魔槍、再び。
例えるならそれは、中身を詰め込みすぎて、やぶけてしまった水餃子みたいな感じ
ここで爆空とパンパンがセシルの下に走っていくまでよりも、時間は逆戻りする。
それは爆空たちの住むパントーネ村より少し離れた場所にある国道で起こった事件だった。
当時は数日間に渡って続いた大雨の日々がようやく終わって町同士の交流が復興して間もなくの頃だった。
国道に集まった巡回警備隊の隊員たちが荷車の残骸を前に立ち往生している。
魔獣と呼ばれる怪物が出現したのだ。
犠牲になった荷車の持ち主や雇われの運搬人たちの死体が地面に敷かれた藁の上に放置されている。
冥界に通じている穴から噴出していると言い伝えられる闇洞夜風によって毒された魔獣に殺された人間は夜中に人を喰らう食屍鬼になって黄泉返る。
その為に聖職者にここまで来てもらって解呪の祝福を授けるまではこうして外に放置しておかなければならないのだ。
この国では火葬は禁忌とされていたので死体を火で燃やすことは出来なかった。
厄介なことに食屍鬼になってしまった者に殺された人間もまた食屍鬼になってしまうのだ。こうして死者が出てしまった以上、疎かな扱いは出来ない。
しばらくして大きな町からやって来た教会の司祭と思われる初老の男が、魔獣に殺された憐れな犠牲者たちの為に解呪の祝福と鎮魂の祈りを捧げる。
隊員たちは自分たちで守る事の出来なかった人々の為に聖職者たちに追従する形で黙祷する。
もっと早くに自分たちが異変に気がついていれば。おそらくその場にいた何人もの隊員たちはそう考えていたことだろう。
「司祭様。この度は遠路はるばるご苦労さまでした」
警備隊の隊長と思われる人物が恭しく挨拶をする。
しかし、司祭は男の言葉を遮るように右手を払う。犠牲者が食屍鬼にならなかったことよりも、犠牲者の命を救えなかったことに対して自責の念を抱いていたからである。
初老の司祭は沈痛な面持ちのまま、衛兵たちに言って聞かせた。
「今回の痛ましい事件の原因は皆様もご存知の通り魔獣の出現にあるということは言うまでもありませんが、魔獣の出現は闇洞夜風の前兆に他なりません。どうか警備隊の皆様方も市井の各皆様同様に魔獣の襲撃に気をつけて下さい。あなた方の命も守られる側の皆様の命同様にこの世にたった一つしかない尊いものには違いないのですから」
司祭の言葉はやや儀礼的な訓告には違いなかったが、慈しみの心が込められていた。
なぜならば十数年前に大陸全土を襲った大規模な闇洞夜風が原因で司祭も家族を失った経験を持つからである。
自分より若い者たちに家族を失う苦痛を味あわせたくない一心ゆえでもあったのだ。
司祭の事情を知る司祭の従者たちや警備隊長たちは真剣な眼差しで司祭の話を聞いていた。
「ご苦労様です。司祭様」
「私は一足早く王様に今回の事件を報告しに行きます。場合によっては国内全土にお触書を出してもらわねばなりません」
こういった場合は人の滅多に入らない森や洞窟などで闇洞夜風の影響を受けた動物たちが魔獣と化して大量発生する場合が多い。
そうなる前に人々が森や洞窟に入らないように、そうなってしまった場合は王都に滞在する軍隊を出動させなければならなく為である。
今回に限っては警備隊長よりも司祭が直接、交渉に出向いた方が事の重大さをいち早く理解してもらえると考えたからだ。警備隊長も無言で肯く。
司祭はつい数日前まで暗雲が去ったばかりの空を見た。
今は嵐の手前のような荒々しさが失われて、春の陽気に満ちた穏やかな空に変わっている。
司祭はこの国の心ある人々の幸福と平和の為を願い天に祈った。
「このまま何も無ければよいのですが……」
現場の指揮を終えた警備隊長は周囲に魔獣が残っていないかを確認する為に隊員たちを連れて、現場に数人残して巡回警備に赴いた。
そして、司祭は従者たちを連れて王都に向かう支度をするために教会のある大きな町に帰還する。心に一抹の不安を残して。
そして舞台はセシルと爆空、そしてリュウ・パンパンがいる森へと戻る。
その森の奥深くには絶対絶命の窮地に立たされたセシルの姿があった。
セシルの匂いを辿り彼女の後をつけて来たのは幼馴染の爆空ではない、全長四メートル前後の巨大な熊のような姿をした魔獣だった。
怪物は熊の鼻によく似た器官でセシルの存在を感知しようと鼻腔をしきりに動かしている。
闇洞夜風によって魔獣と化したこの怪物はかろうじて熊の外見に似ているというだけだった。
泥土色の外殻に覆われた頭部には目と思われる器官は失われ、蝙蝠のように大きくなった耳と熊であった時よりもさらに大きな口と前述の鼻腔しか確認することができなくなっていた。
魔獣の全身の各部には昆虫のような甲殻が備わり、両腕部には爪の代わりに蟷螂のような大きな刃があった。
異形の怪物は以前よりも鋭敏になった臭覚と聴覚を便りにセシルの行方を捜す。
耳鼻と思しき器官をしきりに動かしながら確実にセシルとの距離を詰めていた。
一方セシルは口を押さえて物音の一切を出さないようにしながら、この場を何とか切り抜けようとしていた。
一刻も早くここから離れて爆空と合流しなければ。自らの命に換えても彼を無事に連れ帰って村の大人たちに怪物の存在を知らせなければ。
セシルはこのような状況になっても自分の命の安全よりも周囲の人間のことを考える性分だった。
少しでも気を抜けば、先程のようにまた悲鳴を上げてしまうかもしれない。
セシルは必死に恐怖を堪えながら出口を捜す。
だがその時、セシルは信じがたい光景を目の当たりにする。それは魔獣の背後から走ってくる小さな友人の姿だった。
「駄目ッッ!!爆空くんッ!」
セシルは爆空に注意を喚起する為に、魔獣に対して注意をセシルの方に向ける為にわざと大声を出した。
セシルの声を聞いて爆空は立ち止まり、魔獣は探索から襲撃へと行動目的を切り替えた。
魔獣は耳のあたりまで裂けた口から唾液まみれの舌を出して歓喜する。
餌のほうから姿を現したのである。これほど都合の良い事もあるまい。
魔獣は大鎌のような形になった二本の腕と二本の後足を器用に使って以前の倍の速度でセシルに迫る。
魔獣にとっては実に数日ぶりの食事の機会だった。かつてないほどに獰猛さを増した圧倒的な脅威がセシルに迫る。
「パンのおじさん、どうしよう。このままじゃセシルちゃんが大きな熊に食べられちゃうよ!ねえ、どうしよう!」
爆空は信じられないような光景を前にして狼狽するばかりだ。
このままではセシルという少女があの恐ろしい怪物の餌食になってしまうのは時間の問題だろう。
パンパンは己の迂闊さに歯噛みした。
せめて爆空にもう少し目立たないように移動するように言って聞かせるべきだったのだ。
あの時、セシルという少女は爆空の存在を魔獣が突き止める前に敢えてその身をさらけ出したのである。
自分がついていながら何という失策。パンパンはこの時、自分が人間の姿ではないことを後悔していた。
もしも今人間の姿を取り戻すことができたのならば、あの場に駆けつけて少女を助け出す事も可能なのに。
「助けられるものなら自らが少女を助けると?では、そうするがいい」
その時、どこからともなく何かの声が聞こえてきた。
それはパンパンが以前にも経験した意識に直接、語りかけてくる奇妙な感覚。
もしや例の幻獣がこの窮地を見かねて助け舟を出してくれるのか。
パンパンは期待を込めて声の主を捜す。
何と彼の目の前に現れたのは白毛の大きな獅子だった。その荘厳な雰囲気は以前にパンパンの前に現れた麒麟に通じるものがある。
「お願いします、救いの神よ!私はどうなってもいい!この子供たちをどうか助けてあげてくださいっ!代償は私の魂でも何でも構いません!どうかこの通りお願いしますっ!」
もしも今のパンパンに肉体があったなら、地面に額を擦りつけて土下座しながら懇願していただろう。
目の前で無実の子供たちが傷つき悲しむくらいならば、どんな代償だって払って見せる。
パンパンは藁にも縋るような思いで必死に懇願する。
「驕るな、元人間。お前の安い命に用は無い。私が取引を持ちかけているのはお前ではない、リュウ・パンパン。そこにいる人間の子供だ」
白い獅子は非情の視線をパンパンに向けた。
最初からお前に与えられた役割など存在しないと言わんばかりに。
実際に白い獅子は怒りを感じていた。
この場に自分がいれば万事全て解決すると考えているリュウ・パンパンの驕り高ぶった考え方に腹を立てていたのだ。
「人間の子供よ。私の声が聞こえるか?」
「君は誰なの?」
爆空は意識を声の主へと向ける。何とその場にいたのは今まで見たこともないような大きな動物だった。
全身が豊かな白い体毛に覆われた勇壮な貫禄に溢れた動物。
威厳に満ちた瞳、そして荘厳さを否が応でも感じさせる豊かな白い鬣。
爆空は、この動物のことは何も知らない。だが、目の前のこれが偉大な生き物であるということは一目見て理解した。
これは獣の姿を借りた神なのだと。
「子供よ、まずお前の目の前を見ろ。今、お前の大事な人間がお前の責任で命を失おうとしている。この不祥事、一体どうやって責任を取るというのだ。子供だからといって何でも許されるわけではないのだぞ」
幼い子供に何という仕打ち。黙っていられなくなったパンパンは何かを訴えようとするが声が出せない。
パンパンはパンになってしまったのだから声が出せないのは当然なのだが、今は白い獅子の神通力で無理矢理黙らされたのだ。
「僕は、僕はどうなってもいいです。犬さん。僕はどうなっても構いませんから、セシルちゃんを助け下さい。こんな意気地なしの僕にも優しくしてくれたセシルちゃんがいない世の中なんかで僕は生きていたくありませんっ!」
「面白い。子供ながら見上げた根性だ。もしもお前が命を失っても構わないというのなら、その男リュウ・パンパンの魂が宿ったパンを食べてみろ」
「ええっ!?パンのおじさんが入っているパンをですか?」
爆空はポーチに収まっていたハンカチの包みを取り出す。そして、ハンカチに包んであったブリオッシュを大きな瞳で覗き込んだ。
見た目は今まで見たことがない凝った装飾のパンだった。この中に人間の魂が宿っているなどとは子供でも信じがたい。
「どうした?お前の立てた誓いは偽りか?さっさと食わなければ幼馴染の少女の命は失われてしまうぞ」
「えいっ!」
爆空は目を瞑って一気にブリオッシュを口に含んだ。
一瞬にして、かつて経験したことの無い未曾有の美味さが口の中に広がる。
食欲をそそる風味豊かなバターの香り、空腹を満たしさらに食欲を煽る砂糖の甘さ、そしてわずかな洋酒が醸し出す今まで遭遇したこともないような大人の香りが混然一体となって爆空の五感を桃源郷へと誘う。
これこそが異世界の美味。至高のブリオッシュ……。
「おいしい!おいしいよ!犬さん!こんなパン、食べたことがないよ!」
「そうか。よく味わって喰らえ、人間の子供よ。それがお前の味わう最後の食事なのだから。今からお前の魂は消滅し、異世界の拳法家リュウ・パンパンの魂がお前の肉体に宿るのだから」
パンパンの声無き絶叫。何という非道の仕打ち。これが迷える人々を導く神のすることか。
「そうすればセシルちゃんは助かるの?」
爆空の声が小さくなっていた。おそらくは先程、白い獅子が言っていた通りに爆空の魂が消滅しかかっているのかもしれない。
パンパンは心の中で知り合ったばかりの少年の為に涙を流した。
これが自分に下された罰なのか。一つの命を救う為に、一つの命を奪うとは。
運命はどこまで自分を弄べば気が済むというのだ。
「そうだ。神の肉を喰らったお前は神に近い存在、ハイパンダーとなる。安心して、この世を去るがいい。勇敢な子供よ」
「ありがとう、犬さん」
爆空は薄れていく意識の中、自分の足元で泣き崩れるリュウ・パンパンの姿を見つける。
泣いている人がいたら勇気を分けてあげなさい。以前にセシルが言っていたことを爆空は思い出した。
そっとパンパンの肩に手を添える。それは別れの挨拶でもあった。
「パンのおじさん。もう僕は行くけど、セシルちゃんのことを宜しくね。それとね、悲しい時は楽しかった時のことを思い出すといいよ。きっと元気になれるから。じゃあね」
幼い爆空の姿が霧のように消えていく。
それは爆空の肉体から魂が離れて、代わりにパンパンの魂が彼の肉体に入り込んだ証拠だった。
白い獅子の冷徹な声が新たに爆空の肉体へと宿ったリュウ・パンパンの耳に届く。
だが、パンパンは運命の過酷さに打ちひしがれて未だに立つことも出来なかった。
「お前の望む結果となったな。リュウ・パンパン」
「わかっている」
パンパンは今まで己の無力をこうまで憎むことはなかった。だが、幼い命にあのような選択をさせたのは他でもない自分の責任だ。
「どこまでも見下げ果てた男だ。お前が怒りを向ける相手は私ではない。あの憐れな魔物だ」
「そんな事はわかっている!!!」
かつてない戦いの宿命に怒りを覚え、拳士リュウ・パンパンは異世界で復活を果たした。
パンパンの魂の蓄積されたカナブン・パワーが真なる怒りによって覚醒する。
少年の背中から炎の如きオーラが沸き立ち、今まさにセシルに襲いかかろうとしている魔獣の動きを止めた。
野生の勘がかつてないほどの強敵の存在を察知させる。
魔獣はセシルを喰らう前に脅威を排除するために周囲を警戒した。
ドンッ!!!!
力強い歩みが大地を揺らす。
この怒りは敵に向けられた怒りではない。無力な己と、未だに己を縛り続ける戦いの宿命に対して向けられた怒りだ。
そして、今はただ一つ遺された少年との約束の為に怒りを封印する。
魔獣はリュウ・パンパンの魂を宿した爆空の存在を確認する。
間違いない。これこそが自分の存在を脅かす存在だ、と再確認した。
唸り声を上げながら立ち上がって爆空を威嚇する。だが、爆空は一向に気にする気配は無い。
「この魔槍の前に立ったのが、お前の運のツキだ。さあ、おとなしく野に屍を晒すがいい」
次回、ア○ア○ラ亜種対爆空( 中身はおっさん )!