4 鈴音2
家を使わせてもらっているお礼にと、さすがに個人の部屋はともかくとして、それ以外をせっせと掃除している鈴音である。そんな鈴音を、琥珀は欠伸をしながら見守っている。
箒と雑巾は見つけたものの、掃除機はなかった。フローリング用の艶出しがあればいいのだが、そういったものはないらしい。
「たしか、牛乳で磨けば艶が出る筈なの、こういう板って。・・・だけど食べ物をそういった使い方するのって嫌がる人もいるのよね。琥珀はどう思う?」
話しかけると、琥珀はそれなりに小さな反応を示す。その為、鈴音はちょくちょくと話しかけていた。返事はないが、何となく会話になっている気がするからだ。
じっと見ていると、琥珀は、どうでもいいとばかりに小さく欠伸をして目を閉じてしまった。
「まあ、分からないからやめておきましょう。この家は土足だし、あまり意味がないかもしれないものね」
窓や家具をせっせと拭いて、玄関のドアなどもきちんと拭きあげる。外にある物置小屋を見たら、ペンキや板や大工道具など、色々と入っていた。どうやら三人の男達はそういう作業もするのだろう。
「うん、電灯の笠も綺麗になったし、きっとこれでもっと明るくなるわね」
出来上がりに満足して、紅茶を淹れる。氷で一気に冷やして、冷凍庫にあったレモン果汁を入れた。
鈴音がそれを味見して満足していると、琥珀が寄ってくる。
「犬がレモンティーなんて飲むの? 味見だけよ?」
鈴音もダイニングテーブルにティーポットとカップを運び、近くの床に琥珀の深皿を置いてレモンティーを注ぐ。常に置いてある深皿の水は取り替えて並べておいた。水が良ければそっちを飲むだろう。
だが、レモンティーをペロリと舐めてしまった琥珀は、もっとと言うように見上げてくる。鈴音は琥珀のおねだりにかなり弱くなっていた。
「だけど、琥珀。レモンティーじゃなくても、ミルクだってあるのよ?」
冷蔵庫からミルクの入ったピッチャーを取り出すが、琥珀はレモンティーの入ったポットを見ている。
犬を飼ったことがあれば、まだ分かることもあったのだろう。最近では根負けしてコーヒーもあげるようになってしまっていた鈴音である。
戸惑いながらも鈴音はレモンティーを深皿に足してやり、結局ポットの半分は琥珀のお腹に納まったのだった。
ダイニングの椅子に腰掛けながら、それを見ていると鈴音も心が和む。それに、ここの椅子は背もたれがかなり高く、首まで支えてくれるのだ。かなり座り心地が良い。
「本当はもっと心配しなくちゃいけないこともあるんだけど、・・・ここがどこか分からないんじゃどうしようもないものね」
レモンティーを飲み終えた琥珀の頭を撫でてやりながら、
「ごめん、琥珀。ちょっと眠らせて」
と、椅子に腰かけたまま、鈴音は目を閉じた。
掃き掃除はともかく、さすがに拭き掃除はきちんと力を入れてやると体力を使う。元々、あまり運動しない鈴音に、それらはかなりハードな運動だった。
目を閉じた途端、鈴音は深く寝入ってしまっていた。
トントンと、包丁がまな板に当たっている音がする。母が台所で何かを刻んでいるのだろう。
何かを炒めるようなジャーッという音、そしてしばらくすると、何かを煮込んでいるような匂いが漂ってきた。
(お母さんの作るのは、和食が多かった筈なんだけど・・・)
だけどこれはコンソメ系の香りだ。
そこで鈴音は、ぱちりと目が覚めた。見慣れない、けれども見覚えのある天井。そして家具。
そう、ここは無料休憩所のログハウス、そして自分が寝ていたのはその客室のベッドだ。
(もしかして、・・・私が寝ている間に、住民の人が帰ってきたの?)
慌てて鈴音は飛び起きた。ベッド脇にあった靴を履いて、扉を開ける。そしてリビングキッチンへと向かうと、キッチンではかなり背の高い男性が料理をしていた。
身長は190センチメートル位だろうか。かなり薄い茶色の髪をしていた。黒い長袖のシャツにブルージーンズといった格好だが、袖は二の腕の所までまくっている。
「ああ、起きたのか。まだ出来上がるまで時間はかかるが、・・・ポトフは食べられるか?」
「あ、はい。好きです」
「悪いが男の料理なんて、こういう煮込むだけとか、焼くだけとか、そういう程度のものだ。良かったら、サラダを作るのを手伝ってくれると助かる」
鈴音はキッチンに立つ男の近くに行った。間近で見ると、その瞳は薄い茶色をしていた。
「・・・あの、ここの家の方、ですよね?」
「ああ。ファーストと呼んでくれ」
「・・・岡倉鈴音、です。鈴音が名前、岡倉が苗字ですけど。・・・ファーストさんって呼べばいいんですか?」
「いや。ファーストでいい。この辺りでは個人の名前ではなく、産まれた順番にファースト、セカンド、サード、フォース、・・・そうやって呼ぶんだ。だから敬称は全く必要がない」
「はあ。そういう文化の所なんですね」
たしか外国でもそういう文化があった筈だ。誰さん家の何番目の息子が、その名前となる・・・。
「鈴音、そう呼べばいいのか?」
「はい。スズネでもオカクラでも、どちらでも」
「そうか。・・・色々と訊きたいことはあると思うが、おいおい尋ねてくれればいい。急ぐことはないし、鈴音の要望にはなるべく応えよう。だが、・・・鈴音が状況を把握するまで、この家からあまり離れないでほしい」
「はあ・・・。あの、・・・あなたは、分かってるんでしょうか?」
何をと、それを鈴音は訊かなかった。どう言えばいいのか、分からなかったのだ。
だが、剥いた野菜の皮などを片付けながら、ファーストは小さく笑った。
「そうだな。多分、分かってると思う。鈴音の置かれている状況も、鈴音が恐れていることも。・・・少なくともこの家にいる限り、誰にも鈴音を傷つけさせないと誓おう。だから、何も怖がる必要はない」
シンク下に掛かっていたタオルで軽く手を拭き、ファーストは鈴音の近くまでするりとやってきて、その頬に大きな手を添えてきた。大きな体をしているのに、その動きは流れるかのようだ。
「もうすぐ弟達もやってくるだろう。セカンドとサードだ。セカンドとサードも、この家に部屋もあるが、自分達の家も別に持っている。だから食事以外は、この家は鈴音一人で使えばいい」
その手があまりにも温かくて、鈴音は泣きたい気持ちになった。
久しぶりに会った人間だったからかもしれない。孤独がこたえていたのかもしれない。
おかしな人間だと思われたくなくて、鈴音はまず気になっていたことを尋ねた。
「あの、琥珀・・・いえ、大きな狼っぽい犬がいたと思うんですけど、どこに行ったか知りませんか? あの子の本当の名前、教えてもらってもいいですか?」
「名前は、・・・ないんだ。鈴音が琥珀と名付けたならそれでいい。そう呼んでやってくれ。・・・多分、俺がここに戻ったから、弟達の家に行ったか、森に戻ったんだろう。鈴音が一人で心細そうだと思ったからついていただけで、基本的に一人でいるタイプなんだ、あいつは」
「そう、・・・なんですか」
どうやらここは、本当に名前に頓着しない場所らしい。鈴音はそう思った。こんがらがったりしないのだろうか。
けれども、思っていたよりもはるかにこの家の住人は優しい人のようで、鈴音は緊張していた心がほどけていくのを感じていた。
添えられた手が温かい。自分を見下ろしてくるその眼差しも・・・。
初めて会う人なのに、どうしてファーストはこんなにも優しい気持ちを向けてきてくれるのだろう。
(優しくしないで・・・。甘えられる人がいたら、駄目になるから)
そう思った途端、鈴音は自分がどんなにそれに飢えていたかに気づいた。ほろりと、そんなつもりもなかったのに、目から雫が落ちる。
「ふぇっ、・・・うっ、・・・ふっ・・・」
ファーストは、そんな鈴音の背中にそっと両腕をまわした。
「大丈夫。元の世界に戻りたければ、そのチャンスがあれば戻してやる。だから、・・・泣くな」
ああ、本当にこの人は分かっているのだ。
頬に感じるファーストの体温が温かかった。あくまで力をこめてこない腕が優しかった。
それが嬉しくて、切なくて、・・・そして見知らぬ他人にそれを見出さねばならないこの状況が悲しかった。
「帰りたいっ、なんでっ、どうして・・・っ」
鈴音は、涙腺が壊れたかのように号泣しながらファーストにしがみついた。
ファーストは何も言わず、ただ黙って鈴音を泣かせてくれていた。途中、しっかりタオルを渡してくれるという、無駄に気配りが過ぎる男だったけれども。
どんなサラダを作ろうかと訊かれたので、冷蔵庫の中を見てみたら、外の畑にトマトとナスとキュウリ、バジルがあるとも言われた。
ファーストと一緒に鈴音が畑に行ってみると、サニーレタスもあった。裏の畑には気づいていたが、正直、誰の物か分からない上、売り物だったらどうしようと思って手を出せなかったのだ。
しかしファーストは、単なる家庭菜園だから勝手に食べていいと言う。
「じゃあ、サニーレタスとトマトとキュウリでサラダにしちゃいましょう。あ、ゆで卵も作れるかしら」
「ゆで卵? 何個いるんだ?」
「そうですね。上に散らすだけだから、四人分なら二個あれば十分だと思うんですけど」
家で作る時は四人家族で二つ使う。泣いてしまった照れ隠しで元気に振る舞いながら、鈴音はファーストと熟れたトマトを探した。キュウリもトマトも小さな棘がびっしり生えていて、新鮮な野菜とはこういうものなのかと、鈴音にしてみればまさに新鮮な体験だ。
収穫した野菜を持ってキッチンに戻ると、ファーストは冷蔵庫から卵を取り出して、丸い側をカツンとスプーンで叩いてヒビを入れ、さっと水に漬けてからポトフの鍋に放り込んだ。
「ゆで卵は半熟がいいのか?」
「完熟でお願いします」
どうやら、茹で上がった時点でポトフの鍋から卵を取り出すつもりらしい。・・・さすが男の料理だ。カッコ良すぎる。鈴音は黙ってサニーレタスを洗うことにした。
「四人いるなら、サラダも大皿に作れちゃいますね」
「そうだな」
明るい青色と黄色を使って描かれた陶器の大皿が気になっていた鈴音である。早速それに彩りよくサラダを盛りつけていった。オリーブの実や生ハムも散らしていく。
「で、このゆで卵をどうするんだ?」
「これは、殻を剥いてから、このザルを使ってお皿の上で裏ごしするんです」
ゆで卵の白身と黄身がザルの目を通すことで小さくなり、パラパラとサラダの上に降りかかる。それはまるでミモザの黄色い花のようだから、ミモザサラダと呼ぶのだ。
「彩夏が、・・・あ、妹なんですけど、小さな時にミモザサラダというのを食べたいって言い出して、・・・それからこれがお気に入りなんです、あの子の。黄色ってほら、幸せそうなイメージがあるからなのか、いつもこれじゃなきゃって・・・」
「たしかに小さな花のようなサラダだな」
ドレッシングは鈴音が数日前に作っていたものがまだ残っているので、それを食べる直前にかけることにした。
「お腹すいたーっ。ファースト、今日は大漁だったぜ。こんなに釣れちまった」
「一応、下処理してきたけど、細かい鱗までは取れてないかもしれない。ま、鱗なんて気にしないけどね、俺達は」
そこへ磯の香りと共に、二人の青年が入ってくる。
「こんばんは。あの・・・鈴音、です」
「ああ、聞いていた通り本当に可愛いね。セカンドです、よろしく」
「俺はサード。うわーっ、本当に小さいんだな、女の子って」
ファーストの弟達だけあって、やはり二人とも薄い茶色の髪と瞳をしていた。
だが、目の前に差し出された魚の入ったバケツ。
それを受け取るべきか、しかし・・・。
鈴音が迷っていると、ファーストがひょいとそれを受け取った。冷凍庫から氷を出し、それを魚の上に遠慮なくザラザラとぶっかけていく。
「今夜はもうポトフを作ってしまったからな。明日、これを焼けばいいだろう。食後に俺が処理しておく」
「ポトフなら、俺、ソーセージ五本は入れておいてくれる? あ、マスタードも」
「分かってるから、まずは二人ともシャワーを浴びてこい」
サードのリクエストに応えて、ファーストが冷蔵庫からそのソーセージを取り出した。
「鈴音は何本食べる?」
「・・・一本でお願いします」
「遠慮しなくていい。量はある」
「いえ、遠慮じゃなくて・・・・・・それ、かなり大きいと思うんですけど」
普通のスーパーで売られているソーセージの何倍の大きさなのか。
結局十六本入れているのを見て、鈴音は思った。
(もしかして、・・・サラダ、実は少なかったんじゃないかしら)
大体、ポトフの中には、肉も入っていた筈なのだ。鈴音も男兄弟がいないので分からなかったが、普通はどれだけ食べるものなのだろう。
さっとシャワーを浴びてきたセカンドとサードは、二人ともTシャツにジーンズといった格好だった。
「へえ。綺麗なサラダだな。いつもトマトなんて丸ごと出てきてたから、こういうのってまさに女の子って気がする。つーか、ファーストなんて、『勝手に塩でも何でも振り掛けて食え』だもんな」
「文句があるなら自分で作れ、サード」
「申し訳ありません、お兄様。いつも感謝しております」
どうやらサードはかなりお調子者らしい。何となく、彩夏を思い出す鈴音だ。
「ごめんなさい。男の人ってどれだけ食べるか分からなくて・・・。やっぱり少なかった、ですよね?」
「別に足りなかったら自分で作って食べるし、気にすることはないよ。大体、いつもファーストに作ってもらってるとはいえ、俺にしてもサードにしても、何もできないわけじゃないからね」
セカンドが柔らかい感じで、鈴音の行動を制してくる。どうやら追加は作らなくていいということのようだ。そんなセカンドは、自分達よりも鈴音の食事量の方が心配になったらしい。
「それより、女の子ってそんなに食べないものなの? そっちが俺は気になるよ。ねえ、ファースト?」
「そうだな。鈴音は、だから小さいんじゃないのか? もっと食べた方がいい」
「あ、それは俺も思った。何なら後で魚を焼いてやろうか? 魚なら入る?」
鈴音は慌てて首を振った。放っておいたら、サードに魚まで食べさせられてしまう。
「いいですっ。これ以上入りません。お腹一杯」
「だけど、鈴音ってパン食べてないだろ? それじゃ夜中にお腹すくだろうに。夜食代わりにスコーンでも作ろうか?」
「ほんっとに入らないからいいです。サードと違ってそんなに入りません。パンは入らないから食べてないだけなのっ」
最後には泣きが入っていた鈴音だった。
(明日から、どれだけ食べるのかを聞いてから作ろう・・・)
鈴音はひそかにそう決心した。おそらく彼ら三人と自分の胃袋は、かなり容量が違う筈だ。