姉
男勝りな姉との会話
姉が帰ってきたのは午後九時半過ぎのことで、
彼女は帰ってくるなり、「風呂。」
と気怠そうに言って鞄をソファに放り投げ、浴室に消えた。
俺はリビングで宿題をしていたところだったのだが、
風呂あがりの熱した頭でまどろみつつやっていたため、
全くと言っていいほど宿題は進んでいない。
そんな状況での姉の登場に、俺は九死に一生を得た気分だった。
明日の数学の課題と古文の訳の担当があろうことか
俺であると推測できたからだ。
明日は五月の九日。俺の出席番号は九番。
高二になってまだ日も浅いため、先生方はこぞって名簿に導かれるまま
声を張り上げる。
『今日は五月九日。出席番号九番、屑山御瑠田。』って具合だ。
分かりやすく単純明快な当て方で、こちらとしても対策のし甲斐のある方策
ではあるのだが、これには主に二つ欠点がある。
一つは、我ら公立嚥下高校の一クラスあたりの生徒数は三十二人であるため、
出席番号三十二番の生徒から始まることは絶対に有り得ないということだ。
ピンポイントで当てられた生徒からあとの順序はアットランダムなので、
三十二番が一度も当てられない事態には陥らない。
しかし、三十二番が『明日俺から当てられるッ』という恐怖を知らずに人生を
終えるのだと思うと、羨ましく思う反面、どこか居たたまれないものがあろう。
二つ目は、これが期間限定であるということだ。
先生によって多少の差異は生じるのだが、大方の先生は五月終盤で折れてしまう。
飽きてしまうのだ。
けれども、俺のクラスの数学と古文担当は初志貫徹するタイプらしく、
その情報はサッカー部の先輩から仕入れた。
こんなことを観察している俺は気持ち悪いと思うかもしれないが、
大事なことだ。人間観察というものは得てして必要悪であり、それに関しては異論は認めない。
ともあれ、明日の五月九日という日は俺にとってたえず気を張り巡らさねばならない日であり、
何の準備もなしに臨むのは無謀すぎるという日だった。
そんな愚行を犯すのを未然に防いでくれた姉は救世主であり、
やはり尊敬すべき存在だと俺はただ頷くばかりだ。
というか今寝てしまったら、宿題を忘れて叱責されるよりも、恐ろしいことが待ち受けているのを
思い出した。いかんいかん。危うく殺されてしまうところだ。
六小瀬神海。
成績優秀、容姿端麗、才色兼備、品行方正(都合によりなくなりました)、運動万能。
悪魔の様な彼女との約束をすっかり忘れてしまっていた。
うたた寝というものは優秀な疲労回復行為であると同時に、優れた忘却行為でもあるようだ。
「・・・いっそのこと思い出せない方がよかったかもな・・。」
なんて軽口を叩いた時。
バン、とドアがこちら側に開かれた。
「え?何だって?」
姉が満を持して登場した。
白いタオルを首元に巻き、髪はまだ濡れそぼっている。
黒のタンクトップの下で下着は透けて見え、体のラインはくっきりと整っていると分かるし、
健康的な肢体は艶めかしく露わになっていた。
その格好でキッチンにいって冷蔵庫からビール缶を取り出すものだから、
俺は極めて妥当だと思われる月並みな事を口にすることとなった。
「服を着ろ、姉貴。」
「嫌よ、何で自分の家にいるのに人の顔色窺わなきゃいけないの?」
「俺が男で、あなたが女だからだ。」
「あんたは弟で、私は姉よ。」
バンと冷蔵庫を荒らしく閉め、姉は四脚の長テーブルの、俺と反対側の席に腰掛け、
突っ伏した。
「はぁあー、疲れた疲れた。御瑠田、飯は?」
「今日はカレーだ。」
「よしっ、よくやった。たまに役に立つのよね、あんた。」
「・・・持ってくるよ。」
酷い言われ様にもめげない。もしかするとこの姉がいたからこそ、
俺は六小瀬神海の罵詈雑言にも耐えられたのかもしれない。
やはり姉には感謝せねばいかん。怒ってはいけない。怒ってはいけない。
俺はキッチンに行き、輝きを失った御瑠田スペシャル(カレー)に火を入れた。
「てかさ、聞いてよ、御瑠田。ディレクターったら酷いのよ?あのデブ――。」
云々。
始まった。姉の一人舞台。
俺は適当に相槌を打って、聞いているとアピールをすることに徹する。
さもなければ、姉の愚痴にこちらまで参ってしまうからだ。
姉の愚痴と残業の多さから推察するに、映像クリエイターという仕事は、かなり待遇の悪い仕事らしい。
彼女の演劇を見て、映像クリエイターだけには将来ならないでおこうと、俺は心に決めるのだった。
しかも二日分の愚痴がたまっているようで、今日の演劇は長引きそうだ。
「アイディアよ。おりてこーいッ。」
姉が両手を挙げたのと、カレーの煮込み具合がいい感じになったのはほぼ同時だった。
カレーの食欲をそそるような匂いが鼻腔をつく。カレーの華麗な匂いだ。
我ながら寒い。
それはおいておくとして、姉がこの口癖を発する時、愚痴は終焉を迎える。
よく耐えた俺。そしてナイスタイミングだ。御瑠田スペシャル。
厚底の鍋からカレーを掬い上げ、用意したご飯にかけ、上にバジルとスプーンを乗せる。
完成だ。
俺は、レストランのウェイターよろしく恭しさを装い右手に皿を、左手にビール缶を持って運び、
鄭重にテーブルに置いた。
「サンキュー、御瑠田。」
「いえいえ、構いませんよマドモアゼル。」
と、言ったところを姉に凸ピンされた。失言だったようだ。
「ううっ。」
「何?マドモアゼルって。私が未婚者だってこと強調したいわけ?冗談じゃないわ。
だいたい男共がだらしないのよ。ああ、どこかに骨のあるいい男
いないかしら。」
完全に地雷を踏んでしまったようだ。
未婚の三十路女は、そういう話題に敏感らしい。
最近では晩婚化が進んでいて三十路で未婚は珍しくないはずだと思うのだが、
それは一般的な話であって個人的には違うらしい。
俺としたことが何て失態を。
「ところで。」
と、姉は俺に対面に座るよう指示した後、目を悪戯っぽく輝かせた。
「今日なんかあった?御瑠田。」
何かあったかと問われれば、大いにあった。
実際には一昨日、人生が百八十度変わるような出来事が起こったのだが、
それを姉に知られたくはなかった。
同級生の女子に奴隷にされた弟の話など、姉も聞きたくはあるまいて。
「いや、何もなかったよ。いつもと変わらない、退屈な一日だったよ。」
「嘘ね。」
姉は言って、スプーンを俺に突きつける。
まるでマスコミに詰問されているみたいだ。
「あなたが嘘つく時の癖、言ってあげましょうか。」
「言ってみろよ。まあ、今は嘘なんかついてないから今後の対策として
聞くだけだけどな。」
姉はクククと口の端に不気味な笑みを浮かべて言った。
「不機嫌になる。」
「うっ。」
胸にナイフが刺さったかと思った。
「言葉数が増える。」
「ううっ。」
「瞬きの回数が減る。」
「うううっ。」
「右手で後頭部を掻く。」
「・・・・・・・・・・。」
屑山御瑠田は出血多量により死亡しました。オーバーキルだった。
姉の洞察力はすごい。女怖い。
いずれにせよ、その動作に俺は見に覚えがあった。
以後気をつけねばなるまい。というか、最後の『右手で後頭部を掻く』ってのは
分かりやすすぎるだろ俺。今すぐにでも直しておきたいところだ。
「それで、何があったの。」
姉は、簡単な仕事だったとばかりに言って、カレーを口に運ぶ。
「いや、その、かくかくしかじかで。つまり、今日はいつもとかわらない・・・。」
「あん?」
「・・・・・・・・・はい。」
被疑者は罪を認めた。もう見苦しい足掻きを見せることもあるまい。
俺は一昨日から始まった悲劇を、姉に語り聞かせることとなった。
「一昨日の放課後、退屈気にグラウンドの方を見たら女の子が教室に入って来て、
言うわけだよ。『あなたを一生許さないわ。』って。」
ブフッと、姉がその時口に含んでいたビールを吐き出した。
俺の上半身は酒まみれになった。結構な量だった。
「何をする。」
「何って、あんたがその子にナニしたのよ。」
「・・・・。」
どういうことだと考え、俺はすぐに姉の思考に思い至った。
この年増女何考えてやがる。
「何もしてない。その子とは初めて話したんだからな。
それから姉貴、これから俺がする話はそういった俺の失敗談ではないから。」
少なくとも俺の側に落ち度はない、はずだ。
「なーんだ、つまんない。てっきりそうだと思ったのに。」
俺の顔にかかった酒はどうしてくれる。酒臭くなってしまったじゃないか。
後で再度、風呂にでも入ろう。
「それで、何で許さないのかって聞くと、
その女の子はバイロンの名言とハムレットから引用した言葉を俺に言うわけだ。
『男にとって愛は生活の一部だが、女にとって愛はその全部である。』だったかな。
とりあえずそれがバイロンで、『恋は目で見ず、心で見るのだわ。』っていうのがハムレットの
引用。」
「その子、ちょっと変わってるわね。」
「だろ?大分変わってるんだよな。」
「でも、言いたいことは大体分かったわ。」
「マジで?」
俺の方は話したいことの半分も終わってないというのに。
姉はもう分かってしまったというのだ。やはり姉には敵わない。
「その子ね、あんたのこと好きなのよ。」
「それはない。」
ただの早とちりだったようだ。先を進めよう。
「その女は格言を言った後で、美樹菜のことを好きだって言ったんだよ。」
「尾山美樹菜ちゃんのこと?あの子可愛いわよね。」
「いや、姉貴。語弊があった。その女は美樹菜のことを『愛してる』って言ったんだ。
それはつまり、男が女にいう『愛してる』っていうのと同義で、つまり重い愛なんだ。」
「別にいいじゃない、それぐらい。」
「・・・・・え?」
俺はあの時と同じように、胸を刺されたかのような気分になった。
何て言った、姉貴。
「つまり百合ってことでしょ。私は別に同性間同士の愛ってのに反対じゃないもの。
御瑠田が百合やレズに抵抗があるのは、恋愛は異性間でするものだっていう固定概念が
染みついてるからでしょ。」
「・・・・そう、かな。」
「だから、特殊な性的思考や価値観があるってことを、あなたは認められないだけ。
理路整然と誂えた『基準』を、何の疑いもなしに自分の『基準』にしているから。
少しでも『基準』の枠組みから外れてしまったものには拒否反応が出るのよ。
そうすることで決めつけてしまって、思考を放棄してしまっているの。
自分なりの『基準』を持つことって大事よ。」
あなたって愚かだわ、そう言って姉はビールをあおった。
今度は吹かないことを願うばかりだ。
「同性愛者の恋愛も、異性間内の恋愛も、恋愛の本質は変わらないの。
それに綺麗ごとじゃないのよ、恋愛って。恋は盲目なんて言うし、
時には道徳的や倫理的に外れたことだって平気で出来ちゃうのよ。」
それを『基準』から外れていると言って拒絶するのか。
それを『基準』に反しているとわかって受け入れるのか。
それを『基準』的だと押し通すのか。
「各々の自由でしょうけど、私は二番目をお勧めするわ。
同性愛者っていうだけで耳に蓋をしないで受け入れなさい。
そうするといろんなことが見えて来るわ。
受け入れて知識とすることで創造が生まれる。つまり考えることができるようになる。
まずはそれがクリエイターの第一歩よ。」
「俺はクリエイターになる気はないよ?」
途中まではいいこと言ってたのに、最後は姉のクリエイター魂に火がついてしまった。
仕事中毒ってのは姉の家系では女に遺伝するものらしい。哀れなもんだ。
でも、姉の言っていることは正しいと思う。
言われたからと言って、俄かには受け入れがたいと思っている自分が確かにいるのが証拠だ。
それはつまり、理路整然と誂えた『基準』を自分の『基準』にしているということだ。
俺は自分の『基準』が正しいかどうかを、世界の『基準』と逐次照らし合わせ、同一化している。
世界の『基準』、つまり常識とやらにお伺いを立てながら生きているというわけだ。
だから相対的に判断して、自分の『基準』から外れたものは受け入れないし、拒絶するのだ。
しかし、姉は違う。
姉は世界の『基準』を自分の『基準』にはしない。
起きた事象をとりあえず全て受け入れて自分なりに判断している。
だから百合もレズも受け入れれたのだろう。
それは自立した人間と、依存している人間の決定的な差なのかもしれなかった。
要は価値観の違いだ。
俺の思っている『基準』と、姉の思っている『基準』は違って、
同じように世界の人間の『基準』も違うわけで。
それが共通項で「あるべき姿」に結ばれない限り、この問題は永久に解決できないだろう。
「俺は何を話していたんだっけ?」
「その子が『あなたを一生許さない』って言った理由を話しているんじゃなかった?」
「そうだった。」
いかんいかん。百合の話が強烈過ぎて忘れてしまっていた。
「結局のところその女が言うには、多分嘘だと思うけど美樹菜が俺を好きらしくて。
現状、俺たちは奇怪な三角関係っぽくなってるんだよ。だから、俺のことを許さないんだって。」
ちなみに俺が奴隷となった話はしないでおく。さすがの姉も心配するだろうからな。
「御瑠田は誰が好きなの?」
「俺は・・・・・いない。」
なぜか、いないな。多分、人を好きになったことが今までないんじゃないだろうか。
いや、きっとそうに違いない。異性を見て可愛いと思ったことはあるけれど、
好きだと感じたことは一度も無かったように思うからな。
うん、きっとそうだ。
「いないよ?」
「本当の様ね、残念ながら。」
俺の嘘はお見通しのようだ。今度から嘘発見器と呼ぼう。
「姉としての結論を言わせてもらえばね。その子はあなたのことが好きなのよ、御瑠田。」
「何言ってんの?ポリグラフ。」
口に出してしまった。
「何だって?」
「・・・・・・・・すいません。
でも、それは姉貴が意味の通らないことを言っているからじゃないか。話聞いてた?」
「どうして?ちゃんと聞いてたわよ。」
「ならどういう論理でその結論に至ったのか教えてくれよ。」
「いいわよ。」
姉は長らく止まっていたスプーンをせわしなく動かし、カレーを一気にかき込んでから言った。
「いい?そもそも、その子はあなたが好きだったと仮定するわよ。
仮にその子をAさんとおきます。
Aさんは御瑠田君のことが好きです。だけど、友達の美樹菜ちゃんもあなたのことが好き。
ああ、どうしよう。ああ、困ったわ。」
姉は自分の台詞に対して大げさな動作を伴わせる。とても鬱陶しい。
「Aさんは御瑠田君の性格について知っています。
人を好きになれないという哀れな御瑠田君の性格を。
だから自分の恋は叶わないと知ります。
このままではいけない、このままでは恋は叶わないわ。
どうにかして私に振り向かせないと。
でも、美樹菜ちゃんのこともあるわどうしよう。
Aさんは困りました。
御瑠田君の心も掴むためには絶対条件として美樹菜ちゃんを出し抜かねばなりません。
それに何より御瑠田君を振り向かせねばなりません。
Aさんは悩みました。悩んで悩んで悩み抜いてついに考えつきました。
まず、御瑠田君に恋を意識させます。自分が愛されているということを
鈍ちんの御瑠田君に意識させねばなりません。それに関しては美樹菜ちゃんを使うことにしました。
美樹菜ちゃんを使うことで、御瑠田君に愛されているんだということを知ってもらいます。
そして、次に御瑠田君には自発的に人を好きになってもらわなければなりません。
その対象を自分に向けたい。
方策としては、まだ御瑠田君が好きという感情を知らないため、代替品で紛らわせることにしました。
それは罪の意識です。罪を抱かせることで不思議と彼は自分の方を向いてくれます。
あとはバイロンなり、シェイクスピアなりを使って彼の罪の意識を恋に変えます。
するとあら不思議、いつの間にか御瑠田君は私を好きに。
最後は二人でお手てつないでゴールインッ。」
「20点。」
「もう一声。」
「30点。」
「そんなとこかしらね。」
「それでいいのかよ。自信もないのによく語れたな。」
「最初から説明できるなんて思ってなかったもの。」
「じゃあ話すなよ。」
「何でそうなるかなんて、証明できるわけないじゃない。
私がその場にいたわけでもないし、Aさんの性格もわからないのに。」
ごもっともです。
「ならなんで分かるかって?そんなのは女の勘よ。」
それを言われてしまったら男はおしまいだ。
誰かが言ってたな。女の勘はカオス理論をも凌駕するって。
誰だっけ?
所詮、仮説は仮説で証明できぬまま終わってしまったようだ。
姉にとっては、俺と六小瀬神海の関係はさしずめフェルマーの最終定理ってところか。
『中学生でもわかるような簡単な定理なのに、それを証明することはできない。』
結局、フェルマーの最終定理は
アンドリュー・ワイルズによって証明されることになるんだけど。
まあ、俺の場合はそれほど大それた話ではなくて、姉も判断材料が少ないから十分な
証明が出来ないってだけだからな。
とにもかくにも、姉が立てた仮説が当たっていることはまずないだろう。
六小瀬神海が俺を好きなどという酔狂な仮説は、今すぐ脳から追い出してやらねばいかん。
俺と彼女の関係は、あくまで主人と奴隷のそれなんだから。
現在時刻、十時四十五分。
俺は不本意ながらも残りの時間、今日の12時にくるであろう指令を待つことになるのだった。