パントーネ村に迫る影
お待たせしました。展開、遅すぎですね。ゴク○はまだか、ってくらい。
それはいつの頃からか、今となっては思い出すこともない。それの自我や自意識なるものがいつどこで生まれたのか、果たして今までの自分が持っていたのかすら思い出せないでいるのだ。
茫然とする気配の中に我が身を置いて、ただ前を進むだけの現状。自分は今、立って歩いている。そうしてはいるのだが、以前から直立歩行していたかどうかと尋ねられれば明確な答えを出せるわけではない。
違う。
今ここに限っては前に進まなければならないということだけは理解している。
帰ろう。自分のいた場所に。あるべき場所に帰り、眠りにつくのだ。ここは自分の居場所ではない。
巨大な黒い塊は、故郷のパントーネ村を目指して歩き始めた。その大きな足が一歩、地面を進むたびに草木は枯れて土は腐れて異臭を発するようになった。脚はさらに一歩、一歩と進む度に崩れ落ちている。その崩れ落ちた欠片が地面に撒かれると大地はは腐れて溶けた。
それの外見は、見るも無残な姿形だった。巨大な黒い泥人形。不気味な赤い瞳は遠くを見据え、その先にある場所を目指している。耳まで避けた口からは常に涎を垂らし、汚い涎が滴った地面はすぐに溶け出す。目の前に自分と同じくらいの大きさの木があれば、太い腕で薙ぎ倒した。どれほど足場が悪くなろうともおかまいなしに踏み潰しながらひたすら前進を続ける。その姿は正しく歩く凶器だった。
巨大な怪物がこのままパントーネ村に辿り着けば、どれほどの被害を被るか。十一年前よりもさらに年老いた村長はすでに近くの大きな町に救援の手紙を持たせた使いをやっている。だが、村には脚の速い馬などいはしない。もっとも脚の速い馬で牧場で一番馬を操るのが巧みな牛追いを使いにやったが、この分ではとても間に合いそうにないという状況だった。そこで村長は老人たちを村に残して、若い者たちを連れて逃げるように村の人々に向けて使いを出したのだ。
死ぬのは役に立たない老人だけでいい。村長は村の近くにある一番、見晴らしの良い小さな丘で怪物の動向を見守っていた。
パントーネ村で彼の次に年老いている弟が、兄を気遣って声をかけた。永い永い付き合いの二人だった。
兄がすでに村と滅びの運命を共にすることを決めていることを、彼は薄々と感じていた。彼の兄はかつて王家かかりつけの医者だった。その気になれば都で贅沢な暮らしも出来たはずだ。なのにも関わらず彼は一通りの役割を終えると、王都に比べれば何もない田舎の故郷に帰ってきたのだ。
そんな兄が故郷に残るつもりならば自分も村に残ろう。村長の弟もすでに死の覚悟を決めていたのだ。
「兄貴。村のことは心配するな。倫空たちには大体のことは伝えておいた。後はあいつらが何とかしてれるだろうよ」
村長も、自分の弟の様子から彼が既に覚悟を決めていることを感じ取っていた。親に反対され、村を出た時も弟だけは反対せずに自分の味方をしてくれた。
王家に仕えた後、家族と共に村へ帰った後も弟は自分たちを温かく迎えてくれた。血族であっても彼は得がたい存在である。村長の真意は弟にも倫空たちと一緒に別の場所に逃げて欲しかった。しかし、永年の付き合いから弟が村と運命を共にしようとしていることを察していた。こうなれば弟は梃子でも動くまい。
村長は苦笑いしながら、年老いた弟を見た。弟は兄に見つめられ気恥ずかしそうに顔を赤くしていた。
「お前の子供たちに、倫空に別れは言ったのか。あの怪物がここまで来ればおそらくは村は魔界の瘴気に覆われて人が住めなくなってしまうだろう。親の死に目に会えないのは辛いことだぞ」
親の死に立ち会えぬ者の苦しみ、それは村長自身の経験だった。おそらくは頑固者の自分の父親が病床にあることや、葬式のことを教えないように言っていたのだろうが。弟も、自分もつくづくこういうところは親に似てしまうものだ。
「倫空か。あいつは息子たちの兄弟の中でも特に鈍いからな。でも、大丈夫だ。きっとメリンダや爆空と新しい場所で上手くやるさ」
そういって村長の弟は、村の方を振り返り見た。一時間ほど前に倫空や村の大人たちを集めて今後の話し合いをしたのだ。あの怪物が現れた以上、この村も駄目だろう。
ここ数年の間に闇洞夜風の脅威は月日が経過するほどに増している。今、村に接近しつつある怪物は死の巨人と呼ばれていた。あれは歩いているだけで幾つもの村や町を滅ぼしている存在である。しかも翌日には煙のように姿を消してしまうというのだ。
王都から軍隊が出動して、何とか退治しようとしたがまるで歯が立たなかったと聞いている。これはこの国ベーグルランドの軍隊が戦力として役に立たないというわけではない。今の人間の持つ力ではこの怪物に対抗することが出来ない現実を実証しただけの話だった。
今は、一刻も早く倫空や村人たちが無事に逃げ延びてくれればそれでいい。村長の弟は、神に家族と隣人の無事をひたすら祈るのであった。
そして、舞台は爆空のいる村に戻る。父親から村の危機を聞いた倫空は、工房の中でパンを焼いているはずの爆空のもとに急いで駆けつけたのだ。まさか自分が故郷を捨てる日が来る事になろうとは思いもしなかった倫空であった。
「だから、さっき朝っぱらから兄貴や妹たちと親父の家に呼ばれたと思ったらだな」
倫空の狼狽した様子を見て、かえって爆空は冷静になってしまった。
早朝、家に祖父が訪ねて来たと思ったら、そのまま父の実家に連れて行かれたらしい。そこで例の怪物が村に接近しているから、村から離れた場所まで村人全員で避難するという話をされたと父は爆空に伝えに来たのだ。
爆空の祖父は村の長老の一人で、村の中では村長に告ぐ発言力を持っている。あの厳しくも優しい性格の祖父が簡単にそんな大それたことを勝手に決めてしまうとは思えないのだ。
爆空は複雑な表情でもう一度、その時の祖父の様子を聞いてみることにした。もしかすると祖父や祖母を含める村の老人たちは、村に残るつもりなのかもしれない。
「なあ、父ちゃん。祖父ちゃんたちはこれからどうするって言ったのさ?」
爆空は洗ったボウルを棚に置きながら何気ない様子で尋ねた。こちらの動向を父親に気がつかれるわけにはいかない。このどこか惚けたところのある父親は人一倍、身内に対する思い入れが強い性格なのだ。もし爆空が胸の内を明かせば絶対に一緒に来ると言ってくるか、もしくは爆空が怪物のもとに行く事を承知することはないだろう。
「倉庫の中身や役場の台帳を確認したりするらしいから、じい様連中は後で行くとよ。全くこっちの気も知らないで暢気なものだぜ」
爆空の作ったブルマンブレッドを一本、豪快に齧りながら倫空は答えた。いつもながら爆空の焼くパンはうまい。先程まで不安な気持ちだった倫空はいつの間にかいつもの落ち着きを取り戻し、苦笑していた。ほんのりと香る焼けたバターの風味、適量の塩味、何よりも外側のほどよいカリッとした食感とふんわりとした生地の感触が口いっぱいに広がる。お空の雲を食べたらきっとこんな味になるんじゃないかな。とうとう倫空は爆空に無許可で食パンを一本まるごと食べてしまった。
しかし、爆空は自分の予想が当たったことを確信した。やはり村の老人たちは村に居残るつもりなのだ。自分も、父親も、他の村の人々だって誰も老人たちを足手まといなどと思っていないというのに。爆空はこうなってしまったことに苛立ち、内心の怒りを抑えるために歯噛みした。
「おいおい。パン食っちまったの、そんなに怒ってるのか。いや美味そうだったからつい食っちまったんだ。ゴメンな、爆空」
心底、済まなそうな顔で倫空は謝っていた。
顔に出ていたか。それに気がついた爆空は父親の誤解を解くために謝罪した。この怒りは父へ向けたものではない。いつまでも無力な子供のままの自分に対して向けられたものだった。いつも村の為を思って生きている父に咎められるべき非はない。
ただ、パンに何かを挟んで夕食に出そうと思っていたので今度からはパンを食べる時は爆空に聞いてからにして欲しい、と考えていた。
「パンのことは別にいいよ。それより、父ちゃん。早く広場に行った方がいい。俺は道具を片付けたらすぐに行くから」
爆空は軽く父親の肩を叩いて、広場に行くように言った。
「お前もさっさと来いよ」
息子に急かされるような形で、倫空はパン工房を出て村の広場に集まった。あの様子ならば心配はない。無事に村人たちと一緒に安全な場所まで移動してくれるだろう。
爆空は道具を全て片付け終わると、パンの中に魂を宿らせているリュウ・パンパンのもとに向き直った。そのまま一礼して、頭を下げたまま爆空は師匠に己の思いを告げる。
「今から私は怪物退治に出かけたいと思っています。お師匠様、どうか許可を与えて下さい」
爆空は、このような日の為にひたすら鍛え続けてきた。今の自分ならば怪物を倒すことが出来るかもしれない。だが、無闇に力を振るうことは常々師匠から止められている。後一押し、自分が前に進むためには師匠の許しが必要だった。
「お師匠様。どうか何卒、私にファイティングカナブン・アーツを使う許可を与えて下さいッ!」
リュウ・パンパンは不敵に笑う。今の爆空の姿にかつての自分の姿を重ねていた。これは似ているどころの騒ぎではない。若き日のリュウ・パンパンそのものではないか。今の爆空は恐れているのだ。身も、心も強くなりすぎてしまった自分自身に。
「何という未熟。爆空よ、お前は仁義を以って勇を成すことにいちいち理由が必要なのか。その程度の覚悟と決意で何をどうするつもりだ」
やはり師匠は全てを見抜いていた。自らの内に秘める最後の弱気を、リュウ・パンパンは見抜いておられたのだ。ならば、命を賭してこの問いに答えなければなるまい。爆空はパン工房を揺るがすような大声で師の問いに答えた。
「村に平和を取り戻す為、そして村のみなさんに美味しいパンを食べていただく為です。その為に私はファイティングカナブン・アーツで村に迫る怪物を倒さなくてはならない。一つは家族の為に、もう一つは同胞の為に、最後に我が師の為に。どうか許可をお与え下さいッ!」
その思い、確かに受け取った。パンパンもまた工房全体を揺るがすような気を放った。師弟の、烈火の如き義気と灼熱のような気炎がぶつかり合う。この時、爆空の胸に残っていた弱気の全ては焼き払われていた。
「爆空よ。今ここで、お前に課した拳の封印を解くことを許す。貴様に大空を優雅に舞う、カナブンとなる覚悟はあるか!?」
かつて師は言った。竜は火を吹き、鳳凰は空を飛び、猛虎は大地を駆けると。しかし、カナブンは相手が竜、鳳凰、虎であろうと決して動じない。カナブンは誰を気にすること、また気にされることもなく優雅に空を飛び続けるだけだ。何事にも動じる事無く、ただ自然と一体化する。これこそが真の武術であると師は爆空に語ったのだ。自然と一体化してしまえば、全てを自然の出来事として受け入れることが出来るようになる。火の激しさも、空の果てしない大きさにも、大地を駆ける獰猛な獣にも怯える必要がなくなる。
「はいッ!」
我はカナブン。一匹のカナブン。今の自分ならば、師の放った燎原の全てを焼く猛火の如き気勢にも動じることはない。どうせ焼け落ちるなら草木と運命を共にしよう。迫り来る猛火はカナブンと化した爆空の前で静まってしまう。そして、カナブンは新しい憩いの場所を求めて飛ぶのだ。
かくしてカナブンとなった爆空は村を滅ぼさんとする巨大な怪物のもとへと駆けて行った。
次回こそはもっと早く書けるように頑張ります!