家庭
屑山御瑠田の家庭環境を赤裸々に紹介します。
スーパーで買い物をして今日の晩飯の具材を調達し、
俺は午後六時ごろ家路についた。
築三十年のアパートの1階。間取り2LDK、専有面積57.96㎡という
十分な広さを持ちながらも家賃二万五千円という驚くべき安さを誇る
嘘の様なアパートに、俺は姉と二人で住んでいた。
姉との年の差は14歳。
俺が16歳だということから計算すると姉の年は
三十路に突入することになるのだが、それは姉の前では禁句だ。
姉との仲は良好とは言い難いものがあるのだが、別段俺は姉のことを嫌って
いるわけでもなく、おそらく姉も俺のことを嫌ってはいまいだろうと思うわけで。
むしろ、仕事熱心ではっきりとした性格の姉を俺は単純に尊敬していたし、
恐れてもいたのだ。
父と母は二年前に離婚した。
そうなると子供をどちらかが引き取るのが通例らしいのだが、
家の場合そうはならなかった。
額を突き合わせて子供を押し付けあう両親をみて姉が一喝。
『黙れ馬鹿共。御瑠田は私が育てる。』
元々家では寡黙だった姉が初めて本性を現した瞬間で、
両親はまるで自分の娘を初めて見るかのように目を丸くした。
結局、当時28の姉が引き取ることでその場は丸く収まってしまい、
以来、姉は職場で発揮しているだろうそのパワフルさを俺に向けても使うようになり、
俺は『姉には逆らわない』という一生の誓いを交わすこととなった。
端から見れば不幸かと思われるこの事態の収束は、今になって考えてみると
やはり妥当だったんじゃないかと俺は思う。
家庭をかえりみず、仕事中毒な毎日を送る母。
アニメ鑑賞が趣味の元ニート、現プログラマーな父。
俺は一度だって両親が仲良く話しているところを見たことがなかったし、
俺自身、両親のことは嫌いだった。
特に父親に対しては並々ならぬ憎悪を抱いていた。屑山御瑠田などと
とち狂った中二ネームを編み出したのは他ならぬ父だったからだ。俺がどれほど学校で
指を指されて笑われたのか、彼は知るまい。しかし、俺の方はこれでもまだ良かった方で、
姉の惨めっぷりと言ったらなかった。
屑山凛々(りり)暗塗。
ここまで来るともはや笑えない。まごうことなきDQNネーム。
姉は一度も学生時代の話を俺にすることはなかった。
それだけで十分、姉の苦労が理解できた。
28になった姉の、積もりに積もった感情が爆発した次の日。
彼女は家庭裁判所に行って名前を変えた。
あっさりと可決された理由は、甚だしく難解で難読な文字を用い、社会生活上甚だしく
支障を来すからとのこと。当たり前だ。
よくここまで耐えたと、姉の肩を叩いてやりたいくらいだった。
というかよく考えれば、凛々(りり)暗塗という名でバイトの面接も就職活動にも成功していた
姉は驚嘆に値する。余程の才能を見せなければ、名前の不利を払拭することなど出来ないだろうからな。
まあ、雇う側も名前で判断する人間は少ないだろうと思うけれど、凛々(りり)暗塗という名の
明らかに日本人にしか見えない人間が来れば、誰だって不信感を抱くに違いないしな。
やはり姉は尊敬できる人間であり、恐ろしい人間だ。
俺は姉ほど対人スキルがないから、近々、家庭裁判所に厄介になることになりそうだな。
今の内に次の名前の候補でも考えておこうか。何がよかろうか。
ちなみに姉は、屑山蓮華に変えたらしく、理由を問い詰めると、
『綺麗だから』の一言。姉らしい切り返しだったが、それも果たしてどうなんだと俺は
首を傾げたわけで。なら、俺も『かっこいいから』と言えるような名前にしようかな。
閑話休題。
それからこれは、姉と俺との血縁関係に関わることなのだが、
どうやら俺たちは血は繋がっていないらしい。
というのも、仕事中毒の母が珍しくリビングで泥酔していた時、
ふと口を滑らせたのをたまたま聞いただけなのだが。
『御瑠田は私の子じゃないのよ。』
成程。その時の俺は全くと言っていいほどショックを受けなかったし、
素直にそれを受け入れた。
むしろ、納得したというか、安堵の方が大きかったように思う。
それをある友達に言ったら、お前は変わってると引かれた。
仕方ない。だって本当にそうなんだから。
違和感は感じていた。キョウダイというものは多少なりとも似るものだとは
思うのだが、俺と姉の容貌は赤の他人のそれだった。学校でも似ていると言われたことは
一度もなかったし、本当にキョウダイかと揶揄されることもしばしばあったから、
多分俺と姉は血がつながってないんだろうという疑いを持って生きてきたので、
すぐに事実として受け入れられたのかもしれない。
姉がそれを知っているかは定かではないが。。
ともあれ、そんなダメダメな両親と別れられたことは、俺にとって僥倖だった。
両親がいないことを可哀そうだと同情してくる人間もいたり、羨ましいという人間も
いるのだが、今のところ俺は、この落としどころで正解だったと思うのだ。
無理矢理一緒に暮らして両親と変な軋轢が生じるのも可笑しいし、それに両親は離婚しただけで
天に召されたわけじゃない。会おうと思えばいつだって彼らと会うことが出来るのだ。
まあ、会う気なんてさらさらないけど―――。
そんなことを考えているうちに、時計の針は六時半を指していた。
そういえばお腹がすいた。飯を作らなければ。
今日は奇天烈少女のせいでただでさえ疲れているのだ。
早く補給をしなければ夜までもたん。
俺は冷蔵庫から食材を取り出し、買ってきたばかりの野菜を水で洗った。
ちなみに、前の家の時も、今の家の時も、俺の家での立ち位置はなんら変わっていない。
炊事、洗濯、掃除。
おおよそ主婦なり、主夫なり、母親なり、父親なりがやるであろうその仕事は、相も変わらず
俺の管轄だった。でも、俺はこれでいいと思っている。十分に慣れていたこともあるし、
それに姉の殺人級の手料理を食べるのはもう二度と勘弁願いたいからな。
姉は仕事は出来るが、主婦としてのスキルは全くと言っていいほど無きに等しかった。
完璧主義な彼女の性格とそのギャップは、弟の眼から見ても愛くるしい反面、心配だった。
姉は結婚できるのだろうかと。
変な話だが弟ながらそれを案じていた。
姉が聞いていたら、『余計なお世話だ』と一蹴されてしまいそうだが、
彼女と結婚してくれるような男が現れることを、俺は切に願っているのだった。
もし、そうなってしまえば俺は肩身の狭い思いをすることになるのだろうが、
そうなったら一人で自立する道を歩もう。
姉にはすでに返すことのできないほどの恩をもらっているのだから、それぐらい出来て当然だ。
俺は水洗いしたニンジンの皮をピーラーでむき始めた。
今日は姉の好きなカレーを作ることになっていた。
昨日は残業で会社に泊まって(だから昨日は学校を休めた)、今日夜九時に帰ってくることになっていたからだ。
カレーは多忙な姉のたってのお願いだった。
致し方ない。俺の秘奥義を味わい、舌鼓を打つがよい。
などと、中二チックなことを考え、俺は御瑠田スペシャルを鋭意制作するのだった。