1 彩夏1
ずっとあの日から、何を考えているのか分からない姉だった・・・。
「彩夏。お姉ちゃん、呼んできて。もうすぐご飯だから」
「はーい。あ、私、シャワー浴びてから降りて来るね」
夏休みだが、彩夏の高校は自由参加で数学の補習が行われている。
「勉強したい奴は受ければいい。これは俺の厚意によって行うものだ。参加するもしないも自由だ」
そう言って、とある数学教師が行っているものだ。
それに受けてから「ただいま」と、帰宅したら、もう7時前だ。ちょうど夕食の用意が出来たらしかった。しかし外が暑すぎて、彩夏も汗ダラダラである。本来なら緩く波打つ茶色い髪すら、ぺったりと額や首に貼りついていた。
彩夏は二階の自室に荷物を置き、汗を流そうとシャワーを浴びに行く前に、姉の部屋をノックして開ける。
「お姉ちゃん、もうすぐご飯だって」
「ありがとう、彩夏。今日も補習だったの? 本当に面倒見がいい先生ね」
「えー。どうせ恋人もいない寂しい男の点数稼ぎだよぉ。先生って侘しい職業だよね」
「思ってもないこと、言わないの。本当は感謝してるくせに」
ふんわりとした笑顔で、机に向かっていた鈴音が振り返る。
私立大学の文学部に通う鈴音は、タンクトップにフレアースカート、そして長い黒髪をポニーテールにしてと、見た目も涼しげだ。何かを紙に書きつけていたらしいが、部屋を訪れた彩夏を見る瞳も柔らかい。全てにおいて穏やかな性格の持ち主である。
けれども彩夏の心はズキンと痛んだ。
(お姉ちゃんは変わってしまった・・・)
去年の夏、鈴音は三日間、行方不明になった。
事件か事故か、それとも家出かと心配した家族だったが、三日目には、鈴音は無事に帰宅していた。
「ごめんなさい。連絡しようと思ったんだけど・・・」
「どこに行っていたの、鈴音っ!? お父さんも心配していたのよ」
「えっと・・・山の中のキャンプ場? ホント、すぐに帰るつもりだったんだけど・・・。ごめんなさい」
捜索願を出すべきか、その心配や苦悩もあって両親にもかなり叱られた鈴音だったが、理由は、
「友達の友達に誘われて、キャンプにお邪魔してしまったの。ただ、そこって電波も通じない場所で・・・。すぐ帰るつもりだったんだけど、自分で魚を釣ったり、調理したりするのが面白くて・・・。本当に自然がとても素敵だったのよ」
だとかで、皆が脱力したものだった。
今までそんな、家族に心配をかけるような行動はしたことのない鈴音である。
最近は、性的な目的で変な人間に誘拐される事件も多い。本当は何かあったのではなかったかと家族も疑ったのだが、怪我もなく、怯えた様子もなく、まさに、恵まれた自然に感動して帰ってきたといった様子だった為、
「二度とこんなことはしないように。ちゃんと出かける時は連絡してから」
「はい。ごめんなさい、お父さん。自然の中ってあんなに凄いと思わなかったの。つい感動しちゃって、帰宅するのが延び延びになっちゃった」
「まあ、・・・健全なそういうのは構わん。別にそれを悪いとは言ってない。だが、家族に心配をかけるな」
と、説教だけで済ませた。
けれども、彩夏は気づいていた。
その時から、どこか鈴音が家族に対して見えない壁を作るようになっていたことを。
そして、一歩引いた笑顔を浮かべるようになったことを。
何より、誰かを想う表情をするようになったことを。
数学の補習も毎日あるわけではない。何より高校に入ってから初めての夏休みなのだ。
大人しく友人づきあいも少ない鈴音と違い、彩夏は友達も多い。何かと日帰りやお泊まり会などしながら、友達と夏休みを満喫していた。
両親も、彩夏に関しては、そういう子だからと諦めている気配がある。鈴音なら帰宅が遅れただけでも心配するが、彩夏ならば連絡なしの一泊ぐらいなら心配しない。親友達と、互いによく泊まり合いをしているからである。勿論、帰宅してから雷は落ちるけれども。
「今日はぁー、お一人様なー、映画鑑賞ぉ―」
調子はずれに自作な歌を歌いつつ、彩夏は気になっていた映画を見に行くことにした。
友達と連れだって見に行くのもいいが、これはかなりベタベタな恋愛映画なのである。そういうのに憧れるだなんて、親友達に知られたらちょっと恥ずかしい。友達と見に行くならコメディだ。
「お姉ちゃん、アクセ貸してぇー。・・・あれ、いない」
たとえ一人でも、いや一人だからこそ夏のおしゃれにもこだわりたい。
髪質は父に似た姉と違い、彩夏は母譲りのウェーブがかった茶髪だ。それを緩くまとめ上げ、お気に入りの袖のない白のワンピースにしてみた。トルコ石のような飾り石のついたサンダルを履くつもりだ。
ただ、似合うアクセサリーが無い。ここは姉に借りようと、部屋に行ったらいなかった。
ふと机の上を見れば、水色の丸い石を唐草模様の銀であしらったネックレスが置かれている。夏らしくてちょうどいいではないかと思い、身につけて鏡に映してみた。
「うん、いい感じ」
そこにあったメモ帳に、「この水色のネックレス、借りるね。映画行ってきまーす」と、伝言を残し、彩夏は家を出てきたのである。
「あれ? もしかして一番乗り? それとも場所間違い?」
上映会場の扉を開けると無人だった。
会場のナンバーを見直すが、間違ってはいないようだ。
いずれ他の客も来るだろうと思い、せっかくだから良い席を確保しようと彩夏は思った。
段差や角度を考え、中央の席にする。
そしてそこに座った途端、・・・彩夏は意識を失った。
がやがやと、少し離れた場所で男達が話している。
「こうなるなんて思わなかったんだよ。反省してる、悪い、ごめん、ファースト。けどなあっ」
「けどって言う時点で反省してないだろうがっ」
「まあまあ。こういうこともあるさ。気にしない、気にしない」
「気にしろっ。お前が庇うから、サードはいつも反省しないんだっ」
「してるよ、反省してるって」
なんだか、身につまされるものがある。他人事ではないというか、同類相憐れむというか・・・。
(ごめん、お姉ちゃん。いつだって私も反省してるのよ。ただ、繰り返しちゃうだけで)
別に今は謝らなきゃいけないこともなかったが、心の中で彩夏は鈴音に謝ってみる。
そこで、気づいた。
(ここ、どこ? で、私、どうしちゃってるの?)
意識が急速に覚醒し、彩夏は慌てて目を開けて起き上がった。
「痛っ」
起き上がったはいいが途端に頭痛が襲ってきた為、彩夏は再び寝台に突っ伏す。その声に気づいたのだろう、室内にいた三人が彩夏に近寄ってきた。
「しばらく横になっていろ。いずれその頭痛も治まる。今は起き上がるな」
あまりに頭が痛くて目が開けられなかったが、言われた通りにきちんと枕に頭を載せて横たわり直すと、彩夏の頭痛も治まってくる。
それから目を開けると、真面目そうな顔をした男が彩夏を見下ろしていた。その後ろに面白がっているような表情をした軽い感じの青年、そしてふて腐れた表情をした一番若い感じの青年がいる。見た所、真面目男が20代後半、軽薄男が20代前半、不機嫌男が十代後半といったところか。
「我々に、君を害する意思はない。保護しただけだ。体が落ち着くまでここで休むといい」
「あ、はい。ご丁寧にどうも。・・・ところで、ここ、どこですか?」
まるでログハウスのような室内である。真上の天井も、壁も丸太を組み合わせてある。キャンプ場にあるバンガローを思い出す。真面目そうな男はコホンと咳払いをした。
「・・・それは、ともかく。とりあえず、私はファースト、後ろのヘラヘラしているのがセカンド、一番年下の馬鹿がサードだ」
「・・・野球の守備ですか、それは?」
そんな名乗られ方をしたのは初めてだ。胡散臭そうな顔をしてしまった彩夏を誰も責められないだろう。
ついでに、このファーストと名乗った男はかなりひどい。セカンド及びサードと言われた青年達が、紹介されてかなり情けない顔になったのを、彩夏はしっかり見てしまった。
「別に呼び名などどうでもいいだろう。君は何て呼ばれたい? 好きな名前を言えばいい」
「なら、・・・私はダイアでお願いします」
野球でファースト、セカンド、サードときたらホームだろう。しかし、ホームという呼ばれ方は嫌だ。ならばその四つを意味するダイアモンドかと、そう彩夏は思った。
「分かった。で、ダイア。・・・言いにくいな、ディアでいいか。ディア、君は迷子のようなものだ。君の家はかなり遠い。帰れるまではこちらで保護する。そこは安心してほしい」
「はあ・・・?」
このファーストと名乗った男はかなり強引というか、マイペースらしい。勝手に名前を縮めてくれている。まあ、ダイアと呼ばれるよりもディアの方が可愛いからいいけれど。
(いやいや、別に家が遠かろうが、駅まで帰ってタクシー乗るわよ。最寄駅はどこなのっ)
そこでふと、彩夏は気づいた。
三人とも、髪の色は彩夏よりも淡い茶髪だ。そして瞳もかなり明るい茶色をしている。三人ともタンクトップにジーンズ、そしてサンダルといった格好だったが、体格は日本人離れしているようだと、彩夏は思った。
(・・・日本人? 日本語は話しているけど、何だか顔立ちは普通の日本人よりもガッシリ系? ハーフ? アジア系に似た外国人?)
肌の色が、通常の日本人よりも赤みがかっていたことも影響していただろう。そう思うと、ますます胡散臭いと思う彩夏だった。
「落ち着いてから外に出てみたら分かると思うが、ここは君の暮らしている場所ではない。別に君の行動を妨げる気もないし、何かを強要する気もない。だが、安全に暮らしたいならば、この家から離れないよう注意しておく。・・・後程、何か食べ物を持ってこよう。では、ゆっくり休め」
「はあ・・・」
そう言うと、ファーストは二人を促して部屋を出て行った。
(って、何っ、あのファーストって男っ! 言いたいことだけ言って終わりっ!?)
大体、どうして自分はここにいるのか。
落ち着いて思い返しても、映画館からの記憶が全くない。
(何なの、これ・・・)
だが、なぜか頭が重い。彩夏はまたもや眠りに引きこまれていった。
目が覚めてからベッドの横にあったサンダルを履き、ドアを開けて出て行くと、そこはキッチン兼居間といった感じになっていた。四人掛けのダイニングテーブルがあり、そこの椅子にはサードと呼ばれた青年が腰かけている。
「よぉ、ディア。起きたんだ? ま、食えるようなら食っとけや」
「えっと・・・、あなた、サードって呼ばれてた人よね?」
「ああ。お前さんの面倒は俺がみろってことになってさ。気に入らなきゃチェンジは可能だぜ? ま、ファーストはやめといた方がいいけどな」
「別にいいわよ、あの人、真面目すぎる感じだもん」
テーブルの上には、一人分のパンと目玉焼きを載せたハンバーグ、サラダが置かれていた。サードが立ち上がり、やかんに湯を沸かして二人分のコーヒーを淹れ始める。
「電子レンジで温め直そうか。ちょっと待ってろ」
「いいわよ、まだ何となく温かいもの。平気、平気。・・・あなたの分は?」
「俺はもう食ってきた。・・・ファーストの家で作ったのを、ここに運んできただけさ」
「へえ。・・・じゃ、ここはあなたの家?」
「まあ、そういうことになるかな。俺が使っている家、か。けど俺は普段ファーストの所にいるから、ここはディア一人で使っていいぞ。やっぱり男と一緒ってのは困るだろ?」
「ふむ・・・。で、そもそも、ここ、どこよ?」
なかなか紳士的と言えよう。
ナイフで切り分けたハンバーグをフォークで突き刺しながら、彩夏はサードを観察する。自分よりも明るい茶髪、日に焼けた肌、身長は175センチメートルといったところか。体はかなり筋肉がついている。野球を連想したのは、三人ともよく鍛えられた肉体だったからかもしれない。
「砂糖とミルクは?」
「ブラックで」
「ん」
マグカップに入ったコーヒーが差し出される。
「ありがと」
「どうせ俺も飲むしな。俺は少しミルクを入れるけど」
「で、ここってどこ?」
「多分、説明しても分からない。まあ、ディアはそれでも家に帰してやらなきゃならないんだけどな。・・・それよりも、だ」
向かいの椅子に座っていたサードは、少し身を乗り出して彩夏に尋ねた。
「そのネックレス、なぜディアが持ってるんだ? それの持ち主はディアじゃないだろ? お前、それ、盗んできたのか?」
彩夏は目が点になった。
いきなり、こんな失礼なことを言われたのは初めてだ。
「だっれっが、泥棒だってのよーっ! このド失礼男っ! これはっ、これはねっ、お姉ちゃんから借りてきた物なんだからねっ!!」
どっかーんと、彩夏は急速沸騰かつ爆発した。
尚、彩夏の沸点はかなり低かった。