廃墟にて
閑静な夜の住宅街を抜けていった先に、それはあった。
街灯にもあたらず、また夜空に瞬く星にも、三日月にも照らされることはない。
ただ漆黒の闇に包まれているだけでその全貌を窺い知ることは今出来ないのだ。
しかし、例え日中であろうともその廃墟が姿を輝かせることはないだろう。
廃墟――山崎カールレオン。
敷地面積6000平方キロメートル。
化学工場。
四十年前、火災が発生し全焼。
火事の影響で有毒ガスが発生し、近隣住民をパニックに落し入れたと言われている。
以来、買い手が見つからず放置されていた。
この街で知らぬ者はいない有名な話だ。
その、
三メートルはあるブロック塀の囲いの急所。
つまり、赤錆びた鉄格子の門扉をバックに。
六小瀬神海は立っていた。
あろうことか制服を着て。
「遅かったのね、屑。待ちくたびれたわ。」
「ごめ、ん。」
時刻は0時42分。
結局のところ、待たせるのも悪いと思い青のジャージに着替えた俺は
全力疾走でかけつけた。あまりにも久しぶりに走ったため、
自分の荒い息が耳につくし、膝に両手を突かなければしんどくて仕方ない。
それに右足が痺れたように痛んでいる。
要した時間は9分。
正確に測ったことはないけれど、確か家からこの廃墟までの距離は2キロ弱。
そう考えると、1キロ4分半ペースで、1.5キロだと6分45秒ということになる。
高1の体力テスト時の1.5キロが4分40秒だったのを思うと、
自分の体力低下っぷりが恐ろしい。このまま衰えてしまうのかと思うと無性に寂寞感が込み上げた。
これから少しは体を動かすことにしよう。
でも、
悪いことばかりでもなかった。
今は完全に眠気が吹っ飛んでいて、頭が冴えわたっている。
「ほんと、に。ごめん。神海さん。」
「いいわ。一生懸命走ってきてくれたみたいだしね。
それでも罪は消えないけど。」
淡々と言う彼女は、どこか昨日とは違って見えた。
どう違うかを説明するのは難しいけれど、敢えて言うなら彼女は
怯えているように思える。
俺の思い過ごしかもしれないけどな。
「いや、本当に悪かったよ。」
「しつこいわね、もういいわよ。」
そんなこと、と彼女は言って後ろを向いた。
正確に言うなら、真っ暗で何も見えないはずの廃墟の方をじっと見ている。
まるでそこに逃避を求めているかのように。
彼女の姿はいつになく小さく見えて、言葉にもキレはない。
「何よ?あたしの顔に何かついてる?」
「いや、何も。」
「そう。なら、そんなに見ないでよ。」
「大丈夫か?」
「何が?あなたに心配されるようなことなんてないわ。」
「・・・・ごめん。」
言って、俺は視線を背けた。
やはり、何か違和感がある。
六小瀬神海らしさが完全に抜けているような気がする。
「あのさ、神海さん。ちょっ―――。」
「指令を言うから、黙って。」
と。
彼女は機先を制して俺の言葉を遮った。
不自然な横槍に異を唱えようと口を開きかけた俺だったが、止めた。
彼女が、奥歯を噛み締めるようにしてこっちを睨んでいたからだ。
その様子に俺は。
怯んだ。
たじろいだ。
恐ろしかったからではない。
怖かったからではない。
その姿が、
街灯に照らされて陰になった表情が、
無防備で、
弱々しくて、
おおよそ彼女が見せる表情とは大いにかけ離れていたからだ。
そんな六小瀬神海に対して俺は、冗談の一つすら言えなかった。
軽口の一つすら言えなかった。
彼女の口が開く。
「肩車して。」
「は?」
思わず聞き返してしまった。
「いいから。早く。」
あくまで真剣な彼女の顔つきが、冗談でないことを物語っている。
真剣で、
真面目だ。
俺は小首をかしげつつも、彼女に近づいて。
そして、頭を垂れてしゃがみこんだ。
「なんか、王様に謁見する市民みたいよね?」
「悪かったな、市民が王様を肩車して。」
「そうね、次は馬車を用意するわ。」
「そしたら俺のお役も御免だな。」
「何言ってるの?従者として馬を操るのよ。
そして遠くまで私を連れて行くの、ずっと。誰も知らない場所まで。」
あげようとした頭は手で押さえつけられた。
相当屈辱的だった。
土下座の一歩手前で押し止まっている俺を彼女が無理矢理土下座させるように
仕向けている。
通行人の眼には少なくともそう映るはずだ。
もし見物人がいたなら驚いて逃げるか、痛いものをみたとスルーするに違いない。
幸い、この時間に外を出歩く人はいないのだけれどな。
「何をする。」
「今から乗るから顔を上げないで。」
「・・・・・はい。」
うなじにスカートの先端部分があたり、ぞくっと身震いしたのもつかの間。
ふわっと風が洗剤の匂いを運んできて、耳を彼女の両足がしっかりと挟みこみ、
背中に重みを伴わせた。
悪い気分ではなかった。むしろ、男としては至福の時と言っても過言ではない。
首越しに感じるあたたかさと甘い匂いに、俺はどうにかなってしまいそうだった。
それに彼女は軽かった。
サッカー部で野郎を担いで、グラウンドを往復したことがあったからかもしれないが、
双肩にかかる彼女の重さは、春風を閉じ込めた紙風船を思わせた。
儚くて、
ほっといたらどこかへ飛んで行ってしまいそうで、
俺はがっしりと彼女の両足を捕まえて
固定し、立ち上がった。
「重くない?」
「全然。軽いくらいさ。」
「あら、嬉しいこと言ってくれるのね。
あなたが気の利いたこと言えたのが驚き。」
「失敬な、俺はいつだって紳士だ。
俺の気遣いに気付いてくれる女性が少ないだけだ。」
「気遣いの出来る紳士はそんなこと言わないわ。」
「そうだな。紳士は貴婦人を肩車しないしな。」
「そうね。じゃあ、下僕。前に進んで。」
「前って、門しかないけど。」
「いいの。」
俺は言われたとおりに、バランスを取りながら前に歩をすすめた。
そして、二メートルくらいの門扉の手前で止まる。
赤錆びた鉄格子の門扉の頂上には有刺鉄線があり、
それらが等間隔に三本、平行線を引いている。
「手を放して。」
「危ないぞ?」
「いいから。」
彼女の言ったとおりに手を放すと、双肩に過度な重力がのしかかる。
上を見上げようとしたところを押さえつけられ、
こちらにも激しいGが襲い掛かる。
一体何が起こってる。
「この状況で上を見上げるなんて、やっぱり紳士のすることじゃないわ。」
「神海さんが何をしているか言わないからじゃないか。」
「重い?」
「重い。」
やっぱりあなたは下僕だわ、と。彼女はそう言って。
俺は瞬間、耐えられないほどの重力を双肩に感じて倒れた。
その落ちゆく視界で。
有り得ないものを見た。
蝙蝠かと思った。
それも巨大な、人型の。
街灯を背に飛ぶ姿は、まさに異形だった。
有刺鉄線の妨害を。
人間の掟を。
まるで歯牙にもかけないような美しい跳びっぷりであった。
蝙蝠は――彼女は、飛んでいた。
ゆうに三メートルは超える高さで。
器用に両足を折りたたんで胸に付けて。
スカートも抱えることも忘れず。
ただ、自由に。
ただ、優雅に。
星の瞬く夜空をバックに。
空を愛しているとしか思えないほどの跳躍をして見せた。
ストン、と。
そして。
体操選手の如く見事に彼女は着地した。
「何、してんだよ。」
唖然としてしまった。
開いた口がふさがらなかった。
彼女がここまで奇怪な行動をとるとは思わなかったからだ。
春風を閉じ込めた紙風船の如く。
彼女は跳んで行ってしまった。
「何って?ここを越えるのにあなたの助けが必要だったのよ。」
「分かってるよ、分かってるけどそうじゃない。」
言葉がうまくまとまらない。
動揺してるようだ。
「普通に危ないだろ?怪我したらどうするつもりだったんだよ。
それに不法侵入だろ。」
「心配してくれるの?ありがとう。でも大丈夫。成功したから。」
「そうじゃない。そういう問題じゃない。」
言いたいことが分からなかった。
俺らしくもなく、軽口も出てこない。
近くにあったものが遠くに行ったことで。
彼女が、どこか遠くに行ってしまいそうに思えて。
気が気じゃいられなかった。
「今の神海さんはおかしいよ。」
「あら、今の屑山君も十分可笑しいわよ。」
「そうじゃないッ。」
怒声が上がった。
久しぶりに本気で怒ったから、声が裏返った。
怒りが溢れ出していた。
頭がわれるように痛かった。
浮かんでくるのは彼女の怯えたような悲しい顔。
何かから逃げるように廃墟を見つめる彼女の苦しい顔。
それを思うと怒りが沸々と湧き上がってくる。
「逃げるなよッ。たたかえよッ。」
「――――――ッ。」
「神海さん、神海さんが抱え込んでるものがなにかは分からないけど
たたかうべきだッ。神海さんらしくもない。
今のあんたの奴隷には、俺はなれないよ。」
「・・・・・・・・。」
言い終えた後で。
ふと、我に返った。
俺は、どうしてこんなこといってるんだろう。
何にムキになっているんだろう。
言ってること支離滅裂だ。
ただの痛い人間じゃねえか。
やばいやばい、謝らないと。
しかし。
何もかも手遅れだった。
言ってしまってからは遅すぎた。
門を境界線とした向こう側で、
暗がりの中彼女は立ち上がる。
影をしもべに従えて、彼女は厳かに口を開く。
「私だって、今の屑山君を奴隷にしたくなんかないわよ。」
呟くように小さい声だ。それから続ける。
核心をつくように、たっぷりと余裕を持って言う。
「私、眠れないのよ。」
「眠れないって、どういう――。」
「帰って。」
「・・・・・・・・。」
「帰りなさい。」
「・・・・・・・・。」
「帰れッ。屑山御瑠田ッ。」
六小瀬神海が激昂した。
空気が爆発したかと思った。
暗くて彼女の表情は見えないけれど、憤怒を従えていると理解できた。
彼女の不興を買ってしまった。
怒らせてしまった。
機嫌を損ねてしまった。
さっき電話で話したばかりだというのに。
また、罪を一つ作ってしまった。
俺は愚かな人間だ。
何て弱い人間なんだろう。
つい先刻の約束すら守れずに、
滅茶苦茶なことを言って彼女を傷つけてしまった。
「ごめん。」
言って。
踵を返して走り出した。
胸が急にモヤモヤしてきた。
廃墟に女の子一人置いてきたとか、
右足が疼くとか、
彼女を傷つけてしまったとか、
いろんなことが胸に収束するように押し寄せてきた。
忘れたい。
忘れたい。
忘れたい。
今の事をなかったことにしたかった。
事実から、目を背けたかった。
逃げ出したかった。
人にたたかえと言っておきながら、自分のことは棚に上げて。
俺は一人で夜道を走った――。