目覚めし臥竜
次回こそ少年編完結です!
「まずは材料を集めるぞ。砂糖と小麦粉とミルク、卵とバターだ」
パンパンの言葉を聞いて爆空は安心した。
パンケーキの材料はどれも聞いたことがある、子供の爆空で準備する事が出来る食べ物ばかりだったのだ。
爆空の悩みとは、肝心のパンケーキの材料には一体どのような珍品が使われているのかという点であった。
名前も聞いたことがない料理ゆえに、それはもしかするとパントーネ村には存在しないような高級食材が使われているのではないかと心配していたのである。
だが、実際はそうではなかった。
小麦粉とバターは父親に、砂糖とミルクと卵は母親に相談すれば手に入ることだろう。
爆空は早速、両親のいる今に向かうことにした。しかし、その前にパンパンに引き止められた。
「爆空よ。若者の性急さは一つの美徳とも言えよう。しかし、忘れる無かれ。お前がこれから扱おうとしている品々の中は生命そのものなのだ。遅れることは許されても、いたずらにそれを失う事は決して許されぬのだ。つまり、卵を落として割ったり、小麦粉を零して台無しにしてしまったりしては折角の決意も無駄になってしまうということを忘れるなよ」
調理においてもっとも重要なのは速度ではない。
針穴に糸を通すような正確さこそが肝要なのだ。
昨今巷でよくスピード調理とか、お手軽クッキングという言葉が持て囃されているが実によろしくない。
一つの料理に真剣に向き合って経過した時間には確かな意味が存在するのだ。たとえば朝に作ったミートスパのミートソースを半日寝かせておく為に鍋に入れておいたものを作った人間の許可無しでご飯の上にかけて食するなど言語道断なのである。( * 後半は作者の愚痴です。 )
「はいっ!しかとこの心に刻みつけましたっ!お師匠様!」
爆空は黒パンの乗った皿を持って両親のいる居間に向かった。
逸る気持ちを抑えながら、しかし確実かつ無駄のない動作で歩いて行ったのだ。内なる衝動をさらに大きな信念で押さえつけ、鬼気迫る表情で爆空は居間の扉を開く。
そして、大声で叫んだ。
「父ちゃんッ!母ちゃんッ!今の僕には砂糖と小麦粉とミルクッ!それに卵とバターが必要なんだッ!」
かつてない迫力を以って爆空は両親に相対する。
目の前には木製のイスに座って指で鼻毛を抜く父親、倫空。そして、向かい合って編み物をしている母親、メリンダがいた。
「そんな大声を出して一体どうしたんだ、爆空。父ちゃん、鼻毛をいっぺんに引っこ抜きすぎて鼻の穴が痛くなっちまったぞ」
今朝方、食事の時に妻に鼻毛が何本も飛び出ていることを指摘されたのを気にかけていた倫空はその日は土おこしの作業を終えた後、鼻毛を引っこ抜く事に集中していた。
しかし、爆空の大きな声を聞いた時に彼は思い余って数本まとめて鼻毛を抜いてしまったのである。
本来ならば時間をかけて処理していかなければならなかったのに。
だが、彼は目の前の息子の姿を見て驚いた。
これはいつもの気弱な息子ではない、一大決心した男の顔だ。
普段は同世代の子供たちに比べて内気でどちらかというと元気が無い自分の息子が、この時に限ってはいつもより大きく見えた。
「爆空ちゃん、そんなにたくさんの食べ物を一体何に使うっていうの?」
いつもとは違う爆空の様子に同様を隠せない父親とは違って、母親のメリンダはいつもと同じように穏やかな態度だった。
母親の優しい言葉が爆空の緊張を少し和らげる。
前よりも落ち着いた調子で爆空はこれらの食料がどうして自分に必要なのかを説明した。
「母ちゃん、父ちゃん。実はね、僕は昨日から元気の無いセシルちゃんを元気になるようにパンケーキを作ってあげようと思ったんだ」
爆空は頬を赤く染めながら、恥ずかしそうに理由を告げた。
大好きなセシルの為に何かをしてあげたいというだけなのに、どうして自分は恥ずかしい気持ちで胸がいっぱいになってしまうのだろうか。
それは幼い爆空の抱く親愛から生まれた淡い慕情だった。
そして、顔を赤くした爆空の言葉を聞いているパンパンも赤面していた。
倫空とメリンダは大まかな事情を察して、爆空の提案に協力してくれることになった。
爆空の父親は、昨年の収穫祭で村長からもらった白い小麦粉を取りに外の物置に向かった。
ちなみに爆空たちが普段食べている小麦粉を使った料理は現実世界でいうところの全粒粉に近いものである。
爆空の父親、倫空がこの時に白い小麦粉を用意したのは彼の見栄だった。
母親は朝食に使わなかった卵を四個と今朝作ったばかりのバターを小さなボウルに入れて持って来た。
その後に砂糖の入ったシュガーポットとミルクは別に用意すると、爆空に教えてくれた。
爆空は自分のわがままをすぐに聞いてくれた両親に感謝した。
そして、同時に今まで以上に両親に対して尊敬の念を抱いた。
彼は、これからはよりいっそう両親の仕事を手伝おうと心に誓ったのだった。
そして、それから間もなく爆空の下にパンパンが指示した通りのパンケーキの材料が揃うことになる。
パンパンもまた、爆空同様に彼の両親に対して感謝と尊敬の念を抱いた。
爆空の両親は、決して裕福ではない貧乏な村でこれほどの材料を骨を折って用意してくれたのだ。
この深い愛情と信頼に答えることが出来なければ、自分は生まれ変わった意味がない。
小さなテーブルに置かれた二つのボウルには卵とバターが、中くらいの大きさのジョッキにはミルクが、そして小さな袋( 現在の基準でいうところの3kgに相当する )には白い小麦粉、小さな匙とシュガーポットが用意されていた。
これだけのパンケーキの材料を前に、爆空もパンパンも興奮を隠せない。
爆空は自分の未知の状況に、パンパンは己に課せられた新たな使命を前にして。
「まずは小麦粉をミルクで溶く。ジョッキに入ったミルクを持って来い。後、小麦粉とミルクを混ぜ合わせるボウルも用意するがいい!」
爆空はパンパンの声を聞くと、すぐに彼の言うとおりにした。
爆空がいつも使っているコップよりも大きなジョッキに入ったミルクを両手で持って目の前にまで移動させた。
そして、ハラハラしながら爆空の様子を見守っている両親に頼んで粉溶き用のボウルを用意してもらった。
「爆空よ。まずは私がいい、というまでボウルに小麦粉をいれるのだ。いいか、絶対に聞き損じてはならぬぞ。小麦粉の一粒、一粒にはお前の父親の魂が宿っているものと思え。故に、この言いつけに背くことは絶対に許さぬ。返事はどうした!」
爆空は小麦粉の詰まった小さな麻の袋を凝視する。
この袋の中に入っているのは白い小麦粉ではない。
父の努力と誠意の結晶であることに今さらながらに気がつかされた。
父ちゃん、いつもありがとう。
爆空は心の中で父親に感謝しながら口の開いた小麦粉の袋をボウルに向かって傾ける。
パンパンは容赦無く爆空の様子を監視する。
爆空親子の信頼を無駄にするわけにはいかない。
今、父と子の絆はパンケーキを介してさらに強固なものへと変わって行くのだ。
パンパンは、今ここで己に課せられた新たな使命の重さに打ち震えるのであった。
しかし、この白い小麦粉は遠くの町で製粉された品物だったので倫空は製作に一切関わっていない。
爆空はさらさらと小麦粉をボウルに流し込んだ。
神経の全てを流れ出る小麦粉に傾ける。
今、宇宙の中心は小麦粉であり爆空はひたすら師匠の言葉を待った。
まだか。まだ小麦粉をボウルに流さなければならないのか。
次第に不安な気持ちでいっぱいになる。だが、今の爆空にはパンパンの言葉を待つしかなかった。
「よしッ!よくぞ堪え忍んだッ!爆空よ!もう小麦粉を入れる必要はないぞ!次は砂糖を入れるのだ。その匙を大きさならば二回くらいだろう。匙を入れる際には特に注意しろよ。野の草花を愛でるように、心細やかにだぞ」
世の中にはスプーン一杯と指示すると軽量スプーンではなく食器のスプーンでぶち込む無粋な人間も存在するのだ。
美食の神髄は繊細な配慮にこそある。これを呼んでいるみなさんも是非、忘れないで欲しい。
「まずは粉の状態でさっくりと混ぜ合わせるのだ。妙に力む必要は無い。そう、ゆっくり、ゆっくりと。ボウルから粉を出してしまっては意味が無い。ボウルは海と大地、小麦粉と砂糖は人の命。もしも、お前に一片の慈悲の心があるのなら、ただの一粒も零すことなくこれらを混ぜ合わせてみろ」
爆空は真下に置かれたのボウルを見る。
ボウルという大地に生まれた小ぶりな白い山が見える。ただ入り口の開いた小麦粉の袋をボウルの中に流し込んだだけなのに、爆空は知らないうちに無地の大地に白い山を創造していたのだ。
この白い山は生きている。何か待っている。
「爆空よ、砂糖だ。砂糖は貴重な食料だ。使いようによっては命を生かしも殺しもする。その効用は慈悲深き天の雨、青天の霹靂」
爆空はパンパンの言葉に後押しされるような形で、細心の注意を払いながら一度、二度と砂糖をボウルの中に落とす。
物を使ったら、元の場所に戻す。
爆空は母親から常日頃言い聞かされているようにシュガーポットの蓋を閉じる。
そして、食器や調味料が置かれている棚にシュガーポットを戻した。
その後、爆空は白い小麦粉と白い砂糖をゆっくりと木製のヘラでかき混ぜる。
母親が赤子を抱き、寝かしつけるように。腕の中のわが子が心安らかに眠りにつくことができるように。
爆空は砂糖と小麦粉を混ぜ続けた。
補足させてもらうと、この場面では白い砂糖、小麦粉と説明しているが食品用の漂白剤が登場していない時代なので現代のものと比べると少し黒っぽい部分が残っている。
パンパンは満足そうな笑みを浮かべながら弟子の仕事を見守った。
拳法の才能はまだ指導していないからわからないが、この爆空という少年には物を大切に扱うという才能がある。
見よ、あの慈愛に満ちた聖母のごとき姿を。
天稟は指先に宿るものではない。その魂に備わるものなのだ。
爆空ならば必ずセシルを元気付けられるパンケーキを作ることが出来るに違いあるまい。
パンパンは爆空に絶大な信頼を寄せる。
故にパンパンはよりいっそう厳しい態度で次の工程を指示するのであった。
「ミルクだ。ミルクを持って来い。ミルクもまた命の根源。爆空よ、牛畜生に感謝の気持ちを忘れるな。我々は牛の愛によって生かされているのだ」
「はいッ!」
爆空はミルクの入ったジョッキを持って来た。
本来、爆空はあまり腕力が強い方ではない。持ち運ぶ姿は始終、危なげな様子だった。
そうすると、彼の姿を見たパンパンは爆空を鍛える時にはまず基礎的な体力トレーニングが必要であることに気がつく。
しかし、同時にどんな困難を前にしても一度覚悟が決まってしまえば必ずやり遂げようとする爆空の心の強さにも気がついていた。
「爆空よ。ミルクは数回に分けて小麦粉の中に入れるのだ。小麦粉、砂糖、そしてミルクが調度良く混ざり合った状態の時にミルクを投入するのだ。この作業にはいくら時間をかけてもかまわぬ。不均等に混ざり合った状態、つまりダマを作らないように確実に溶いていくのだ。いいな。ダマは駄目だぞ」
「はいッ!しかと心得ました、お師匠様ッ!」
爆空はパンパンに命じられた通りの分量のミルクを静かに注ぐ。
そして、ヘラを使って時間を十分に使ってボウルの中の砂糖、小麦粉、ミルクを混ぜる。
最初はミルクの水分が少ないので何がどうなっているかはわからなかったが、やがて加えるミルクの分量が増えていくうちにパンケーキの生地がどんなものなのかがわかるようになった。
爆空は額から汗を流しながら必死にボウルの中身を混ぜる。
ミルクの分量が増えれば増えるほどにパンパンの指示も厳しいものになった。
おそらくはこの作業こそがパンケーキを作る上で最も大切な作業なのだからだろう。
その時の爆空は無心のまま、パンパンの指示に従った。
そうして爆空は小麦粉と砂糖が一箇所に固まらないように、混ぜるうちにボウル内に生じた気泡を押し潰すようにしながらヘラを動かした。
パンパンは爆空の作業の至らなさを指摘する。
それに気がついた爆空がすぐにパンパンの指摘に従って作業をこなす。
これが初の作業とは思えないような巧みなヘラ捌きで爆空は砂糖と小麦粉、そしてミルクを混ぜ合わせた。
そして爆空とパンパンの信頼は硬過ぎず、かといって柔らかすぎずのパンケーキ生地の理想形とも言うべき物を完成させた。
この時ばかりはパンパンもまた爆空を褒めた。
もしもパンパンの肉体が存在していたら泣いて抱きしめていたかもしれない。
「見ろ。この素晴らしいパンケーキ生地を作り上げたのはお前の努力と苦労の賜物。爆空よ、この偉業を誇れ。そして自分に惜しみない賞賛を贈るのだ」
「それは出来ません。こんなことは僕一人では無理です。お師匠様の素晴らしい指導が無ければ僕は材料を揃えるどころか、セシルちゃんにパンケーキをプレゼントする考えすら浮かばなかったに違いありません。リュウ・パンパン先生。貴方のような素晴らしい先生に出会えた事が僕の人生一番の幸運だ!ありがとうございますっ!」
爆空は地面に額を擦りつけてパンパンに賛辞と礼を告げる。
黒パンの乗った皿に向かって土下座する爆空の姿を見て、両親は爆空の未来に不安を覚えるのであった。
次回こそはっ!