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黒い霧  作者: 民間人。
13/23

退屈しのぎの一団の話 7

 確か次は、咄嗟のうまい返答で危機を回避した人の話、でしたな。


 北の国というのは薪がとても重要なものですが、はるか南には南の苦労があるようですな。極寒の地からは遠く離れた、いえ、ここからは東ですかな。南の土地には水がなく、人の暮らしは大変苦痛を伴うもののようです。


 苦労して手に入れた水をちまちまと飲む姿は、我々からすれば乞食が黒い銅貨を握りしめて店先に並ぶように見えるものです。


 ある時イタリアに、無類の旅好きの男がいたそうです。その男は小さな工具店を営んでいて、何かの記念があると必ず都を飛び出して一週間ほど旅に出てしまうそうです。旅で無一文になった経験があるようで、家の蓄えはなるべく残し、銀行に金を預けるなどをして、使いすぎぬように気をつけていたようです。


 ある時、男は小僧を連れて贔屓の大工に商品を届けに行きました。ごった返す大通りを少し外れた狭い路地を通り、レンガが積みきれていない家に赴きました。まだまだ時間がかかりそうな様子です。


「釘をお届けに参りました」


「お、ありがとよ!」


 壁の向こうから威勢の良い声が聞こえてきました。壁からひょっこりと顔を出したのは、この家を建てているらしい男でした。


「いつもすまんねー」


 大工は笑いながら釘を受け取り、工具入れから紙を取り出します。それは受領書であり、男もまた、出荷確認書を取り出して交換しました。入荷確認のサインを終えた二人は、再びそれを交換しました。小僧は持っていた釘から解放され、気持ちよさそうに伸びをしていました。


「ありがとうございました。またのご利用をお待ちしております」


 男は爽やかな笑顔を見せて、用紙を大事にたたんでしまうと、大工の雇い先である組合会館に向かいました。


 組合会館は広く、町のどの建物よりも立派です。勿論、教会の塔の高さには及びませんが、黒塗りの立派な建物は、この町の建築業を牛耳るには相応しいものです。


 男はその門を叩き、受付で注文の確認と、受取証明書を見せました。サインを確認した受付は、大工と同じものであることを確かに伝え、手形を作り、男に渡します。


 男はドキドキしながらその時を待ちました。勿論、いつも通りの光景なのですが、実はこの手形の振替こそ、彼にとって重要なものだったのです。手形を受け取り、呈示期間を確認し、彼はその手形を大事に懐にしまいます。その後、さっさと会館を出て行きました。


「よっしゃー!」


 会館を出てすぐ、思わず大声をあげてしまいました。周りの視線を受けて、思わず顔を赤くします。知り合いの両替商が、ケタケタと笑いながら声をかけてきました。


「今度はどこに行くんだい?両替ならうちで頼むよ!」


「今度は聖地巡礼ついでに東の方に行ってみたいね。世界の記述よろしくさ」


 男は嬉しそうに言うと、両替商は驚きました。


「おいおい、仕事納めだからって、あんまり調子乗んなよ?清の貨幣なんて俺は扱ってないぞ?」


「なぁに、ちょっと行ってさっさと帰ってくるさ。俺には清なんかに行く旅費がねぇよ」


 両替商はケタケタと笑いました。


「じゃあ、アラブの方の貨幣用意しといてやるよ」


 男は助かる、と答え、手形があることに気づいて、店に戻っていった。


 店に戻ると、一人男が店番の小僧に何か尋ねているのがわかった。小僧は売り上げを伸ばして良い駄賃をもらおうと必死なのだろう、高価なものを勧めている。


 男はその小僧を拳骨で叩き、ちゃんとお客さんの事情考えろ、と諭しました。


 小僧は悔しそうにしていましたが、男が事情を聞いて客に良い品を提供すると、満足して買って行きました。それを見て小僧は腑に落ちないように男を睨んでいました。店番の小僧を優しく小突いた男は、先ほど連れて行った小僧に店番を任せました。拳骨をもらった小僧には旅行の計画に付き合ってもらうことにしました。


 無類の旅好きである男は、この小僧を旅仲間としてみており、連れて行っては旅行先で小遣いを稼がせ、自分はものを仕入れて、毎日の肥やしにしていました。これを通して、それなりの稼ぎをして旅を続けていたのです。


「今度は聖地巡礼も兼ねて東の方に行きたいんだ、どこに行くのが良い?」


「聖地巡礼の旅ですか!良いですねぇ!それでは、この辺りまで行ってみませんか?」


 小僧はテヘランを指さしました。男はなるほど、面白いと飛びつきました。テヘランで売れそうなものをリストアップし、それを買い付けさせに小僧に手形を渡しました。小僧はリストを持って飛んで行きました。そして男は、テヘランからこちらに仕入れるものをリストアップしました。



 準備が整うと、二人は意気揚々と旅へと出かけました。男と小僧は、留守番をする小僧に見送られ、心を躍らせながらヴェネツィアへ向かいました。


 ヴェネツィアでは、聖地へ向かう船の斡旋が行われていました。男は予定通り聖地行きの船へ乗り込むと、停泊中の船から外を眺めました。


「ヴェネツィアは綺麗だなぁ」


「そうですね!マリアの都として、皆様も誇りを持っているようですよ?観光してみませんか?」

 男は咳払いをして、小銭を取り出した。


「これで我慢してくれ。出航は三十分後だ」


 小僧は嬉しそうに飛び出して行きました。


 一人になった男は、停泊中の船から、巨大なドーム状の建物が水面に映り、ゆらゆらと揺れているのを眺めていました。男はヴェネツィアに来たのは初めてではありませんでしたが、これから聖地へと向かう、そう考えるとやはり緊張してしまう自分に気づきました。少し恥ずかしくて、ゆっくり目を閉じて、胸の高鳴りを落ち着かせようとしました。男はゆっくりと目を開くと、小僧が走って戻ってきているのがみえました。


 小僧は、いつ見ても騒々しい小僧でしたが、どこか憎めないキラキラした目をしています。小僧は男を見つけると、大きく手を振って一層速くかけてきました。その手にはいっぱいの食料を持ち、渡しておいた物資を少し売ったように見えました。


 ヴェネツィアから一行は聖地へと出港します。小僧は名残惜しそうに美しい港を見つめています。男は、鮮やかな青に浮かぶ白いそれに向きながら、小僧の肩をトン、と叩いてやりました。小僧は悲しそうな目を男に向けながら、手に持ったご馳走を強く抱きしめました。



 聖地には、多くの人々がおり、また異教の民が町中を渡り歩いていました。あるものは祈りを捧げ、あるものは聖地巡礼の証である紋章つきの道具を売り、あるものは野菜料理を作って売っていました。一様に、豚や肉類は見られませんでした。寂れた土の都のようであり、格式高い古都にも見える街へ降り立つと、小僧は思いっきりはしゃぎましたが、男は呆然と立ち尽くすばかりでした。


 彼は、西のあらゆる都市を見て回りました。どこも賑やかではありましたが、神々しさとは無縁の、混沌とした騒々しさでした。ところが、ここでは静寂と安らぎが支配し、秩序立った騒々しさを感じさせていました。


 男は初めての違和感に戸惑いを感じつつも、同朋の居住区へと向かい、その聖なる地を目指して歩きます。この地を、十字架を担いで歩んだ者がいる。男は、圧倒されつつも石畳の上をこつりこつりと歩き出しました。決して舗装がされ尽くした道ではありませんが、男には神秘の輝きに満たされて見えました。長い大通りの先に、荘厳な姿で聳える教会がありました。


「凄い、ですね……」


 男は黙って頷き、母なる地へと歩んでいきました。



 祈りを終えた人々が、ぞろぞろとその地をあとにしていきます。男と小僧も、そこから出てきました。彼らは天に祈りを捧げると、テヘランへと歩き始めました。


 道中、すれ違う駱駝を連れた一団は、この先の旅を予感させるものでした。


 男と小僧は暫く何もない道を歩きました。食料は十分にありましたが、彼らは初めての砂漠越えということもあって、水の準備を怠ってしまいました。勿論、いつもの何倍も水を準備をしていたのですが、体が慣れておらずすぐにのどが乾き、飲みすぎてしまったのです。そして、ついに水が尽きてしまいました。


 砂漠の温度変化に体を晒されながら、時には体を震わせ、時には汗を舐めながら、なんとか足をあげて進みました。しかし、人間はそれほど強いわけではありません。男は小僧を担いでフラフラと歩きました。


 暫くすると、オアシスが見えてきました。陽炎が距離を霞ませていましたが、男はオアシスへと歩きます。


 やっとの思いでオアシスへとたどり着くと、小僧をビンタで起こし、命の水をガブガブと飲みました。二人はやっとの思いで飲んだ水に満足感を覚えました。そして、神に感謝しました。これほどの満足感を二人は感じたことがありません。


 そんな男たちのもとに、体格の良い男たちがやってきました。体格の良い男の一人が小僧をひょいと掴み上げると、二人を囲むように傷だらけの太い腕が近づいてきました。


「ここ、俺たちの水飲み場なんだが。わかるか?」


 男は固まってしまいました。水を汲む手から綺麗な水がこぼれます。嫌な汗が身体中を流れました。


「あ、あ」


「わかるか?って聞いてんだよ」


 男が小僧をぐっと締め上げます。小僧が苦しそうな、潰れた猫のような声をあげます。


「ぐ、ぐ……」


 体格の良い男たちがどんどん男に近づいてきます。だめだ、男がそう思った、その時でした。


「な……痛い……」


 小僧が絞り出すような声を出しました。男は、咄嗟にこう言ったのです。


「その小僧から手を離せ!」


 男たちは怒りの形相を見せます。男は真っ白な頭から言葉を絞り出します。


「わかる!お前らに銭ならくれてやるが、お前ら、死にたいのか!そいつは病に侵されているぞ!きっと慣れない長旅で体力を奪われたんだ!それも、ただの病じゃない……これは……」


 男は小僧の首筋に指を立てました。そこには、くっきりと痣のようなものがついています。


「俺は知っている、そこに痣のような腫瘍がある病をな……」


 小僧を掴んでいた男はその首を見ました。そこにはくっきりと痣がありました。


「俺の母ちゃんもそいつで死んだ!間違いないぞ!ペストだ!ペストだ!」


 小僧を掴んでいた男から一気に男たちが離れていきます。小僧を掴んだ手は離され、パニックになって手を振り回しました。


 男は銀貨を一枚放り投げたあと、混乱に乗じて小僧を担ぎ上げ、水を目一杯汲んで全速力で飛んでいきました。


 大男たちが冷静になった時には、男たちは砂嵐の中に消えていました。



 二人は命からがら大男たちから逃れ、テヘランにいくことも忘れて急いでここまで帰ってきたことで、すっかり行く気も起きなくなりました。にぎやかで活気あふれる町だと聞いていたので、オアシスが見えなくなってから冷静になった二人は酷くがっかりしたそうです。よく目を凝らすとらくだの大群の行き来に沿って、オアシスがいくつかあるのがわかりました。二人はそこから少しそれたところを歩いていたようでした。


 聖地まで何とか逃げ帰ると、小僧が心配そうに男を見ていました。


「俺、死ぬんですか……?」


 男は一瞬キョトンとしましたが、すぐに豪快に笑いだしました。


「それはただの痣だ。それに俺の母ちゃんの死因は老衰だ」


 小僧が胸をなでおろしました。


「ま、父ちゃんの死因はペストだけどな!」


 男がそう言うと、小僧が甲高い悲鳴を上げて気絶してしまいました。


 かくして、賑やかな旅路は終わり、男と小僧は船に揺られながらヴェネツィアへ向かいました。



「ヤッベェなぁ、癖になるぜ……」


 ピョートルが開口一番に言いました。


「やはり阿呆を騙す男の話はお好きでしたか。私もそんなところです」


 イワンが初めて顔を緩めていた。


「旅ってのはやはりそそられるよなぁ、兄弟?咄嗟のうまい返答かはしらねぇが、こんな旅してみたいもんだぜ」


「おやおや、北の出身の殿方はみんなマゾヒストなのかしら?」


 マルガレーテが意地悪な笑顔で言った。


 すると暖炉の火が勢いよく燃え上がった。マルガレーテが驚いてそれを見ると、イワンがくつくつと笑った。


「臆病なイタリア娘よりは余程ましですがな」


 アブラヒムが咳払いをした。イワンが途端に真顔に戻る。


「えぇ、今日はお開きにしますか」


 一団はその言葉を受けて、ぞろぞろと階段を登って行った。カールとヤンが配った水を片付けている。マルガレーテだけが、斜陽を眺めながら微動だにしなかった。


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