フォエ
5月9日火曜日。
天気曇り。
気温22度。
昼休み。
出席番号9番の俺にとって修羅場を迎えるべきはずの今日。
午前の授業のすべてにおいて俺の予測は悉く外れ、
待っていたのは一方的な虐殺だった。
初志貫徹を貫くはずの数学と古文の教員は口をそろえて
『今日は、気分を変えてみよう』などと当て方を変え、
逆に変化を求める物理と英語教員は、生徒名簿の奴隷となった。
今日の流れが変わったことは、ある程度肌で感じてはいた。
珍しく遅刻し、美樹菜と久々に話し、姉からも電話がかかってくるという
状況がまさに予兆そのものだった。
しかし、どこか自分の『直感』を信じきれなかったため、
先輩から得たデータの方を優先してしまったのだ。
予習もせず、授業までの貴重な時間を睡眠にあててしまったのだ。
直感。
インスピレーション。
その大切さを嫌というほど分からされた一日だった。
もう二度と悲劇を繰り返さないためにも、これからは直感に生きよう。
「御瑠田、今日は悲惨だったな。」
「五月蠅い。」
楢崎矢鵜が購買から帰ってきた。
つっかかったような特徴的な笑い方で、こちらに近づいてくる。
「先輩の言うこと、真に受けるからだぞ。
人は常に変化を求める生きものだからな。」
言って、楢崎は俺の弁当に手を入れようとしたので
叩いてやった。
「いってー、ケチだな。いつもくれるだろ?」
「直感に従ったまでだ。」
「なんだって?」
「今日の教訓を生かしてこれからは直感的に動くことにしたのさ。」
「似合わねえな。お前らしくもない。」
「人は常に変化を求める生きものだからな。仕方なかろう。」
「そういう言い方はお前らしいよ。」
楢崎はつっかかったように笑って。
俺の前の席の椅子に後ろ向きに腰掛けた。
六小瀬神海が腰かけていたあの席だ。
褐色の肌に、太い眉、切れ長の双眸に整った顔立ち。
制服の上からでもわかる筋肉質な身体に180の長身は、
ガテン系イケメンのそれだ。
楢崎はサッカー部に所属しており、ずばぬけた身体能力と球際の強さを持ち味として、
一年の頃から司令塔として試合に出場していた。
そのため、先輩からのいじめに合うことも少なくはなかったが、
その度に奴は持ち前の体格と、負けん気の強い性格を生かして返り討ちにしていた。
先輩にしたら、たまったものじゃなかっただろう。
日頃の憂さを晴らそうとして、逆にしっぺ返しを食らうんだから。
でもまあ、いじめる側はどんな理由があれ正義にはなれないから、自業自得と言えばそうだ。
仕方なかろう。
楢崎は練習中にカメルーン代表のレプリカユニフォームを着ることが多く、俺とはすぐに仲良くなった。
ちなみに、御瑠田と俺の事を呼ぶクラス男子は楢崎一人だけだ。
また、奴は下の名前がカメルーンの首都ヤウンデに似ていたし、ポジションもかぶって
いるためにフォエと呼ばれている。
それに奴は女子からの人気は絶大で、入学当時は放課後のグラウンドに多くの女子生徒が駆けつけたものだったが、
それを見て奴は言ったものだ。
『俺はサッカーしか愛せないから。』
言葉通りに奴はサッカーに打ち込み、交際していたなどという話は全く聞かない。
しかし、好意を寄せる女性が多いのは変わらず、
教室の扉窓からこちらを窺っている女子生徒が今も何人かいる。
「おい、フォエ。また引っ掛けてきたのか?」
言って俺は顎でしゃくってやる。
「あ。あいつら、また。」
「色男さん。モテる男は辛いね。」
「茶化すなよ御瑠田。こっちは真剣に悩んでんだから。」
「サッカーしか愛せないもんな、フォエは。」
ハハハと大げさに笑って、俺は卵焼きを口に運ぼうとしたが
失敗した。フォエが途中で略奪して口に入れたからだ。
「おい、何をする。」
「サッカー以外にも愛してるものがあるからさ。あの時の言葉は方便。
現に卵焼きは愛している。」
「愛で許される程、世の中甘くない。卵焼きを返せ。」
「いやなこった。俺は自尊心を傷つけられたんだ。サッカーしか愛せないなんて
言われてな。これは等価交換だ。」
「俺の卵焼きはお前の自尊心よりも数段出来がいい。」
「それはない。」
「言い直そう。俺の卵焼きの方が少し出来がいい。」
「確かにそうかもな。等価ってのは語弊があった。ほい。」
言って、購買で買ってきたらしいジャムパンを寄越してきた。
フォエのプライドにジャムパンを足すと、卵焼きと交換できるようだ。
「そんなわけあるかフォエっ。そんなプライドで大丈夫か。
どうしちまったんだよ。」
「人は常に変化を求める生きものだからな。仕方なかろう。」
「む。一本取られたな。」
俺は大げさに頭を抱えた。フォエも腰に手を当てて反り返る。
お前が威張ってどうする。
「それに御瑠田、お前の卵焼きはマジでうまいよ。
いい主婦になれそうだ。」
「そうかありがとう。主婦になる気は毛頭ないけどな。」
「それに、いいサッカー選手にもなれる。」
「またその話か。」
フォエは機会があればこうして勧誘してくる。
俺は何を言われてもサッカー部に戻る気はないと
決意しているので、いつも申し訳なく断っているのだ。
今日も案の定、フォエは目を輝かせて弁舌をふるう。
「考えてもみろ、御瑠田。今のメンツじゃ県大会すら勝ち抜けないぜ。
まず点が取れない。しかも守れない。けど、お前が入れば点は取れる。」
「お前だけでも点は取れるだろう。」
「今はマークがきつくてボールすらもらえない。
前の試合なんか俺に二人マーク付いたのに、フォワードは点取れなかった。」
フォワードというのは前衛のゴールを決める役目の人間だ。
一番の花形だが、
ノーマークで外した時の恥ずかしさと言ったらない。
「それはひどい話だな。」
「だろ?やっぱりお前が必要だ。俺とお前のホットラインで何本も決めてただろ?」
「昔の話だよ。」
俺は膝下だけを振って見せた。
思いっきり振ったはずなのに、振り子のように緩慢な動きだった。
「やっぱり痛むのか?」
「少し痛いけど、頑張ればプレーには問題ないレベルに出来るはずだ。」
「じゃあ・・・。」
「フォエ。いつも言ってるけど、こういうのって気持ちの問題だろ?
絶対に直してやるとか、サッカーで活躍してやるとか、
そういう野心に溢れた人間は、この程度の怪我は乗り越えれるんだよ。」
「御瑠田だってそうだったろ?レギュラー取って頑張ってたよな?」
「あれは建前。そういう姿勢見せないと、デブピエロに怒られるから。」
デブピエロはサッカー部の顧問の名前だ。
体育大学出のアナログな脳筋馬鹿で、恐怖政治を敢行していた。
名前の由来は元イタリア代表選手アレッサンドロ・デル・ピエロからとっており、
デルピエロ選手をすぐ引き合いに出す指導方針と、
恰幅の好い身体からそう呼ばれていた。
大体、プロの選手と公立の弱小高校生を比べる時点で間違っている。
皆が彼みたいにプレー出来たら、指導者なんていらないだろうに。
「デブピエロは、ほっといていいって御瑠田。」
「まあ、あいつのことは抜きにしてもさ。
俺は怪我する前もそうだったんだけど、なんとなくやってただけなんだよな。」
「なんとなく?適当ってことか。」
「そう。フォエみたいに上達したいって思って、やっていたわけじゃないからさ。
何の目的もなくやって流されて。でも、それを認めたらサッカーやってる意味
なくなるだろ?だから自分に嘘ついて続けてきたんだよ。
けど、怪我した時ふと思ったんだ。」
ああ、よかったなって。
「だから辞めたんだ。怪我して奮起するどころか納得してんだぜ?
そんな自分を見るのが嫌だったんだよ。」
野心がない自分を見るのが嫌で。
打ち込んでいなかったという事実を認めたくなくて。
怖くて。
恐ろしくて。
逃げ出した。
あの廃墟の時のように。
六小瀬神海から逃げた時のように。
やはり逃げ出したのだった。
俺はあの頃と、何も変わっていないのかもしれない。
「それすごいだろ。」
しかし、フォエは感心したように頷いた。
そういえば辞めた理由を言ったのは今日が初めてだった。
「どこが?」
「なんとなくやって。適当にやって、レギュラー取れてたってことになるだろ?
それってスゲー才能だよ。一生懸命やって出来ない奴もいるんだぜ?」
「たまたまだよ。運が良かっただけ。
欲がない分、蹴るときプレッシャーなかったから。
ゴール前で緊張したことは一度もない。」
「必死にやってるフォワードのやつに聞かせてやりたいよ、今の台詞。」
「でもゴール決めてもあんまり嬉しくないんだぜ?単なる作業って感じで。」
「それは益々、興味深いな。
やっぱりサッカーやるべきだよ、御瑠田。フォワードの才能ある。」
フォエは俺の両肩に手を乗せて断言した。
ダメだ。フォエの興味を削ごうと言っているつもりが、いつの間にか奴の闘志に
火をつけてしまったようだ。
奴の闘志を鎮火させねばならん。
「いやいや、お前勘違いしてるよ。
サッカーってのは一人でやるスポーツじゃないだろ?俺が入ったところで
何もかわらんよ。プロならいざ知らずさ。」
「いいや、変わるね。うまい奴が二人もいたらボール運べるからな。
それにお前のセンスは天才的だ。」
「やめろよ。本当の天才に失礼だろ。」
俺は無意識的に、教室の右斜め前。
つまり、およそ俺たちと対称の位置にいる六小瀬神海に目が行った。
彼女は尾山美樹菜と、他三名と机を合わせて話をしていて、口元に上品に
手を寄せている。
廃墟で見せた哀しげな表情を一切感じさせない、いつもの六小瀬神海だった。
今日の放課後、彼女は話しかけてくるだろうか。
二人だけの教室で、またあの笑顔を見せてくれるだろうか。
俺は首を振った。
虫のいい考えを思い浮かばせた自分に対する叱咤のつもりだ。
そんなことを望んでいいはずがなかった。
俺は許されないことをしたんだから。
彼女を傷つけてしまったに違いないのだから・・・。
「どうした?御瑠田。」
フォエは俺の視線の先を探り、なるほどと合点が言ったように頷いた。
「六小瀬のことだな。あいつは別格だよな?」
「・・ああ。ちょっといないよな。」
「俺も、御瑠田のことをあそこまで天才だとは言ってないつもりだぞ?」
「分かってるよ。自分のことは一番よく知っている。」
「いや、分かってない。お前は自分を過小評価しすぎだ。」
「フォエは俺を過大評価しすぎだ。」
フォエはやれやれといったふうにため息をつくと、
覚悟を決めたように言う。
「俺は諦め無いからな。」
「俺は首肯しないからな。」
「人は常に変化を求める生きものだって言ってただろ?」
「それにちょっとだけ補足だ、フォエ。」
「へぇ。言ってみろよ。」
俺はやれやれといったふうにため息をついて、
フォエと同じように覚悟を決めたように言う。
「人は本質的には何も変わらないよ。きっと。」