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黒い霧  作者: 民間人。
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幕間の物語 その1

 昼間は賑やかだったロビーにも、夜の帳が覆い尽くしていた。人災のあとには静寂が包み込み、宿主だけが受付で微睡んでいた。中央にある階段を一番上まで登れば、静かで薄暗い廊下が現れる。そこから一番奥の扉からは金勘定をするようなジャラジャラという音が聞こえる。その手前の部屋には騒がしい宝飾の擦れるような音がこれ見よがしに聞こえてくる。扉の先の音は本来は聞こえない。しかし、外も中も一切音の無い今日だけはよく聞こえるのだった。一番手前の扉をノックする。扉の先からあからさまな舌打ちが聞こえた。ガチャリ、という音がする。


「失礼致します……」


 僕はその扉をゆっくりと開く。見慣れた不機嫌な顔がこちらを向いていた。


「なぁんだ小僧かよ……用事か?」


「あの……お時間、宜しいでしょうか……?」


 僕は扉をしっかり締めてピョートル氏の前に立ち、なるべく失礼のないように言った。


「寝るので忙しいけど。しょうがねぇなぁ、座れよ」


 彼は自分の座っていただろう椅子を引っ張り出して、僕の方に寄せた。更に、机を手前に引っ張り出し、ベッドに腰を下ろした。


「あ、有難うございます」


 僕はその椅子に座った。ほんのりと熱を帯びている。ポケットの中の黒ずんだ銅貨を握りしめながら、暫く下を向いていた。今日のことを謝らなければならないと思った。騒ぎを起こしてしまったのはレオポルトさんだとしても、僕が止められなかったことがこじれにこじれた原因だからだ。


 正直、ピョートル氏のことは苦手だ。この宿に厄介になって二日目、来た途端に怒鳴り散らしてカールさんを呼び、少ない銀貨を放り投げてさっさと三階に登って行ったのが出会いだ。その時は、何て人だと思った。銀貨を拾い、カールさんに渡すと、カールさんも困った顔をしていたものだ。翌日直ぐに市の代表会議が始まり都市の門が封鎖されると、ひどい宿に縛り付けられたと半ば強引に僕に銀貨を投げつけた。小僧だと思われたらしかった。そんな横暴な彼であったとしても、迷惑をかけたし、僕のために怒ってくれたのが嬉しかった。そのお礼も言いたかった。


「なんだよ」


 刺すような視線と、眉間の皺の深さに狼狽えつつも、僕はピョートル氏の顔を見た。


「あ、あの……今日の夕方に迷惑をお掛けした事を謝りたくて、ですね」


 僕は口の中で呟くように言った。


 彼はキョトンとして暫く黙っていたが、ようやく思い付いたように目を逸らした。


「あの時か。気にすんな。あれはお隣さんが悪いだけだろ?」


「いえ、でも、ピョートルさんに迷惑をかけたわけですから」


 彼は大きなため息をついた。彼は頭を掻き、益々僕から目を逸らした。


「あの……」


「いや。てっきりあれかと思ってさ。アレ。銀貨の分は断るわけにいかねぇし」


 レオポルトさんから貰ったもののことだろう。僕はどう反応するべきか悩み、下を向いた。彼は思い切りベッドに横になり、そのままため息をついた。


「気にすんなって。めんどくさいガキだな」


 静かな部屋は蝋燭などの火もつけられておらず、とても暗かった。宿の各部屋に常設された蝋燭台も酷く寂し気げだった。


 降り出した雪はひらひらと舞い降りてきて、外の姿を白く染めていく。ピョートル氏は天井を見つめながら、目を瞑っていた。


 気まずくて、僕が帰ろうと立ち上がると、ピョートル氏は突然喋りだした。


「雪の音がする……」


「雪の……音?」


 耳を澄ませても、かすかな音さえ届いてこなかった。彼が細く目を開いて、ぼんやりと天井を眺めている。


「俺の故郷では、こんなに穏やかに雪が降るなんて珍しいことなんだぜ。いつも、皮が剥けそうなくらいにひどい寒さでさ。家をまるまる燃やしても有り余るくらい、暖炉に木を焚べるんだぜ」

「大変なんですね……」


 僕はもう一度椅子に座った。彼はゆっくりとこちらを向く。夜の底が、白くなっていく。

「もし、雪で家が崩れたらとか、考えたことないよな?」


「は、はい」


 小さな雪が無数に空から降ってくる。その度に、ピョートル氏は小さく鼻歌を歌った。


「……下手くそだろ?」


 唐突な自嘲は僕を困らせる。やはりこの人は、苦手だ。


「いえ、そんなことは……」


「俺じゃねぇ、雪だ。雪。雪は、教会のピアノだ。がきが弾いてるみてぇなひどい音を出す」


 寝返りをうつ。彼はしっかりと僕から顔を背けた。


「それでも、故郷を思い出す」


 僕は、何も言えなかった。彼は、そのまま小さな寝息をたててしまった。なるべく音を出さないように外に出て、カールさんを呼んでマスターキーでその扉を閉めてもらった。


「話はできたかい?」


 僕は、微かにはにかんだ。


「はい」


 カールさんは僕の頭を撫で、階下へ下りて行った。僕は暗い廊下に暫く立ち尽くし、ゆっくりと、足並みを整えながら階段を下りていく。夜の帳が、僕の体にゆっくりと染み付いていった。三階から二階へと階段を下りている途中、ガチャリ、という音とともに、二階にある一番広い部屋の扉が開いた。僕は、構わずに階下へ降りて行った。怒鳴り声が聞こえる前に、さっさと退散してしまえばいい、そう思った。


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