2 鈴音1
日本で狼は絶滅したという。しかし、野生動物による畑や民家への被害が増え、狼を輸入して日本の山野に放そうという案もあったのだとか。そういえば、その案は結局どうなったのだろう。
(狼は人間を簡単には襲わないからって話だったけど、・・・そんな筈、ないわよね)
鈴音は、そう思って途方に暮れていた。
目の前には、大きな犬のような、狼のような獣がいる。唸り声も上げていないし、害意もなさそうな感じで鈴音を見ているが、・・・たとえ野犬だったとしても、こんな大きな犬に噛みつかれたら死んでしまうだろう。
時々、大型犬に襲われたとかいう、そんなニュースを見かけるではないか。
ただ、攻撃的な様子はないから、もしかしたら人懐こい犬なのかもしれない。
「えーっと、たしかこういう時は、にこやかにフレンドリーに話しかけながら、ゆっくりと後ろ向きに歩きながら、立ち去るんだったのよ。『こんにちは』とか、『なかなかいい天気だね』とか、親しみやすい声を掛けつつ・・・。背中を見せちゃいけないんだったと思うの。・・・そうよね?」
口に出して確認しながら、その大型犬に話しかけてみる。ただ、鈴音もかなりパニックになっていたのだろう。
「・・・だけど、これって熊に出会った時の方法だったかしら?」
その通りである。ケースバイケースながら、熊に出会ってしまって認識された時は、そうやってその場をゆっくりとフェイドアウトすればいいと言われている。
そして野良犬に出会った時は、無視するのが一番だ。そう、無視。話しかけるものではない。
何にしても、鈴音は全く違う行動をとっていたことになる。
そんな鈴音だったが、その大型犬も襲うのではなく仲良くしようと思い立ったのだろうか。
するすると近寄ってきて、鈴音の足に自分の頭を何度も擦りつけた。
「えっと・・・。お友達になりましょう、なのかな? なんか、・・・可愛い」
おずおずと手を伸ばして頭を撫でてやると、嬉しそうにその手に頭を擦りつけてくる。
友人宅でのペットは触らせてもらったことはあっても、自分の家では犬など飼ったことのない鈴音である。こんなにも人懐こそうにされてしまえば、やはり楽しくなるもので、両手を使って撫で始めてしまった。
「きゃっ」
もっと撫でてもらおうと思ったのか、頭を鈴音のお腹に押しつけるようにしてきた獣の勢いと重さに押されて鈴音が尻餅をつく。
「もうっ。ジーンズだったし、土も乾いているから良かったけど・・・」
座り込んでしまった鈴音の足を跨ぐようにして更に懐いてくるその獣の頭や首筋、そして背中を両手で撫でてやりながら、鈴音は悩んだ。大きな舌が、くすぐるように自分の首や頬を舐めてくる。
「けど、・・・やっぱりこの顔は犬っていうよりも狼っぽい気がするのよね。そんな筈ないとは思うんだけど。それにどう見ても飼い犬よね、この子。こんなに甘えん坊さんなんだから」
乱暴な子ではなさそうなので、鈴音は両手を使ってその頭を固定し、顔をまじまじと眺めてみる。やはり犬よりも、写真や絵で見た狼に近いような気がしてならない。
そもそも、ここはどこなのだろう。
「うん。だけど大事なことは、この子が犬か狼かではないと思うわ」
黄色い太陽が真上にあるのはいい。問題は、晴れ渡っているらしい空が緑色をしていることだろう。
雲や土、そして木々の色は普通なのだが、・・・恐らく自分が悩まなくてはならないのは、ここがもしかしたら地球ではないのではないかと、そう切実に考えこまねばならない状況に置かれていることではないのか。
少し硬めの毛を撫で続けることが現実逃避だと分かっていても、・・・鈴音はそうすることで自分の精神安定をはかっていた。
ヘンゼルとグレーテルという童話がある。その話には、親に捨てられた兄妹が森を歩いていると、そこにお菓子で出来た家を見つけるくだりがあるのだ。
(ああ、なんだかそんな感じだわ・・・)
不安に駆られている時に、休めそうな家がある。それはもう、お菓子で出来た家に等しい誘惑だ。
鈴音は、大型犬のような狼もどきに導かれるように、その山小屋へと辿りついていた。
山小屋といっても、大きめなログハウスのような感じだ。イメージ的にスイスの山奥が似合いそうである。三角屋根がなかなか可愛い。屋根の上には太陽光発電のような黒いフィルターっぽいものが全面的に設置されている。
何よりもありがたいのは、その入り口には看板があったことだ。
「何語かしら・・・。あ、日本語もある。・・・これは、英語も?」
看板には様々な言語が書かれているのか、ほとんどは読めないものだったが、その中に日本語らしき文字を鈴音は見つけた。「この家を使っていいです」である。「There is no charge for using this house」という言葉もあった。
「ねえ、あなた、この家を使っている人に飼われてるの? だけどそれなら戻ってくるわよね。そうしたら、その人に聞けばいいかしら。どうやら無料休憩所みたいなものらしいし」
返事がないことは分かっていたが、鈴音は獣に話しかける。獣は困ったように鈴音を見返した。
鈴音も、緑の空が広がっているのでパニックを起こしていたが、ここは普通に地球で、ただ異常気象か天変地異かが起きているだけかもしれない。
けれども誰かと話すことができれば、情報も手に入る筈だ。
少なくとも日本語があるのだから、全く意思が通じないことはないだろう。
器用に後ろ足で立ち上がって、前足でドアレバーを開けて入って行く獣に続いて、鈴音はそのログハウスに入ってみることにした。
白雪姫という童話がある。その話には、森に逃げた白雪姫が、七人の小人が住む小屋を見つけ、小人が留守にしている間に小屋の中を探検するくだりがあるのだ。
(ええ、まさにそんな感じだわ・・・)
空き巣ではなく、情報収集の為に人様の家を勝手に覗くのはこんな気分なのだろう。
悪いと思いながらも、どんな人が住んでいるのか、チェックしてしまう鈴音だった。
「えーっと、置かれている服から見て男の人が使っているらしい部屋が三つ、リビングキッチンが一つ、浴室が一つ、トイレが一つ、誰も使っていないらしい部屋が一つ・・・なのよ、ね」
鈴音の顔から、さーっと血の気が引いていく。
男が三人暮らしているらしい小屋に女の自分が一人・・・。まずいだろう、とてもまずい。というよりも、・・・かなりヤバイ。
「あの、・・・他にこういう小屋ってないのかしら?」
言葉が通じないと分かっていても、獣に話しかけてしまう鈴音だった。
勿論、獣は首を傾げて答えない。それどころか、ぐいぐいと鈴音の足に強く鼻を押しつけて、誰も使っていないらしい部屋へと押しこもうとする。
「ちょっ、あなたっ、どうしてそんなに力持ちなのっ」
鈴音が抵抗しようとしたら、今度は背中まで使って押しこんでくるのだ。そのまま鈴音は部屋に入り込んでしまった。
ベッドが一つに、三人掛けの長椅子が一つ、小さな椅子と机、そして鏡の取り付けられたウォークイン・クローゼット。
どれも無垢板で出来ていて、カーテン付きの小窓から外の光が室内を照らしている。
ウォークイン・クローゼットを開けると、そこには女性用の様々なサイズの洋服、サンダル、物を入れられそうなバッグが並んでいた。
「これは一体、どういうこと?」
生活感がない部屋だった為、客室だと判断したが、服はそれなりに掛かっている。ただ、どれも未使用らしい。
(まさか・・・。ここに適当な女の人を誘拐してきては閉じ込めている、とか? そんな事件、多いわよね)
獣は鈴音が部屋を一通り見たところで、今度は長椅子の方へと鈴音の足を押してくる。
諦めの境地で、鈴音は獣と共に、その木で出来た長椅子に座り込んだ。すると獣もその長椅子に寝そべって、鈴音の膝に自分の頭を載せてくる。
「甘えん坊さんね。撫でてもらうのが本当に好きなんだから」
クゥーンと小さく鳴くものだから、鈴音もついその頭や耳、首筋から背中にかけて全体的に両手で撫でてやらずにはいられなかった。
けれども、こんなにも人懐こい犬を飼っているのだから、きっと飼い主も良い人達だろう。首輪はしていないが毛艶も良いし、大切に飼われている感じがする。
(男の人が三人。だけど客室には女物ばかり。・・・ああ、やっぱり怪しい気がするんだけど。神様、仏様、ご先祖様。どうかどうか、この家の人達が良い人でありますように)
鈴音は願いを叶えてくれるならもう神でも仏でも祖先でも誰でもいいという気分で祈りつつ、諦めの境地で住人らしい男達が帰宅するのを待つことにした。
狼だか大型犬だか分からない獣と暮らし始めて5日程たった。
「琥珀。ほら、いらっしゃい。ご飯よ」
全体的な色合いはまるで琥珀のようだと思い、鈴音はその獣を琥珀と呼んでいる。
住人が全く帰宅しなかった為、鈴音は勝手に家を使用していた。
リビングキッチンの大型冷凍庫には様々な肉や魚、パンなどが入っており、冷蔵庫には酢や香辛料、卵、牛乳、小麦粉などが入っていた。ストッカーには缶詰やパスタなど色々とあったが、日本の缶詰もあれば外国の缶詰もあるといった感じである。
ガスコンロではなく、三口のIHクッキング・ヒーターなのだから、ログハウスの割に素晴らしいシステムキッチンだ。
裏の畑には野菜も植えられている為、近くに店がない割に、かなり食生活は恵まれていると言えるだろう。
「だけど・・・。どうしてこんなに揃っているのに、テレビもパソコン設備もないのかしら。それにIHコンロと冷蔵庫、オーブントースターに給湯設備と電灯、洗濯機と電気を使っているのに、どうして電線がないのかしら。・・・自家発電って奴なの?」
更に言わせてもらうならば、缶詰の賞味期限もかなり怪しい。缶詰はかなり持つというし、それに一つトマト缶を開けてパスタソースにして食べたが、特に問題もなかった。けれども、缶詰に貼られた時代遅れっぽいデザインのシールといい、不安が残る。
なのに、冷蔵庫に入っていた卵や牛乳は新しかった。牛乳はパックではなく、金属製のピッチャーのような瓶に入っていたが。しかも5リットルサイズ。・・・誰がそんなに飲むというのか。
「琥珀のパスタは挽き肉を多めにしておいてあげたからね。唐辛子も入れてないし、辛くないとは思うんだけど・・・」
飼い犬とはいえ、犬に人間と同じ食事はまずいだろうと思い、最初は解凍した肉や、素焼きした肉などを与えたが、琥珀はそれらを無視して、鈴音と同じ食事を食べようとした。その為、それからは同じ食事を用意している。さすがに飲み物は牛乳と水だが。
「本当に・・・。生活感があるから、あなたのご主人様達もそろそろ帰ってきてもいいと思うんだけど。大体、琥珀を一人きりにして、飢え死にしたらどうするつもりだったのかしら」
夜、琥珀は一番大きな部屋に行って寝ようとしていた。そこが飼い主の部屋なのだろう。だが、鈴音は心細いので、無理矢理自分の部屋に連れてきて一緒に眠っている。
琥珀は大きいのでベッドの半分を占領してしまうが、それでも一人より心強い。
(本当にどこかちぐはぐなのよね。普通、ここまで揃えているならオーブンレンジがあっても良さそうなものだけど。・・・それに、トイレットペーパーが今時ロール式じゃなく、チリ紙タイプって初めて見たわ。何より、液体洗剤が全く無いだなんて。固形石鹸はあるけど)
何より謎なのは琥珀だ。
今日は深皿にサラダやパスタをそれぞれ入れてあるのだが、サラダにドレッシングをかけろと要求するのだから、本当にこの獣はどんな食生活をしてきたのかと思わずにはいられない。
テーブルに前足を掛けて、ドレッシングを入れた瓶を鼻先でつつくのだ。
「本当に大丈夫なのかしら。琥珀も塩胡椒とか、本当に平気なんでしょうね?」
それでもコーヒーはさすがにまずいだろうと思い、琥珀がどれだけ鈴音のマグカップを鼻先で押して要求しても、牛乳と水しか与えない鈴音だった。