退屈しのぎの一団の話 5
朝日が昇る頃に、マクシミリアンは起床した。彼は直ぐに銭袋に手を伸ばし、毎日の日課のように金勘定を始めた。
外の雪は微かに積もっていたが、動けないほど強烈なものではなかった。
頭の中で、これからの旅順を考える。帳簿にある債務と債権、そして手元の金を念入りに調べた。仮に、この町を出て行く際にものを仕入れられねば、いくらの損害になるか。仮にも金にがめつい商人であるため、決して無駄遣いをする方ではない。然し、ここを出て行く際に多少の商品を担いでいかなければ、次の街での商売に支障をきたす。マクシミリアンは大きなため息をついた。
彼の馬車に乗せていた商品は羊毛、絹織物、そして食器だった。どれも日持ちするものではあるが、フランスへ向かうまでに別のものと取り替えてしまわなければ、とても売ることができなくなる。だからと言って、この町に彼の念願を叶えてくれる市場は、今は無かった。
気持ちを切り替えるため、桶とタオルを手に水場へ向かった。
水場にはマルガレーテが既にいて、顔を洗っていた。朝日が照り返した桶の水は輝き、顔を上げたマルガレーテは一層艶やかに見えた。
「お早うございます」
マクシミリアンがいうと、マルガレーテは少し恥じらうように微笑み返した。
「マックス、お早う。いい朝ね」
「はい。今日も絶好の講談日和ですね」
マルガレーテは微笑んだまま、そうね、とだけ言った。
マクシミリアンは一旦部屋に戻り、服を整えてから、今度はロビーへ向かった。ロビーでは、カールとヤンが朝食の準備をしていた。カールがマクシミリアンに気づくと、片手を上げて挨拶をした。
「お早うございます」
マクシミリアンがそう言うと、テーブルに皿を並べていたヤンが手を止めて深々と礼をした。
「お早うございます。すいません、気がつかなくて」
「お早う。いい朝だね」
マクシミリアンは暖炉に木を焚べた。暖炉の火が勢いよく燃え上がると、マクシミリアンの手に穏やかな熱を浴びせた。冷えた手には暖かかった。
カールがパンを運んでくると、質素ではあったが朝食としてはまずまずの献立が揃った。
マクシミリアンはヤンに勧められるままに座った。
「朝、お早いんですね」
ヤンが言うと、カールが呟く。
「マクシミリアン氏は忙しいからね」
「そんな、ただの職業病です」
穏やかな朝の光を受けながら、三人は大した内容のない世間話をした。暫くするとマルガレーテが、続いてレオポルト、アブラヒム、マティアス、ジェームズ、ウィリアム、イワン最後にピョートルが降りてきた。レオポルトはピョートルに対して小さく礼をしただけで、特に何も言わなかった。
朝食を終えると、アブラヒムが一杯の水を飲んでから切り出した。
「さて、今日はマルガレーテさんからですね」
「まだやんのかよ」
ピョートルが呟くと、アブラヒムは一瞥して言った。
「一度始めてしまった以上は、致し方ないというものです」
「マルガレーテ様のテーマは」
マルガレーテは、ヤンの言葉を遮った。
「良いわ、わかってる」
彼女はいつになく小さな自信のない声で言った。
「不幸な恋人たちの話なら、私はたくさん知ってるわ」
沈黙が場を支配した。いつになく真剣なのはマルガレーテだけでなく、マティアスもだった。
穏やかな光が差し込む。高く、然し落ち着いた声で、マルガレーテが語り出した。
私は、イタリアの出身なのは話したわね。そう、芸術を愛する、イタリア。恋人たちだけではなく、観光客もいっぱい来るの。そして、出会いがあるの。時には笑い、時には恋に憂う人々をたくさん見てきたわ。女性だけじゃないわ。男性もよ。イタリアにはね、恋人が集う場所がたくさんあるの。愛を育むために、ある時は泉に、ある時は教会に。そんな場所だから、いつも建物には気を遣っているの。私たちも、それから建築家たちも……。
私の友人に、建築家の子がいるの。男の子よ。彼は、古くからある由緒ある家系の出身のお嬢様に恋をしていたの。何時も、周りの眼を盗んでは、一緒に会っていたわ。私がまだ酒場で仕事をしていた頃、彼女達のことはよく見たの。本当に仲が良さそうだった。 彼らを見かけると私はいつもワインを一杯サービスしてあげるの。本人達は余分に貰ったことは気づかなかったわ。彼ら、楽しくお喋りしていたから。
何となく彼らのことは気になっていたから、二人きりの時はさすがに話せないけれど、女の子とはよく待ってる時にお話ししてたの。それで、彼女が彼のどんなところが好きかとか、どんなことをしている時が楽しいかとか、他愛のない話をしていたわ。でも、二人ともすごく思い合っていた。私は木製ジョッキを片付けながら、あるいは注文のついでに、彼女の話を聞いて、羨ましい、と思った。
そんな日々を続けていたある日の事。彼が一人で、店に来たの。いつもは彼女が先に来るか、一緒に来るかだったから、不思議に思って声をかけてみた。すると、彼は顔を上げずに、しばらく黙っていた。やはり妙に思うじゃない?決して忙しい時間帯ではないけれど、持ち場を離れるわけにはいかないから、彼の話を聞こうと気にかけながら、仕事を続けていたの。暫くして、彼から声をかけてきたわ。
「あの……。彼女のことで、相談が……」
「どうしたの?私でよかったら力になるわ」
店の人の往来はそこまで多くないから、彼の消沈した声でもよく響いたわ。すごく痛ましかった。
「彼女と喧嘩をしてしまって……。謝らなくてはいけないのですが、何が原因かわからないのです」
彼はとても心配そうに言ったの。でも、そういうことなら協力しない手はない。私は喜んで協力しようとしたわ。
「わかった。じゃあ、それとなく聞いてみようか?」
「本当に?有難うございます!」
彼の晴れやかな顔が今でも思い出せる。彼は暖かいお肉料理と少し高価な酒を買って、晴れやかな顔で帰って行った。
家に帰った後、私は彼のために早速行動に移した。まず、彼女に遊びに行く連絡を出した。なるべく自然に、言葉を選んで書いたわ。翌日には承諾をもらい、私は安堵したわ。しかもそこには悩みがある、という添え文もあったの。まだ二人は思い合っていたのよ。だから、全力で応援することにしたわ。
私は約束の場所で会って、暫くは二人で一緒に遊んだ。その後、私の働いている店で話し合うことにしたわ。彼女は席に着くと、開口一番、悩みをを話してくれた。
「私、あの人にひどい事を言ってしまった……。でも、彼も彼なのよ?いっつも建物のことばかり考えているの。私のこと、興味ないみたいに」
「そんなことはないわ。彼、すごく気にしていたわ。だから、大丈夫よ」
その時、カラン、というベルの音が鳴り、仕事を終えたごつい職人たちが入ってきた。彼らは常連客だけど、素行はあまり良くなかったの。騒いで、騒ぎまくってたのね。だから、なるべく関わらないように小声で話しを続けたの。
「建物のこと……建築家さんだったわね。やっぱり、仕事のこともきになるのね」
「だからって、私にそんなに言われても困るわ」
「でも、私も仕事、好きよ?だから、気持ちわかる。共通の趣味でも見つけたいんじゃないの?」
「うーん、でも……」
「あなたの事を一番に思っているからこその行動だと思うの」
私たちが話に夢中になっていると、奥から大きな人影がこちらに向かってきた。それは、先ほどの常連客だった。その目には、下心が映っていた。
「おい、嬢ちゃんたち、俺たちの話に付き合っておくれよ。」
その声に、私は毅然と答えた。
「あらありがとう。でも私達は大事な話をしているの。ごめんなさいね」
そう言うと彼はふん、と鼻を鳴らし、私の向かいにいる彼女を乱暴に担ぎ上げた。
「ちょっと、あなた達、何するのよ!」
私の叫びも虚しく、彼女は強引に男達にてを引かれて奥のテーブルに連れて行かれてしまった。
私は彼女を連れ戻すことはできなかった。私は店長を呼びに行って、彼らの姿から一瞬目を逸らした。店長を連れて来た時、彼女は服を思い切り引き裂かれていた。白い肌が露わになるたびに、男達の歓声が聞こえて、あるものは足を、あるものは胸を触った。
店長はまず私に町の自警団への連絡を依頼し、自らその中に飛び込んで止めようとした。彼は華奢な男だったから、その姿はあまりにも頼りなかったわ。体もガタガタと震えていた。仕方ないわよね、冷静に考えたら。
私は自警団を呼びに走った。帰路につく人々は煙たそうに私を見たでしょうね、何人にもぶつかったわ。
そして、自警団を連れて店に戻ってきた時、私はあまりの出来事に言葉をなくしたわ。そこでは、ボロボロの服で床に放り投げられ、店長がその介抱をしていた。そして、何よりも、先ほど店にいた男達は集団になって、一人の男を、ボコボコにしていた。それは……誰か、わかるわね?
すぐに自警団は取り押さえに行った。屈強な自警団数名に取り押さえられた男達の隙間から、ボロボロの彼の姿がーそれは、もう変わり果てた姿でー残っていた。
施療院に運ばれた彼は、うわ言のように彼女の名前を呟いていた。彼女は、祈るように彼の手を取っていた。私は、その様子を眺めて、心を痛めていたわ。翌日、私が施療院を訪れると、彼は亡くなっていた。仕方なかったの。誰一人、悪くないわ。強いて言うならば、私が先に自警団を呼べばよかったのよね……。
建築家として、彼が遺したものは、自分の家、隣村にある幾つかの建物、小さくて、見すぼらしいけれどとても使いやすい集会所、小さな占い師の館……数えると、ささやかでも、とてもたくさんのものを、遺していたのよね。
そして、彼が遺した一番大きな建物が、教会。正確には、田舎司祭の依頼で改築された聖堂だった。
聖堂の先にある天使の像は、どことなく、彼女に似ていたわ。
「えっと……」
ヤンは、悲しそうにマルガレーテを見つめている。マルガレーテは、小さく微笑んだ。
「大丈夫よ、ありがとね」
ヤンの頭を撫でる。ヤンから顔を逸らしていた。彼女は、暫くは真横を向いて撫でていたが、やがて俯いた。
ほろり、と落ちるのは小さな雫。
レオポルトがゆっくりと、天を仰ぐ。
「か弱き、勇敢な騎士に、祈りを。天での平安を」
アブラヒムはその言葉に小さく頷き、祈りの口上を述べる。ロビーの全員が十字を切った。
「それで、女の方はどうなったんだよ」
暫くの沈黙の後、ピョートルが口を開いた
「……今も、元気でやってるわ。もちろん、独身で」
「健気なこったな」
ピョートルは興味もなさそうに肘をついた。レオポルトが苦虫を噛むような表情をする。
「まぁ、頑張れよ」
ピョートルは、顔も向けずに言った。
「さて、次の方は……?」
アブラヒムはそう言うと、マティアスが控えめに手を挙げた。
「私です。まるで劇のような素晴らしい話の後に、話をするのは非常に恐縮ですが……」
マルガレーテは微笑んでいた。マティアスがその姿を見て、一息つく。
「さて、テーマは不幸の後に幸福に巡り合う恋人達の話です」
マティアスは安堵の表情を浮かべた。
「えぇ、こんな陰気な冬の時期、暗い話ばかりでは心まで冷えてしまいます」
マティアスは、普段の彼からは想像できないほどの饒舌で語り出した。