三輪車は見えなかった
僕は親切な人間だ。
それからとても利発な人間だ。
普通、親切というものは、人に分かりやすくしてしまえば偽善と言われるし、それの将来に対して思いやりを持たなければ、いらぬお節介だと言われてしまう。
だが僕は利発だ。賢い。
例えば今日の帰り道。
一台の自動車が袋小路へと入って行こうとする。
中には若いスーツ姿の会社員。
もちろん、この細い道だ。入っていったら出るには容易ではない。
ここで止めてやり、彼にあちら側へ抜ける道を教えてやるのが筋だろう。
だけれども、いわずもがな僕は知恵が利く。
ここで彼に教えてやるのは簡単で、誰しもができる事だが、果たして彼の為になるだろうか?
彼が身を持って体験し、土地勘を養い、また与えられた苦難を乗り越え運転技術を向上させる事が大事だ。
そうすればこの先、僕のいないところで同じ事があっても無事乗り越えられるだろう。
彼はこの僕の親切を一身に浴びて袋小路へと入って行くのだ。
それから例えば電車。
席はほどほどに空いている、普通なら座るところだ。
お年寄りや不自由のある人が来たら席を譲れば良い。
だが僕は親切で、よく気がつく。
席を譲られるお年寄りは恥ずかしく思わないだろうか。
ならば初めから立って席を空けているのが好ましい。お年寄りは僕の親切を浴びて、ただ何の気もなくそこに座れば良いのだ。
万が一にも、僕が空けておいたはずの席に誰か人が間違って座ってしまう場合がある。
けれどもその人も疲れているのだし、賢くなくとも親切な人間がほとんどであるから、その時になれば譲るのが通常だ。
その場合、かの人は、僕の親切によって、お年寄りに親切にする事ができるわけだ。
僕の親切は尽きるところを知らない。
無知な人にはあの会社員と同様に無言でもって教えてやるし、ものを言い過ぎる人には聞いたふりをしてやる。
例えば、道に迷ったアリを人知れず応援してやったり、雨が降った日には、それぞれの立場を憂いたり、喜んだりしてやる。
そんなわけで、今日も親切を心掛けて電車のドアの脇に立つ。
窓から外を見ていると、線路脇の道で赤い車がスピードを出して走っているのが見えた。
それから、十数秒後には確実にそれが通るであろう道の真ん中に三輪車に乗った小さな子。
車窓の景色はそのまま過ぎ去ってしまったので、様子はよく見えなかった。
だが僕は親切で利発な人間だ。
きっとあの子は大丈夫に違いない。
そう思うことにした。