医学生の場合
同志は死ぬか、故郷に帰ってしまった。たとえ医者の卵といっても、やはり自分が可愛いのだ。僕が奇病に倒れたのはつい先日の事で、直ぐに施療院に投げ込まれた。そこでは呻き声と咳き込む音が聞こえ、生きているかわからない程惨めな姿の乞食が黒い瘤を押さえていた。その異臭に至っては、言葉にするのさえ憚られる。僕は、ベッドに横たわる患者の隣の、いかにも寝心地の良さそうな高反発の床の上に寝かされた。
この町は度々この手の疫病に晒されてきたという。教授が言うには、この町に留まる悪い空気が原因であり、燻蒸や瀉血によって治療されるべきものだと言う。しかし、数多の薫蒸をこなしてもなお、この町に安泰は訪れていないという。さればこれは神の裁きであり、民衆の信仰心が試されているのだという。聖職者の祈りが病から救われる唯一の方法ならば、果たして医者とは何者なのだろうか。
この生を感じさせない部屋には、乞食から町商人まで、実に様々な人が横たわっている。 僕の隣にいるのは、年端もいかない少女で、苦しそうに顔を歪めている。僕が少女の顔を眺めていると、僕をここへ運んだ修道士は疲弊した青い顔で「君も頑張ってください」といい、必死に口角をあげた。
この死臭まみれの部屋では陰鬱な時間が流れるだけだから、せめて自分が生きた軌跡を必死に辿ることにした。まだ、意識があるうちに、せめて文字の書けるうちに。そう思って書庫からこっそりと紙を盗むのは、さほど難しいことではなかった。皆死体の処理や看病でそれどころではないのだ。そして、この惨状を後世に残すべく、せっかく習った文字を使おうと思った。
医者が烏の防護服を着て、診療に来た。まずは生死の確認からしなければ、仕事にもならないのだと言うが、まさに生死の区別がさっぱりつかない。新しく収容された何人かを除き、腫瘍が黒く変色してしまっている。
大抵の医者は、この手の仕事を嫌うので、よほど金に切羽詰まった者しかしない。つまりこの医者も、相当な貧民か非公認の町医者かどちらかだろう。起きるのも億劫なので、そのままの姿勢で様子を眺めることにした。烏の医者は、順番に様子を見ながら僕のもとにやってきた。途端に烏の医者が君は、と呟き、レンズ越しの目に憐れみがさした。何事かと思ったが、すぐに気が付いた。
「教授?」
そう言うとマスクの中の目が笑った。
「そうか、嘆かわしいものだ」
それは、戦場でたまたま旧友に出会ったような、複雑な笑みだった。先ほど考えていたことを察せられないかとビクビクしていると、教授は長い嘴に手を当てて言った。
「医者は金にならないが、流行病の度にこういう再会があるんだ。君と出会ったのも、神のお導きかな」
丁寧に触診用の棒を取り出すと、慈しむような目で診察を始めた。僕も医者の卵であり、教授が何を見ているのかがわかってしまう。激痛や倦怠感に耐えながら、その仕事を眺めていると、教授はゆっくりと立ち上がった。
「とりあえず、瀉血しようか」
はい、と頷くと、教授は瀉血の準備を行う。毒は血に乗って身体中を巡るので、毒を抜くために瀉血を行う。この際に意識を失うものもいて、どんな治療でも副作用があることを思い知らされる。医術は万能ではないのだ。
瀉血を行った後は、安静にしなければならない。教授は別れを告げると、呻き声のする方へと歩いて行った。それは、医者のあるべき姿のように思われた。
燻蒸用の香草が運ばれてきた。ここでは、一日に数回の燻蒸が行われる。燻蒸は、汚れた空気を浄化するために行うのだが、とてつもなく煙たい。むせかえるような強烈な香草の香りが部屋に充満し、正直この中にはいられない。それでも、治療の一環として行われる。それは仕方のないことだ。
施療院の規模はなかなか上等なものなので、燻蒸に使われる香草代もバカにならない。結構な患者がこれを嫌っているらしく、元気な患者は露骨に嫌な顔をしていた。司教もこれをかき集めるのに莫大な資金を出しているのだから、そろそろ効果があるのか疑いたくもなるだろう。
残念ながら、この疫病には特効薬がない。そのためこのように施療院に隔離して、感染を防ぐしかない。燻蒸も各種の呪いも、対症療法にしかならない。
燻蒸が始まると、元の異臭と香草の焚ける強烈な匂いが混じり合い、一種の刺激臭となった。夜の路地裏での闇市のような賑わいが鼻を刺激し、僕は妙な高揚感さえ覚えた。周りには、咳き込む声のほか、喉から露骨に吐き気を響かせる者がいた。この、疫病に特有のお祭り騒ぎは、自分の死が近づくことを忘れさせる、感情の起伏、生の喜びを感じさせるのだった。
体の衰弱がずいぶん進んでいる。ペンを持つ手が震えているのがわかる。収容されてくる人が来たかと思えば、誰かが墓地へと埋葬されていた。世界が回転し、視界が揺れ動く。頭が考えることを拒むようだった。隣にいた少女は、黒く冷たくなっていた。修道士の中には、あちこちに動き回る者がおり、ペスト医師たる教授は、帳簿に患者の記録を残している。
僕は生きているのだろうか、それとも死んでいるのだろうか。体が言うことを聞かなくなってからは、そんなことを考えるようになった。ここはまるで墓場だ。施療院をもつ教会には、骸骨と踊る人々の絵画が残されているが、ここは、それに相応しい。誰がどうなっているのか皆目見当もつかないくらいに、絵の背景と同化している。部屋の中央にある机の上には、聖セバスチャンと聖ロクスの像が飾られている。この施療院にいる者たちが、彼らに救いを求めてそこに近づこうとする。この場所にいるだれもが、心のよりどころを求めては、絶望する日々を送っている。僕からはずいぶん遠くにあるその像を見ても、僕には救いを見出すことができなかった。死の舞踏の絵画が、この場所にあまりにも似合いすぎているせいだろうか。とにかく、この場所はあまりに地獄に近い。燻蒸によって残った些細な香りさえ、自分の命を証明するのに役立っている。
「こんな場所ではますます具合が悪くなる」
呟いたあとに大いに後悔したが、心が変わることはなかった。僕は、その一言で力を使い果たして、眠りについていった。
夢の中で、街を歩いていた。城壁沿いの通路には糞尿がばらまかれ、所々に死体が積まれている。回収人が死体を荷車に詰め込み、通り過ぎていく。窓の向こう側にある数々の視線が、僕を責めるように刺した。鮮やかな色彩のある快楽の都は、瘴気を纏って人々にカエルを信仰させようとしている。
町にはにぎやかな音もなく、干からびた鰊を持って歩く乞食も、何かと問題を起こす学生もいなかった。あるのは死体と、それを運ぶ馬車と、カエルの干物と、忙しく働く薬屋だけなのだ。そう、最早ここでは死は日常的な光景なのだ!ならば何に生きるというのだ?僕は生を謳歌しているのだ!そして同時に死んでいるのだ!苦痛とは、生の特権だろう。無関心は死の特権だろう。ならば、僕はもう死んでいるし、まだ生きているのだ。これは矛盾ではない、遍在するのだ。そこの大きな道を行く女性を見るといい。羞恥心のかけらもないあの姿こそ、死に近づく者の特権なのだ。疫病が流行ると、浮浪者は服も着ないで彷徨っているのだ。
僕はこの街を彷徨した。これが我が愛する祖国だ。色彩と歌と娯楽にあふれた、僕の愛する祖国なんだ。そう、高笑いをした。
目が覚めると、手足を縛られていた。司教は攻めるような目を僕へ向け、教授は嘴の奥から悲しそうな目を向けていた。
意味がわからなかった。呆気にとられていると、教授が棒の先を僕の顔に当て、静かに言った。
「ついにおかしくなってしまったのか。しかし、無事で良かった。いや、病が流行ると性欲に狂った連中が暴れるからね。気をつけなさい」
僕は恥ずかしかった。まさか、そんな事になるとは。僕が夢だと思っていたことは、現実だったのか。僕は必死に何かを言おうとしたが、頭が回らない。まるで頭を鷲に掴まれているようだった。パニックになっているのではない、ただ、もう長くないと確信したのだ。僕の考えを察したかの如く、教授は棒の先で僕の頭をそっと撫でた。
「安静にしていなさい」
教授は僕の体についた縄を解きながら言った。僕は動かない体を必死に伸ばした。視界もゆがんでいる。万物が回転する。
狂人は、いつでも荒れた時代に現れて、忽然と姿を消すものだ。それは、正しく死と同じように、顔を上げた瞬間に訪れる。あの町の様子を思い出した。裸の女性がフラフラと歩いていた大通りは、かつて僕が羽根ペンを買った場所、必死に書籍をかき集めた場所だった。それが、今は廃墟も同然だ。女性の体には、ところどころ黒い刺青のような斑点があった。
誰かが咳き込む音がする。床に倒れ込む人々や、存命者が減っているはずなのに空かないベッド。窓に目を向ければ、共同墓地へ向かう荷車が走っていた。
僕はもう、医者にはなれないのだ。金にならない、命の危険さえある、人に尽くす仕事には、つけないのだ。教授と司祭は、別の患者の診察をしている。
どうせ、死ぬときは一人なのだと、実感してしまった。
隣のベッドには、新たな患者が運ばれていた。
若い学生というのは何をしても大体中途半端だ。仕事をしたくない学生が、賢く金を稼いで、故郷へと戻っていく。僕だって、その一人だった。お金がないと講義が受けられないからと、乞食紛いの物乞いもしたし、習った事を得意げに話して金を集めたりもした。病気が流行れば駆り出され、カラスの衣装で家々を転々とした。その方がなめられないので、彼らには大変有効だった。嘴医者は常に避けられ、同時に歓迎もされた。
しかし、こうして実際に施療院へ投げ込まれたら、そんな嘘さえ懺悔しなければならなかった。病に倒れるとは、そういうことなのだ。もう長くない。この紙だってもうじき切れる。燻蒸にむせ返ることも、こうして辱めを受けることもなくなる。体が弱っていくにつれて、別の患者が威勢のいい悲鳴を上げているのさえ、愛おしくなった。今だって、薄汚れた床や、ベッドに移る僕の影さえもこの目には美しく映っている。まだ、息があるのだから、愛おしいに決まっている。
「君も患者なのかい」
ベッドの上の患者が話しかけてきた。僕は喋るのが億劫で、目で訴えた。
「この町も全く懲りないね。何百年も時間があったのに」
最近入ったばかりの患者は、呑気にあくびをしながら言った。僕は少しだけ馬鹿にされているようで、つい対抗してしまった。
「医者だって必死なんです。帝国が研究資金を出し渋るから、まともな研究ができないんです」
そう言うと、彼は目を丸くして、君は学生かい、と尋ねてきた。少し話して随分疲れてしまったので、頷いて返してやる。すると、彼は興味深そうに僕を見つめている。少し恥ずかしくなり俯くと、彼は楽しそうに笑った。
「くく、可愛いなぁ。まだまだ若いね」
僕は怒った。可愛いなどと言われる筋合いはない。もう子供ではないのだ。この男と話していると疲れる。静かだった施療院に、陽気な笑い声が響き渡った。それを聞いた患者が、こちらに目を向けていた。その目はとろんとしており、綺麗なガラスのような青色が、灰色がかって見えた。彼の笑い声が妙に響くので、僕は恥ずかしくなった。彼は笑いながら、僕の足元を見た。
「随分、黒くなっちゃったね」
僕ははっとして、彼の言葉を聞き返そうかと考えた。僕の体は、随分と黒くなっていて、大きさのまちまちな斑点が刺青のように刻み込まれ、痛々しかった。彼は、笑顔をやめ、申し訳なさげに顔をそらした。
別に、分かっていたことなのだから、そんな顔をされては困る。施療院はしばしの沈黙を取り戻した。僕が放り込まれてから、この施療院には咳の音や呻き声こそ聞こえていたが、楽しそうな声は聞いたことがなかった。突然の陽気な来客は、陰気なこの場所をどう思うのだろう。教会の鐘の音が響き渡り、司教がこそこそと動き出した。僕は、なるべく優しい顔を意識して、彼の方を見た。
「僕は、アウグスティーンじゃありませんから」
急に現実に戻されたようで、悲しくなった。そろそろ死ぬのかもしれない、ふと考えが頭をよぎる。奥では、燻蒸の準備がされていた。彼は露骨に嫌そうに鼻を抑え、度が過ぎるよな、と呟いた。
この男はその後もしつこく話しかけてきて、とにかく疲れた。これでは治るものも治らないと思っていたが、その日は不思議とゆっくりと眠ることができた。
隣に来た男は、本当にり患したのかと疑うほど、陽気で呑気にあくびを漏らしている。朝になるとすぐに僕をからかうし、燻蒸の時にはくさいくさいと鼻を押さえてのたうちまわる。その姿は滑稽で、どこかアウグスティーンを思わせる。彼を見ていると、まだ元気だったころを思い出す。そして、懐かしいような、恥ずかしいような、何とも言えない気持ちになる。
しかし、どこか愛おしい。ただのおっさんが、愚かなことをしているだけなのに。今まで、漠然としか教わらなかった、命の輝きとかいう言葉が、なんとなくわかったような気がする。
家族へ、最期に遺したいこと。僕はもうダメだから、身の回り品は片付けてほしい。病気が移っては大変だから、なるべく慎重に。そして、丁寧に部屋を掃除してほしい。あと、この時にはこの町の水を使わないでほしい。とにかく汚いから。出来れば、遠くの町の川の水がいい。
さよならは言わない。どうせみんな死ぬから。ただ、隣の男は、たぶん元気になるだろう。だから、僕の死体はこの男に見せないでほしい。どうせ、可愛いなぁと笑われるから。
きっと、もう直ぐ来るから。悪魔が、僕を、連れて行く。