皇帝の場合
何としても生き残らなければならない。この国にとって、私はすべてなのだ。
故郷を離れて、見殺しにして、私はこの町まで来た。この辺りは昔から病が流行するまでに暫く時間差がある。伝播して暫くすれば、故郷の町に戻ることができる。私はベッドから起き上がり、窓の外を見た。実に美しい陽の光が、ゆっくりと天へ登っていこうとしていた。
下人が私の様子を見に来た。私は彼の助けを受けて支度をすませると、食堂へと向かった。静かな食堂の厳しい寒さに耐えながら、私は防寒用の膝掛けをかけた。 広い食堂の高い天井には、天使や聖母などの豪華で高貴な絵画がちりばめられている。どの絵も見事なもので、ここが外の世界とは別世界であることを約束している。食事の用意が済んで暫くは、私はその絵に魅せられていた。
人々は神に祈らずには生きていけない。私にとって、俗世の支配者であるということは、決して幸せなことではないのだ。あの歴史的な敗北を喫して以来、私たちは帝国を完全に失った。帝国の諸侯たちは各々が好きなように活動するようになり、私たちは肩身の狭い思いをすることになった。一致団結して、神の庇護を得られなかったことは、非常に残念に思うし、彼らが異端へと歩み出すことに憤りを感じないわけにはいかなかった。それでも、彼らの暴走を止められなかったのは、他でもない私なのだった。暫くすると、貴族たちが丁寧に私に挨拶をしてくるようになった。もう直ぐ一日が始まる。
取り巻きの貴族たちが見守る中、食事が始まった。繊細な野菜料理や、よく塩を使われた豪華な魚料理、スープ、そしてパン、最後にはデーセルも運ばれ、浮き足立った会話が賑やかに響いた。
談笑、そして、談笑。あの敗北からもう直ぐ四十年になるだろうか、早いものだ。私もずいぶん老けた。そして、随分世俗に汚されたものよ。賑やかな食堂からは、あの時の屈辱はもはや消えてしまったのだろうか。
そして、あの町のことも、彼らは忘れているのかもしれなかった。
「陛下、会議のお時間です」
「うむ」
私は重い腰を上げた。できることならば、静かな部屋で一人、バイオリンなどを引いていたい。あるいは、教会に祈りを捧げてみるのもいい。多忙な毎日を送ると、どうしても疎遠になる静寂が、待ち遠しくて仕方がなかった。
「首都の防疫の件については・・・」
会議の話題は連日この話題で始まる。現在、外部からの人々の往来を禁止している。首都から外に被害を伝播させないことも、首都に新たな菌を持ち込ませないことも、重要な要素である。
「私は、カーニヴァルまでには収束して欲しいと思うのだが、どのような手が有効と考えるか?」
私は、思ったとおりの事を口にした。都市の人間にとって、今必要なのは間違いなく病の終息であるが、その次には首都に景気を戻さなければならない。
「まず、検疫が挙げられるでしょう。 外部の人間が来る際には、やはりその者からの病源に対応すべきでしょう」
医師は答えた。
「なるほど、やってみる価値はあるね。しかし、私が思うにここは一つペストの被害の少ない町を参考にしてみたいと思うのだ」
「お言葉ですが陛下、既にヴェネツィアが検疫が有効である事を証明しております。無論、その他の対策を講じる上で、陛下の御意見は大変有効なものでございましょう。しかし、まず、検疫が必要かと思われるのであります」
医師は私に訴えた。彼の言葉は理に適っている。私の考えに加え、検疫をすることで外との交易を保ちながら、首都の衛生を保護できるならば、これほど素晴らしいものはない。
私は髭を構いながら、医師を一瞥した。医師はそれをどう捉えたのか、急に顔を下げてしまった。私は彼の様子を哀れんだ。周囲には権威を持った貴族が、目の前には元聖職者の皇帝がいるのだから、言いたいことも言えないのだろう。一人の兵士が彼を外に追い出そうとした。いけない。私は咄嗟に静止した。
「待ちなさい。君の意見は飲もう。勿論、それは重要なことだ。そして、私の意見も聞いてくれ。都市の人々の中で、無事な人々の特徴・・・例えば民族や、その文化のようなものを・・・調べてはもらえないだろうか」
兵士は彼を離してやった。彼はそのまま立って、陛下、と呟いた。貴族たちがざわめいている。私の采配が理解できないのか、それとも、医師に対して不満があるのか、そこまではわからなかった。医師は、ゆっくりと席に座り、涙が溢れるのをこらえながら、搾り出すように言葉を放った。
「わかりました。ペスト医師らに指令を出し、調べさせます。陛下は是非、具体的な検疫の方法をご検討くださいませ。えー、これは、各都市の検疫に関する資料でございます」
貴族たちは資料を眺めながら、あくびなどをしていた。目がとろんとしている。彼らは自己の利益にしか興味のない存在なのだろう。私に資料が渡されると、彼等は急に真剣な顔に変わった。不思議と腹は立たなかったが、私はその態度に納得がいかなかった。彼等の故郷はまちまちであるが、それでも、首都がどうなってもいいなどとは思わないはずだ。
医師は不安そうに私の顔を窺っている。私はその資料の、目次に視線を落とした。目次には、各都市の検疫方法についての記録があった。その中に、フランスはなかった。私はその資料にある通りの言葉を残して、検疫の方法とした。医師は胸を撫で下ろした。会議は休憩に入り、次の議題は外交に関することであると告げられた。
ガラスの水差しを持った下人が議場の机にある銀のコップに水を注いでいる。彼等はいつもせわしなく動き回っている。貴族は談笑をしながらその水を当然のように飲んでいる。宰相が私の元に水差しを持ってやってきた。
「失礼いたします」
彼は私のコップに水を汲んでくれた。私が礼を言ってそれに口をつけると、彼は満足げに綺麗な歯を見せた。
「・・・しかし、やはり我が国の貴族はどれも騒々しいね」
「・・・わが国は娯楽の都でございますので、このように賑やかになるのかと思われます。
・・・注意したほうが良いでしょうか?」
私は首を横に振った。賑やかなのは私は好きだ。皆、神の下に平等に笑えればいい、とも思う。しかし同時に、私はその上に立たなければならないこともよくわかっている。私は、議場の高い天井を見上げた。
「できることならばフランスには目をつけて欲しくないものだ。いや、無論そんなことはできないのだが」
国務大臣の言葉であった。開廷と共に静けさを取り戻した議場には、先ほどの医師の姿はなかった。
「やつらは血気盛んで困りますなぁ。いやはや、契りを結んで黙らせるという手もございますが」
ある貴族が私の方を見た。帝国の貴族も皆、私に協力的なわけではなかった。
「良い提案だが、あれがそれで黙るとはとても思えんな。帝位だけは守ったのだ。あれにチャンスを与えることはあるまい」
その貴族は、私の答えに不満なようだった。
議長が話を制止して、「意見」に限るように忠告した。私の国には、敵だらけというわけではない。
会議というのは微妙なバランスで動いている。さっきの貴族は、普通なら首をはねられるのかもしれないが、そんなことをすれば、またハンガリー騎兵を動かさなければならなくなる。皇帝が動かすことはできても、その出費は笑い飛ばせるものではない。なるべくならば彼等には黙って見ていてもらいたいし、彼等の恩を買ってしまえば、我が家の立場はますます萎縮する。本当ならば、私はこの場所に座るべきではなかったのだ。
「陛下、如何なさいました?ご気分が優れませんか・・・?」
宰相が心配そうに言った。私は首を横に振った。そういうことではない。そういうことではないのだ。
国内ならばハンガリーの挙動など、山積する問題にしきりに意見を出してくる貴族たちがいる。国外に関することならば、大量の貴族が私の意見に反対をすることは少ない。帝国の会議と比べれば、基本的には利害が一致していることが多いからである。それを考えると、私が一言、保留と叫んでしまえばいいのかもしれないが、フランスとの付き合いについては早急に対処しなければならない。大国同士の外交というのは、利害対立の形が顕著に出るので、厄介極まりない。武器で脅すこともままならない現状では、周辺諸国への懐柔策で国をまとめるか、こっちから近づくのが良いと思うが、何れにせよ国内の混乱を解決するのが先決だった。
「では、内政に関してですが・・・何か意見はございますか?」
人々はこぞって利害に関する要請を繰り返し、ぞろぞろと意見が上がる。それに対して反論が飛び交い、静かな議場は一転して怒号が飛び交い、目が回るほどの要求について話し合われた。
私はその一つ一つを、その場その場でかわしながら、次の会議には忘れてしまう。消したい、と思っているのかもしれなかった。騒々しくなった議場に向けて、議長が必死に声をはりあげる。そして、混沌とした議場の中で、予定の時間が来てしまった。
夕食が運ばれた食堂には、顔なじみの人々が招かれている。私は彼等一人一人に丁寧に挨拶をしてから、席についた。
豪華な食事に舌鼓をうち、気の合う友人たちとグラスを掲げあい、談笑する。食事とは誠に良いものだ、と感動する。話が合わなくても、食事の評価についてなら盛り上がることができる。彼等のざわつきも、決して政治的理由による駆け引きだけではない事に、喜びを感じた。私が目指した道は、皇帝になることなどではなく、音や笑いに満ちた、ささやかな修道生活であった。その夢が断たれた今、この食事の賑わいとひとり音楽に勤しむ時間のみが、私を癒してくれる。
私は目の前の食器を見た。東洋から購入した由緒あるものだ。思えば、屈辱的な戦争の終止符を打たされ、その後の処理を押し付けられた。それでも、必死にできもしない仕事をし続けて、今の私がいる。これも、神のお導きなのだろう。ならばきっと、私はこの国を立て直さねばならない。まず、今は、多くの命を救う英断をしなければならない。私は、私に課された試練を切り分けた肉とともに噛み締めた。
穏やかな笑い声が、食堂に響いていた。
翌朝、私は起きてすぐに、教会へと向かった。
静かな時間。司祭の声が、高い天井に響く。私の求めたのは、この中にいる生活だった筈だ。
すがる者さえない人々がいる。明日を見ることもなく、仕事に励むことだけでしか安らぎを受けられない人がいる。私は、その人達を憐れむ。
鐘の音が響くと、町の商人が忙しなく動き回るようになる。まるで餌を求めるアリのように、美しくない極彩色の景色を作っている。
「陛下、そろそろお時間です」
「分かっている。」
私は、美しい時間に別れを告げ、立ち上がった。そして、神の偶像を背にして、歩き出した。
私の旅は続く。しかし、いつ終わるのかを知らぬ
私は、生きている。
しかし、いつ死ぬのかを知らぬ。
不思議なことに、私は幸せだ。
先祖の言葉が頭をよぎった。私は、やるべきことをする。そしてその合間に、私は祈る。どうか、この災厄が終わり、再び愛する市民たちが息を吹き返すことを。