あまいゆめ
果歩は数学が得意だ。
四時間目、返ってきた中間テストの答案を握りしめてにんまり笑う。
対照的に、となりの席の清瀬はこの世の終わりみたいな顔をしている。
「あーだれかさんはいいよなー今回も一組トップかなー」
恨めしそうに果歩の机をのぞきこむ。果歩は反射的に手で隠したけど、一歩遅かったようで、清瀬は目をまんまるく見開いた。
「きゅ、九十八点……。人間じゃねえ……」
かあっと顔が熱くなった。いい点をとったことが急に恥ずかしくなる。
「あー、俺なんて赤点だよ、まじやばい」
「赤点っ?」
果歩はおおげさにのけぞってみせた。
「赤点なんてどうやったらとれるの? 信じらんない。人間じゃない」
清瀬の顔がひきつっているのに気づいて、果歩は、しまった、と後悔した。ほんの仕返しのつもりだったのに、言いすぎてしまった。
ごめん、と言いかけたところで「しずかにー」と先生に注意されて、うやむやになってしまった。
ちらと盗みみた清瀬の顔は沈んでいて、果歩のみぞおちもなんだか痛くなってしまう。
ああ、またやっちゃった。果歩は顔を両手でおおった。あたし、どうしてこうなの?
最近の果歩は、清瀬と話しているとサボテンになってしまうのだ。トゲトゲのサボテン。清瀬を傷つける。
昼休み、仲良しの史子に数学を教えているときも。懲りない清瀬は「俺にも教えてー」とからんできた。どきっとした果歩はシャーペンの芯を折ってしまった。動揺を悟られたくなくて、「清瀬のせいで折れたっ」などと言い捨ててそっぽを向く。どうしても彼の目が見れない。
清瀬は、
「じゃあもういいよ。中根には聞かないから」
と言って去った。嫌われた、と思った。世界の終わりだ。終わりを自分で手繰り寄せてしまった。
「あたしのバカ。バカ。バカバカ」
帰宅して、まっさきに果歩はパティに泣きついた。パティのふわふわのからだに鼻先を擦りつけると、ほんのりひなたとミルクのにおいがする。真っ黒いつぶらなふたつの目が、すすり泣く果歩の顔をじっと見ていた。
「なんで清瀬にだけいじわる言っちゃうんだろう」
パティは首をかしげた。ように、果歩の目には映った。
テディベア、だと果歩は思っている。ママはちがうよと笑っているけど。中一にもなって、まだぬいぐるみとお話ししてるなんてまったく果歩ちゃんは、なんて言って。
パティをくれたのはママだ。果歩が生まれてこの家にやってきたとき、ベビーベッドにすでにパティはいた。以来、彼は親友だ。史子にもほかの友達にも話せないことを、パティにならぶつけられる。
ちょっとぶさいくなところが可愛い。ゆるキャラみたいで、へたうまって感じで。そう果歩は思っている。熊のわりに鼻先がとがりすぎているし、胴体もなんだかブタみたいにずんぐりしてるけど。果歩にはどんなベアよりもパティが愛おしい。
「くまさんじゃないなんて、ママひどいよね。パティはこれでも、テディベアなのにね」
泣き止んだ果歩はパティの頭をなでた。その時だった。
「熊ではない。失礼な。わがはいは獏だ」
いかつい男の声がする。わがはい?
きょろきょろとあたりを見回すけどだれもいない。この部屋にはテレビもラジオもない。
「空耳?」
「ではない」
果歩のつぶやきは即座に否定された。そればかりか、ひざの上に抱っこしていたパティがひょいっと立ち上がったのだ。
「ま、まさか、パティが」
「いかにも。わがはいである」
「わがはいって……獏って……」
果歩は手元にあったスマホで「獏」を検索した。画面をスクロールする指先がふるえる。
――落ち着け、あたし。落ち着け。
「そんなもので調べずとも、本物が目の前にいるのだから聞けばよかろうに」
パティがやれやれと両手をかかげてみせた。その、アメリカのコメディのようなリアクションも、じじくさいしゃべり方も、すべてが果歩の「パティ」とは違う。
「ぬいぐるみは世を忍ぶ仮のすがた。わがはいは夢を食らうあやかしよ。そなたの夢はまこと美味であった。甘くて舌の上でとろける砂糖菓子のようだった」
「あ、あたしの夢、食べてたの……?」
いかにも、とパティはうなずく。果歩は思わず自分の頭をぺたぺた触った。むはは、とパティが笑う。
「心配せずとも、夢を食らわれたところでおぬしの命にはなんの問題もない。深くぐっすり眠れるから、かえってすこやかに成長するものよ」
言われてみれば果歩は夢を見たことがない。史子は毎晩極彩色のドラマチックな夢を見るようで、「夢日記」までつけているのに。いつも彼女の話を聞いているが、「夢を見る」という感覚が果歩にはいまいちぴんとこない。まさか獏のせいだったとは。
パティは続ける。
「しかし最近そなたの夢は酸っぱくてかなわん。それでも腹が減るので我慢して食っておったが、もう限界だ。日ごとに酸味は増し、ゆうべなど苦いくらいであった」
「そんなあ……」
勝手に食べておいてその言い草はないでしょと思いつつも、不味いと言われれば傷ついてしまう。パティは果歩のひざから下り、ベッドの上にごろりと横になった。
「果歩の知り合いに、だれか悩みの少なそうなこどもはおらぬか? こどもの夢は極上だからな」
舌舐めずりする獏。
「大人のは好かん。珍味だと言って好むやからもおるが」
「パティ、よその子のところに行くの?」
果歩はひざの上に置いたこぶしをぎゅっと握った。パティは腹をぼりぼり掻きながら、
「だって不味いしー」などとぶうたれる。
そんな。親友だと思ってたのに。
パティがしゃべったことよりも、ベアじゃなくて獏だったことよりも、しぐさがおやじっぽいことよりも、なによりもショックなのは。果歩がパティにとって、たんなる食糧の提供者にすぎなかったということだ。果歩の目から大粒の涙がぽろり、またぽろり。
「何を泣いておる」
「だって」
起きあがったパティは短い足をあぐらのように組み、ふう、と息をついた。
「そなたの夢が、ふたたび甘くなればよいのだ。さすればわがはいはずっと果歩のそばに」
「いてくれる、の?」
果歩は涙をふいた。パティはつぶらな瞳を果歩からそらし、短い手であたまの後ろをしきりに掻いていた。
つぎの日。
果歩はサブバッグの中にパティをしのばせて、どきどきしながら登校した。
果歩の夢が酸っぱくなった原因は、ひとつしか思い当たらない。清瀬だ。清瀬と席がとなりになった時期と、夢の味が変わった時期がかさなると獏は言う。
果歩の愚痴をさんざん聞かされていたパティは、
「恋というのはな。苦いのも酸っぱいのもえぐみの強いものもあるが、クセになるほど強烈に甘いものもある。頑張って甘くしろ」
などとほざいた。
「恋じゃないし。それに、そもそもパティが食べるのは夢でしょ。恋がどんな味だろうと関係ないでしょ」
果歩が口ごたえしても、パティはにたにた笑っているだけだった。
やな感じ!
「おはよー」
登校してきた清瀬が、自分の席についた。果歩に向けられた「おはよう」であったが、果歩は清瀬のほうを見れない。
「お、おは、おは」
真っ赤になって口ごもるだけだ。パティが果歩のもやもやに「恋」などと名前をつけてしまったがために、余計に意識してどきどきが止まらない。
「お、お、おはよっ!」
やっとのことで言えたその時にはもう、清瀬は他の男子のところへ行ってしまっていた。
――何をしておる。
パティの声がする。まだ彼はサブバッグの中。果歩の頭のなかに直接ひびいてくるのだ。だから果歩も口にださず、頭の中でこたえた。
――パティのせいだもん。
――そなたのせいだ。
――そうね、あたしのせい。それよりあなた、へんな術みたいなの使えるの? これ、テレパシーだよね?
――いかにも。人間のこころがのぞけるし、夢に入り込むことも、夢を吐きだすことも、夢に人間を取り込むこともできるぞ。
パティは得意げだ。獏のなかでもわがはいクラスにならないとこんな芸当はできないのだ、などとごたくが続くが、果歩はそれをさえぎった。パティ、と語りかける。
――清瀬のこころも、のぞける?
チャイムが鳴った。みながあわただしく席につき、先生が教室に入ってくる。
起立、礼。着席。先生が出席をとりはじめる。果歩はほおづえをついて、ちらちらととなりの席に視線をとばす。
――あー、こいつはまずい。
突然、パティの声が脳内にひびいて、思わずへんな声がもれそうになる。
――おどかさないでよ。
――清瀬光な。食えたもんじゃないぞこいつの夢は。たとえて言うならば、金属の……、錆とか……砂鉄とか、そういう類の味だ。
――夢、食べたの? 清瀬起きてるのに?
――眠っているときに見るものだけが夢ではない。その人間をとりこにしている考えや、妄想のたぐいもわがはいは食らう。
ふうん、と果歩は思った。それで、甘い恋が食べてみたいのね。
――清瀬、悩みがあるのかな?
――悩み、だろうな。こやつの頭のなかは、数字だらけだ。数字に支配されておる。
数字、だらけ。
奇しくも一時間目は数学で、清瀬は腹痛でも我慢しているかのような顔で自分のノートをにらんでいる。問題を解く手は止まったまま。果歩は、そっと、教科書に視線を戻した。
赤点、ショックだったんだね。それなのにあたし、あんな言い方しちゃって。
やめろ、酸っぱい、とパティの悲鳴があがる。勝手に食べないで、と果歩は舌を出した。
一日中、果歩は清瀬を観察し続けた。やっぱりどこか元気がないように見える。
「果歩、どうしたの。元気ないね」
「史ちゃん」
史子が果歩の前の席の椅子を借りて座った。いつの間にかお昼休みになっていた。史子が果歩の目の前に広げたのは塾の問題集。
「まーた課題やってこなかったの」
「だって自分ひとりじゃわかんないんだもん」
まったくしょうがないなあ、とこぼしつつも果歩は史子と一緒に丁寧に問題を解いた。
「果歩の説明、わかりやすい。塾の先生より教えるのじょうずだよ」
「そ、そうかな」
まっすぐな賛辞に、果歩は頬を赤らめる。
「いつも頼っちゃってごめんね」
「いいの。誰かに教えてると自分の復習にもなるから。あたしのためにもなってるんだよ」
史子のおでこを人差し指でこづく。テキストで半分顔をかくして、史子が笑った。なんだか少し照れくさい。
「中根って、小向にはやさしーのな」
とつぜん背中に声が刺さった。ふり返らずともわかる。清瀬だ。
「ていうか俺以外にはやさしーよな」
「あんたが嫌われるようなことしたんじゃないのー?」
史子が冗談めかしてまぜっかえす。果歩はテキストを見つめたまま、がちがちに固まってしまっていた。
「小向、やっぱ塾って大変?」
「うんー。夜遅くなるし、課題も出るし。うちは結構きびしい方だからとくにきつい」
はーあ、と清瀬は盛大なため息をこぼした。
「俺さ、つぎの期末も赤点だったら、陸上部やめて塾行けって言われてんだよね」
「えーまじ? 清瀬って走る以外になんも取り柄ないのにー」
「ほっとけ」
清瀬と史子のやりとりはぽんぽんと毬のようにはずむ。いっぽう果歩は一生懸命清瀬のことばを拾っていた。部活を辞めさせられる、それであんなに、落ち込んでいたんだ。
力になりたい。清瀬にも教えるよって言いたい。言いたい。シャーペンをにぎる手にぐっと力をこめたら、ぽきりと芯が折れた。
「あー、果歩、また」
史子が笑う。
「筆圧強すぎ。握力強すぎー」
清瀬にからかわれて、果歩は思いっきり彼をにらんだ。
「こっわー。俺もう退散―」
「おうー。行け行けー」
史子が笑いながらしっしっと手を振った。
――史ちゃんが清瀬にたたく軽口にはぜんぜんとげがなくて。子犬がじゃれ合ってるみたいで。なのにあたしは。
――泣くな果歩。史上最悪に不味いぞ。
ぺっぺっ、とつばを吐きだす音まで脳内に届いて、果歩は、パティのばか、とつぶやいた。
帰りのホームルームの最中。
いかんな、とパティは言う。ひどくなるいっぽうだ。これではわがはいは飢え死にしてしまう。と。
――我慢してよ。
――そなたも食らってみるがいい。へんなにおいまで混じってきて最悪だ。たとえるなら蛇を干した粉でつくった秘薬……。
――たとえなくていいから。わかんないし。
――兎に角。わがはいはそなたの夢を食うのはやめる。ぬいぐるみはやめだ。ほかの憑代をさがす。
「行かないでっ」
とっさに果歩は叫んで、立ち上がった。クラス全員があっけにとられて果歩を見ている。
「中根のやつ、寝ぼけてんのー」
清瀬が言って、みんな笑った。
「……っ」
どよめきが引いて、教室がしんと冷えた。
あたし、最悪。こんなとこで、みんなの前で泣いちゃうなんて。そう思うのに涙は止まらない。パティまでいなくなっちゃったら、あたし。あたし。視界の端に、戸惑っている清瀬のすがたがうつる。やさしくしたいのに。力になりたいのに。
と、その時。
「チャンスをやろう」
声とともに白い光がはじけ、果歩のサブバッグの中からパティがぽんっと飛び出した。
「出てきちゃだめだってば」
慌てる果歩には構わず、パティはとがった鼻先から、ふーーーっと、長い息を吐きだした。息というか、湯気というか、煙というか。もくもくと大きくふくらむ、ミルク色の雲。
「五分だ」
パティはおごそかに告げる。
「最近ろくな食事ができてないからな、五分が限度だ」
「な、なにが?」
「言ったであろう、わがはいは夢を吐くことも、人間をそこに取り込むこともできると」
そういえば言っていた。果歩はろくに聞いていなかったが。
「五分間だけ、あまーい夢にご招待だ。果歩と清瀬少年を、だ。ぞんぶんに話せ。いいか、ふたりきりだぞ? このチャンスをムダにしたら、あとはもう、知らないからな」
言うやいなや、パティのつぶらな両目から桃色のビーム光線がはなたれ、果歩と清瀬をつつんだ。つぎの瞬間、ふたりはミルク色のもやの中に、いた。
「え? あれ? なんだここ?」
突然、みょうな世界にひきずりこまれた清瀬はきょろきょろとあたりを見回している。
「ゆ、ゆめの世界、だって」
果歩の声は固く、うわずっていた。高鳴る胸をしずめようと、息を大きく吸い込む。甘くてほんのりひなたくさい。パティのにおいだ、と果歩は思った。
「夢って」
と言ったきり、清瀬は口をつぐみ、沈黙が降りた。
果歩は自分の腕を所在なくさすって、何から話しかけようか考えていた。五分しかないのだ。こうして迷っているあいだにも、じりじりと時間は過ぎていく。
「夢って気持ちいいな。忘れてた。たしかにこういう世界、知ってた気がするのに」
沈黙をやぶったのは清瀬のほうだった。しかも、この奇妙な状況下で猫のように大きなあくびをかましている。果歩は拍子抜けした。
「最近俺、眠れなくって。悪夢見るの。数字おばけが追っかけてくる夢」
「獏に、食べてもらえばいいのに」
思わず口走ってしまって、果歩は口を押えた。ぶはっと清瀬は笑う。
「獏かー。そりゃいいやー」
清瀬はごろんと横になった。ふかふかの雲のなかは、天井も床もどこもかしこもふかふかで。果歩も思い切って腰を下ろした。
清瀬はまぶたを閉じて、ホントに眠ってしまいそうないきおいだ。
――おいおい、起こせ。もう三分経ったぞ?
パティがせかす。あと二分? どうしよう。
チッチッチッチッ、と調子にのった獏はクイズ番組さながらに秒針の効果音をマネして果歩をせかす。
「清瀬起きてっ。清瀬っ」
まんまと焦らされた果歩は清瀬の肩をゆすった。半目をひらいて寝ぼけた清瀬は、
「あー中根だー。脳みそ取り換えてー」
などとふざけたことを言う。
「期末テストのときだけでいいからー」
「バカっ」
「バカだもん。俺はどーせバカだもん。なんでマイナスとマイナスをかけたらプラスになんだよー? 意味わかんねーしっ」
「意味とかいいのっ。とにかくそうなるのっ」
「だめだろそれじゃ。俺はちゃんとナットクできないと先に進めないのだ」
チッチッチッ、と獏の声がこだまする。にじゅうびょう、と将棋の対局のように獏は残り時間を告げる。じゅうびょう。
「あたしが教えるっ」
「中根?」
「数学、教える。いっしょに、」
ブーッ。タイム・オーバーッ!
パティの声とともに、雲が消えた。果歩も清瀬ももとのホームルーム中の教室にいて、自分の席にちゃんと座っていた。
がんばろう、まで、言えなかったな。
と、つんつん、と果歩の腕をつつくものがあった。それは折りたたまれた小さなメモ用紙で。
そっと開くと、
「よろしく中根せんせい」
とあった。隣を見ると、清瀬がにんまり笑っている。こくんとうなずくと、さらに彼はなにか書きつけて果歩に渡した。
「夢だけど夢じゃなかったんだな、あの綿菓子」
と。ある。
――あーあ、世話が焼ける。ま、ちょっとはマシな味になったから良しとしよう。
パティのぼやきが、聞こえた。




