた。
すぅっと煙が立ち上る如き打起し。
力む様子もなく、引分けから会へ続く。ひとつひとつの動作が自然に繋がっている。その射に、思わず見惚れた。
吸い込まれるように的へ矢が中る。
観客が喝采を上げる。
「ほっほっほ」
朗らかな仙人の笑い声に、勝負心をくすぐられた。試合と言っても、時間制限はないようだ。
ゆっくり息を整え、丁寧に取懸けをする。弓手の手の内を整え、物見。呼吸に合わせて弓を打起こす。見知らぬ場でも、体に叩き込まれた動作は委縮することはない。大きく、伸びやかに、弓を引く。
中白に矢が中ると、観客がざわめいた。やんやと囃したてる。その声がいくつか、言葉ではなく動物の鳴き声のような気がする。深く考えない方が無難だろう。
「良い矢飛びだこと。性根が真っ直ぐな証ぞ」
ほっほっほ、と仙人が笑う。試合中でも喋っていいのか。
「……ありがとうございます」
「ほっほっほ」
仙人は楽しいらしい。
ご機嫌な鼻歌でも聞こえてきそうな背中。二射目、三射目とぽんぽんと中てる。
かっこいいな、と思う。
気負わず、自然体の射。本当に弓が好きなんだろう。誰かと弓を競うのが楽しいのだろう。見ている側もわくわくしてくる。観客がとても賑やかだ。
俺も仙人に続き、二射目と三射目を的中させた。
「なかなかだなぁ、人の子よ」
皺だらけの手で、矢羽根を撫でる。最後の矢。仙人はひとつ頷き、矢を弦に番えた。しん、と辺りが静まり返る。幾つもの目が、仙人の射を見守る。
引分け。
きりきりきり、と静寂の中で弦が鳴く。
ぴたり、と弓を引く動作が止まった。
会。
空気が極限まで張り詰め、そうして矢は放たれた。
さくっ。
ひどく軽い音を立て、垜に矢が刺さる。
はあぁ、と盛大なため息が観客の口から零れた。的を外した仙人は悲しそうに眉を下げる。
「残念、皆中を逃してしまったのう。……さて、お主の番じゃ」
射位から出た仙人がこちらを振り向く。
じっと見つめられ、心臓が飛び跳ねた。
一気に緊張した。
急に指先が冷たくなり、手が震える。呼吸が浅くなる。
まずい。
――弓を引く時、大切なことは何だと思う?
耳元で榊先輩の声が蘇った。脳裏に、紫苑の紫が翻る。
平常心。
在るものが、在るように在ること。
息を深く吸った。ゆっくり、時間を掛けて吐き出す。じんわりと腹の底が温かくなる。飛び跳ねた心臓が落ち着くまで、繰り返す。時間制限がなくて良かった。
やがて手の震えが止まる。
矢を番え、手の内を整える。物見。観客が息を潜めたのがわかった。
打起し、大三。
すっと視界が狭まる。
頭の中が靄掛かったようにぼんやりとする。それでも意識の根底、どこかの片隅は冴えている。引分け。
会。
まったくの無音。渡る風も、囁く観客の声もない。自分は今、ちゃんと弓を引いているのか、それすらもわからなくなる。
久遠に続くような静の時間。
それでも、その瞬間はやって来る。
ぷつり、と張り詰めていた糸が切れる感覚。
次の瞬間、甲高い的音が鼓膜を振るわせた。
矢が的に中った。
「見事、見事。皆中ぞ」
仙人の言葉に、土砂降りのような拍手が湧いた。わぁわぁと、観客が声を上げている。奇声を発しているものもいる。
「目出たい矢は、自ら抜くが良い」
さぁさ早く、と仙人は笑いながら急かす。観客も口々に「早く、早く」と言うので、小走りで垜へ駆け寄った。
早く、早く。
「……そう言われても、弽を外さないと。弓もどこかに置きたい」
早く、早く。
仕方がないので、立ったまま弽を外すと弓道着の懐に突っ込んだ。本当はいけないのだが、弓を持ったまま的を押さえる。右手で的に刺さった四本の矢を抜く。
「後ろにもう一本ありますぞ」
仙人の声に、後ろを振り返る。
見慣れた矢道の地面に、自分の予備の矢が一本刺さっていた。その向こうには、見慣れた弓道場がある。
「よう。おかえり」
道場の縁で、胡坐をかいた榊先輩が日向ぼっこをしていた。
「……帰って、来た?」
周囲を見回すと、いつもの風景。
弓道場と垜小屋のちょうど間、矢道の中央に立っていた。
「競べ弓には勝ったようだな」
「何でわかるんですか」
にんまりと榊先輩が笑う。
「矢拭き用の手ぬぐいを貰っただろ」
弓手に自分の弓と、真新しい白い布を握っていた。
看的小屋を振り返る。雨樋に掛けたはずのボロい手ぬぐいが消えていた。
「藤の翁との勝負に勝ったら、その手ぬぐいをもらう約束だ」
藤の翁とは、あの仙人のことか。
「負けたら、どうなるんですか?」
「矢取り道で怪我する部員が増える。転んで骨折したり、頭上から太い枝が落ちてきたり」
好々爺の見掛けに依らず、存外に危険な存在だった。
榊先輩は立ち上がり、畳の上へ移動した。引っ張り出してきたのだろう、古い文机の前に正座する。
「ぼけっと突っ立ってないで、こっちに来い」
先輩命令には絶対服従。
地面に突き立てられた予備の矢を抜き、弓道場に戻った。矢を矢箱へ戻し、弓を弓立てに置く。
「俺の矢、榊先輩が矢道に刺したんですか?」
「そう」
硯で墨を磨りながら、榊先輩が頷く。ふわりと墨の香りが道場内に満ちる。
「あんまり長く〈向こう〉にいると、帰って来れなくなるから。目印」
慌てて柱に掛かった時計を見た。カチリと長針が動く。まだ十分と経っていない。
「時間の流れ方が違うんだ」
競べ弓の時間制限はなかったが、滞在時間に制限があったのか。
「感謝しろよ」
ははー、と榊先輩に向かって深々と頭を下げる。
「よかったな。『名にし負はば』を経験できて」
「……なんでしたっけ、それ」
「古今和歌集より。『いざ言問はむ都鳥』」
――都という名前を持っているのならば、都のことも知っているだろう。さぁ、尋ねてみよう、都鳥よ。
そういう意味の和歌だと教えてくれた。
「名前ですか」
「名前だよ。貴矢」
榊先輩に呼ばれ、背筋がぞくりとした。目を眇めて、榊先輩は冴えた表情で俺を見ている。
名前。
そういえば、垜小屋の周りに群生している黄色い花は何というのだろう。
「野襤褸菊。案内してくれたヤツ」
「案内……茶髪で髪を縛った男ですか?」
「趣味の悪いボロボロの着物を着た男だ」
座ったまま、榊先輩が腕を伸ばした。棚からハンディー植物図鑑を抜き出す。文机の上に置き、野襤褸菊のページを広げた。
「野に生えるボロギク。ボロギクはサワギクとも呼ばれ、まぁ見た目がボロいというのもある。黄色い花はどれも蕾のようだが、実はちゃんと咲いているぞ。筒状花といって、そうやって咲く花なんだ」
榊先輩の正面、こちらは板張りの床に正座して、ページを覗き込む。載っている野襤褸菊の写真と、男の印象が重なる。
「元は西洋原産。明治初期に渡来ってことは、この辺りでは新参者だな」
ページの終わりに花言葉が掲載されていた。曰く、〈相談〉〈合流〉〈遭遇〉。
意識の上で、何かがぴたりと合わさる。
同時に、何とも言えない居心地の悪さを感じ、肌が粟立った。知らない内に導かれた予定調和。
「……榊先輩が言っていた今日の約束って」
にやりと彼女が嗤った。
「良い勘だ」
植物図鑑を閉じて、古い冊子を広げる。榊先輩がさっき読んでいた、書記係の秘伝の書。ミミズのようにのたくっていた墨の線が、今は文字を成している。
「ここだな」
トンッと榊先輩の指がある章を示す。目が墨の文字を追う。
――野襤褸菊に案内され、藤の翁と競べ弓する語。
読める。
顔を上げると、榊先輩と目が合った。
「どういうことですか」
「そういうことだよ」
「意味がわかりません」
読み進めると、体験したことがそのまま記してあった。書き残した昔の先輩も、やはり藤の翁との勝負で勝ったらしい。
「毎年、競べ弓をするって約束なんですか」
「そう」
「野襤褸菊に、藤の翁。それに観客たち……アレって何ですか」
「ああいうものだ」
「意味がわかりません」
真面目なヤツだなぁ、と榊先輩に呆れられた。
「在るものが、在るように、在るだけだって。そこに理由なんてない」
「そんな無責任な」
「いいから。つべこべ言うんじゃない」
榊先輩が古びた冊子の新しいページを開く。筆を手にして、その穂先を墨に浸す。
「ほら、お前の番だ。書き残してやるから、語れ」
運動部において、先輩の命令は絶対。
諦めて姿勢を正す。筆を持った榊先輩が待ち構えている。
視界の隅で、紫苑色の横断幕が風もないに揺れた。
『競べ弓』