8 鈴音4
朝食が終わると、セカンドとサードは出て行ってしまった。仕事があるということだった。何でもこちらの仕事は、やる時にやって、やらない時にはやらないという、かなりアバウトなものらしい。
「ファーストは仕事に行かなくていいんですか?」
「ああ。・・・別に鈴音を見張ってるわけじゃない。ただ、フリーの女が見つかると、見つけた男が嫁にしてしまうんだ。悪いが、俺達がいない時に一人で出歩くことはしないでくれ。その場合は、俺達とてどうしようもできない」
「・・・分かりました。フリーかどうかって、分かるもんなんですか? だって、こちらで結婚している女性もいるんでしょう?」
自分の家だからだろう。リビングの壁際に寄せられている大き目のベンチで仰向けに寝転び、ファーストはくつろいだ様子で本を読みつつ、鈴音と会話している。
「俺達は一人一個だけ、自分の体から石をあしらった鎖を出せる。それを配偶者に贈るんだ。それを身につけているかどうかで、その女が迷い込んだ人間か、既にこちらの誰かの妻になっているかが分かる」
「鎖、・・・ですか」
何という怖いシステムなのか。鎖をつけさせるだなんて、かなりの人権無視団体だ。
「見るか?」
「見てもいいんですか?」
「ああ」
それでも、見てもいいと言われると、怖いもの見たさが先に立つ。
どこから出したのか、ファーストは起き上がって鈴音の傍に寄ってくると、水色の丸い石に銀色の唐草みたいな模様をあしらった物を渡してきた。
「え? 鎖じゃなくて、綺麗なネックレスじゃないですか。鎖って言うから、てっきり・・・」
見ていたら吸い込まれそうになる不思議な水色の石だった。
鈴音は、このネックレスを欲しいと強く感じた。意識を強く持っていないと、人の物なのに、勝手に自分が首に掛けてしまいたくなる。
「外を出歩きたくなったらそれを貸すから、俺に言ってくれ。そういった物を身につけていたら、基本的には他の男に会っても大丈夫だ。・・・ただし、元の世界に帰りたいならそれは身につけておかない方がいい」
「え?」
「その首飾りを身につけていたら、この世界で他の男に襲われることはない。しかし、その首飾りを身につけることでこの世界の人間とみなされてしまう。・・・元の世界に戻りたければ、その首飾りをなるべくつけず、鈴音の世界とこちらの世界を繋ぐ水鏡が現れるのを待った方がいい」
「はい・・・」
身振りで促されてそのネックレスをファーストに返す時、鈴音は心が軋むような気がした。
これを返すことは間違いだと、何かが身の中で叫ぶ。
(やだ、私ったら・・・。綺麗だからってなんて浅ましいことを)
ファーストの大きな手に、鈴音はそのネックレスを載せる。
けれども。
ネックレスを挟んで重ねられた二人の手が、どちらからともなくその指を強く交差させずにはいられなかった。
その仕草が、ファーストには鈴音の、鈴音にはファーストの感情を伝えてくる。
惹きつけられるかのように、二人の視線も交差した。
互いの瞳にあるものを、どうして気づかずにいられるだろう。
(ああ。きっと、私達・・・)
言葉がなくても、通じ合う時がある。
隠すことのできない感情が、向かい合う心と心を射抜く時が。
「鈴音」
低い声はどこまでも優しく、それでいて熱かった。
互いの片手はネックレスと共に重ねられたまま、ファーストの片腕は鈴音の腰に、鈴音の片腕はファーストの首へとまわされる。
いけないと思いながら、鈴音は自分を止められなかった。その唇が触れ合ってしまっても。
(このまま、時が止まってくれればいいのに・・・)
ファーストの胸部に顔を埋めながら、鈴音は願わずにはいられなかった。
自分を案じているであろう家族を思えば、このまま行方不明になるわけにはいかない。それこそ事件に巻き込まれたのではないかと、両親が東奔西走し、家族がぼろぼろになりかねない事態をどうして招くことができるだろう。
家族の一員として、何があっても帰還する努力はせねばならない。それが義務だ。
それでも、できることならば・・・・・・。
この人と一緒にいたい。そして相手からも同じ思いを、その眼差しから、口調から、そして触れた体から感じずにはいられない。
そんなお互いの思いを踏みにじるのは、結局、自分の願いなのだ。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ファースト」
「いい。分かってる」
泣きじゃくる鈴音に、それでもファーストは理解を示す。恐らくは、かなりの無理をしながら。
(優しくなくていい。それこそ無理矢理でいい。そのまま他の男の人達のように私を雁字搦めにこの世界に縛りつけてくれたなら・・・・・・あなたを憎みながらも、それでもあなたの傍にいられたのに)
そんなファーストの優しさが嬉しくて、そしてとても悲しくてたまらない。
相容れない自分の望みを軽蔑しながら、鈴音はその温もりを離すことができなかった。
数日後、鈴音は海に連れてきてもらっていた。
「うわぁ、深緑の海・・・。私の世界だと海は紺碧って言うのかしら、様々な深みの青色か緑色なのよ。こっちはまさに緑色なのね」
「そうだな。俺達にとってはこれが普通だが、・・・きっと鈴音の世界に行ったら、俺達もその紺碧の海を見て感動するだろう」
「じゃあ、きっと感動はお揃いね」
「そうだな」
少し遠出とあって、鈴音はファーストのネックレスをつけていた。歩いて三十分ぐらいというので、二人でやってきたのだ。
麦わら帽子をかぶり、袖のないワンピースとサンダル、そして薄手の上着を羽織った鈴音は、海を見るや否や、駆け出していた。
何と言っても、海も砂浜もとても綺麗なのだ。公害や不法投棄による汚染がないからだろう。
そんな鈴音に、ファーストも笑いながら付き合っている。
だが、何と言っても鈴音は希少な存在である。しっかりセカンドとサードは少し離れた所から、二人の様子をチェックしていた。勿論、それはファーストも知っている。
「もっと時間があれば水着も手に入ったんだろうけど、さすがになあ・・・。しかし、本当にあの二人、めっちゃ仲良くなってねえ? あれでもまだ元の世界に戻すってのが、俺、信じらんねえ。セカンドだってそう思うだろ?」
「まあ、な。だが限りある時間だと思えばこそ、ああやって思い出を作ってんだろ。どっちかっていうと、俺には痛々しくも見えるがな」
「痛々しいかぁ? 正直、今のあの二人のいちゃつきぶりを見りゃ、石を身につけてなくても誰も入り込めねえだろって思うぞ、俺は」
「だな。すれ違った奴らもかなり中てられてた。鈴音は、あれらがこの世界の人間とは思わなかっただろうから、可愛い動物にファーストのことを話してただけなんだろうが」
自分達ならただの兎か、人である兎かは分かるが、鈴音には分からない。
可愛い兎達を見つけて、近寄って話しかけつつ、ついでにファーストのことを話してしまっていただけだ。
「うわあ、可愛い。人懐っこい。ファーストもきっと見たら可愛がりそう。・・・ふふっ、ファーストって、あまり口にはしないけど、本当に優しい人なのよ」
とか。
「この子の毛、ファーストや琥珀の色に似てる。・・・本当に綺麗ね。まるで黄金に輝く収穫時期の稲穂畑みたい。私、髪が黒いからそういう色に憧れるのよね。私も染めたらファースト達とお揃いになるかしら」
とか。
鈴音はファーストには聞こえない距離だと思っていたらしいが、聴力は鈴音よりはるかに自分達の方が優れている。ファーストも苦笑するしかなかったらしい。
きっと鈴音のことだ、あれが普通の兎じゃなかったと知ったら真っ赤になって悲鳴をあげるだろう。知らぬが仏、という奴だ。
ファーストもそう思ったのか、何も鈴音に説明しなかった。まあ、とぼとぼと去って行く兎達を見れば、追い打ちをかける程、鬼にはなりきれなかっただけだろうが。
今も、大きな波が来たというので、ファーストが鈴音を濡れないようにと抱き上げているのが見える。
「俺達の場合、どうしてもお袋がなぁ。お袋だって親父のことをあんなに好きなのに、あそこまでこじれまくったわけだろ。だけどさ、お袋だって、ああやって鈴音のように親父と時間を積み重ねられるチャンスもあっただろうに」
「お前は優しすぎるんだよ、サード。お袋をこちらに無理矢理繋ぎとめたのは親父だが、お袋だって親父を選んだんだと俺は思うね。・・・鈴音が現れて分かった。俺達はこの世界のこの理に否定的な少数派だ。だから先入観に惑わされずに迷いこんできた女を見ることができる。現れる女は、決して被害者なんかじゃない」
「かもね。だけど今の状況じゃ、あくまでそれは俺達の独断と偏見にすぎない。他にも事例があれば別になるだろうが」
セカンドの憶測は参考になるものの、あまり大声で話せることでもない。
サードは二人へと再び視線を向けた。
屈託のない笑顔をファーストに向ける鈴音は本当に幸せそうだ。あれを見ていたら、やはりサードは母親を思い出さずにはいられない。容姿は全く似ていないけれど。
同じ世界の人間、同じ女、同じこの世界の男に愛された存在、それでもどうしてあんなに違うのだろう。
(ああいう互いだけを見つめ合える、そんな愛を、少し考えを変えるだけであんたは手に入れられただろうに。・・・馬鹿だよ、あんたは。親父にしても俺達にしても、ずっとあんたを愛していたのに)
そんなサードの頭を、セカンドはポンと叩いてきた。
「男女の仲なんて当事者以外には分からないものさ。親父達にしても、ファースト達にしても。お前が気に病むことじゃない。俺達は俺達のあるがままに生きればいいだけだ」
「ああ。・・・とりあえず、あそこであるがままにこけて濡れてしまった鈴音はどーするよ。かなりトロいよな、鈴音って」
「ファーストが目を離さないわけだな」
ひっくり返っていた亀を助けていたファーストの後ろで、鈴音がヤドカリに驚いて転んでしまったのだ。慌てて振り向いたファーストもびっくりである。
「怪我はなさそうだし、ま、いっか。それともタオルか何か取りに行くか?」
「行きたきゃお前が行けよ、サード。あんな状況で入り込む方がお邪魔虫って言われるんだぜ」
「そうだけどさ。鈴音の存在がバレ始めて狙われてるってんでここまでガードしてるっつーのに、肝心の鈴音自身があいつらを撃退してんだぜ? 何か、俺、この覗きっぽい行為が嫌になってきてんだけど」
「それは俺も同じだっつーの。普通、来たばかりで泣き暮らしている筈の訪問者が、横取りする気満々の奴らに向かってファーストのことばっかり話し続けるんじゃな。・・・いや、知らないってのは最強だ」
かなりげんなりした様子で、サードは立ち上がり、埃を払った。
「遠巻きに見ていた奴らも帰ったし、俺らも帰ろうぜ。・・・こっちの方がダメージ受けちまう。どうせ何かあればファーストが知らせてくるさ」
「そうだな。見てる方がきついな、あれは」
ファーストがちらりと視線を向けてくる。そちらに小さく手を振り、セカンドとサードは帰ることにした。その方が気兼ねなく過ごせる筈だ、ファーストも。
「どうしたの、ファースト?」
「いや。鳥が羽ばたいたような気がしたんだが、気のせいだったらしい。濡れてしまったが平気か?」
「うん。サンダルを脱いだ方が、砂の感触が面白いの」
もう濡れてしまったのだからと、遠慮なく打ち寄せる波を鈴音は楽しんでいる。
ファーストも今度はしっかり手を繋いでいた。
「寄せては返す波って、人を想う気持ちみたいよね」
「そうなのか? どんな風に?」
波に足をとられそうになる鈴音を、ファーストが腕一本だけで支える。その力強さを疑っていないのだろう、鈴音はそのままするりと、ファーストの腕の中に入り込んだ。
「すぐ海に戻されても、何度も何度も陸地へと向かおうとするじゃない? たとえ波が海の一部だとしても、きっと岸辺へと行きたいのね。何度連れ戻されても」
「・・・鈴音」
叶わなくても打ち寄せる波のように、きっと自分は元の世界に帰っても、心はこの人の所へとさざ波になって戻るのだろう。その想いが泡となって消えるばかりだとしても。
鈴音は瞼を伏せた。
「ごめんなさい、ファースト」
「鈴音は謝ってばかりだな。・・・泣くなとあれ程言ったのに」
「・・・好きになって、ごめんなさい」
「それ以上は言うな、鈴音。・・・手放せなくなる」
その言葉が鈴音の全身を優しく貫いていく。
ファーストの愛情を疑ったことなどない。本当に手放したくないと思ってくれていることを知っている。
鈴音の頬を流れる涙を受け止める、その唇の温もりも、この体を包む腕の穏やかさも。
「好き・・・」
「知ってる」
誰もいない砂浜で、二人はまるで海の水を思わせる口づけを交わした。