6.大切なもの
夜の帳が静かな森を覆い、仄かな月明かりだけが泉を照らす頃。私はずっと一人の少年の気配を追っていた。
言わずと知れたセルジュだ。
彼は私に認められなかった事が余程ショックだったのか、それとも母親に合わせる顔が無いと思っているのか、ずっとフラフラと森を彷徨い歩いている。
子供だから仕方が無いとは思うが、少し危機感が足りないのではないか。この森には私の支配下にある動物しかいないので今は襲われる事は無いが、私が意識していなければたちまち彼は凶暴な動物に喰い殺される事だろう。そのあたりも説教リストに加えておくとしよう。
さて、自分探しの旅もいいだろうと黙って見守っていたが、もう夜も遅いしそろそろ軽く動物をけしかけて帰そうか……、と思っていた時の事。不愉快に感じる意思がいくつかセルジュの周りに集まって来た。
私は様子を見るために泉から一度出て、指先だけをまた泉の中へ入れる。そこから波紋が広がり、月明かりだけを映していた泉は波紋がおさまると同時にセルジュの姿を映し出した。
そこにはセルジュだけではなく、数人の小汚い男。見るからに真っ当に生きていない男達が、泣きわめくセルジュを掴んで品定めするかのように下卑た薄笑いを浮かべ舐めるように見ている。
……人攫いの類だろうか? そうでなくとも、私が今まで追い払ってきた野盗と似たようなものだろう。なんにせよセルジュが危ない事には変わりない。
私はこの国を、そしてこの国の民を守護する『泉の精』の務めを果たすべく力を行使する。
私が力を流し命じると、いつもは沈黙を守っているだけの木々が、その枝をうねらせ手のように伸ばし男達に向けた。
不気味に動く木に驚愕して動けない男を一人。二人、三人と木の手が絡みとり、そして残るはセルジュを捕まえている男だけになった。その男は顔を恐怖で歪めるも、セルジュを抱えたまま剣で木の手を薙ぎ払い走りだす。
しかし、逃げきれるはずがない。森は私の領域なのだから。
アオーーーン――……
狼の遠吠えが森に響く。
夜になると闇に同化したように見える灰色の毛をした彼らは木の合間を駆ける影となり、逃げる男を取り囲む。金色の瞳を光らせて唸りながら徐々に詰め寄る狼の群れに、男は震えながら一心不乱に剣を振り回す。
危ないではないか。私の可愛い子達が怪我をしたらどうしてくれるのか。
それ以上は近寄らせないようにして、私は再び木に力を流す。囲まれて逃げ場のなくなった男は、抵抗も虚しく木の手に捕らえられた。その際、セルジュが男の手から転げ落ちて痛そうにしていたのはご愛嬌だ。
ひと息つき、涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにさせているセルジュをそのまま狼に街の方へと送らせようとしていた時、ゆらゆらとこちらに向かって来る幾つかの火の灯りが見えた。
あきらかに人工のものである灯りに、ああ、セルジュのお迎えかしら、となんとなく感じ、街ではなくこちらに向かわせるように狼に指示する。
狼に囲まれて、顔面蒼白に戦々恐々としながら歩くセルジュを見て、少し笑ってしまったのは秘密だ。
そんなのんびりとした私と打って変わって、近付いて来る人間達の先頭に立つ女は様子がおかしかった。泣く子も余計泣いてしまいそうなほど鬼気迫る勢いで駆け寄って来るものだから、思わず半歩ひいてしまう。
「精霊様……! セルジュはっ……!? セルジュを、ご存知ありませんか!?」
少しお腹が膨らんでいる女は、赤みがかった金髪を汗で額に張り付かせながら私に詰め寄って来た。
『だ、大丈夫よ……。ほら、今こちらへ向かって来ているから、少し落ち着いて……?』
彼女の視線を泉の方へ促すと、「セルジュっ!!」と叫びながら泉に勢いよく飛び込もうとする。それは水泳の飛び込み選手も絶賛しそうなほどとても綺麗なフォームだった。
「アドリエンヌ様いけません!」
「アドリエンヌ様おやめください!」
「それは本物ではありません!」
彼女が地面から少し浮いた時、後ろに控えていた従者達が青ざめながら必死に女を止めようとするも、彼女の耳には届いてないようで、ひたすら「セルジュー! セルジュー!」と叫びながら泉に飛び込もうとしている。
……天然って怖いわね……。従者の方達も可哀想に……
おそらくセルジュの母親でありアレンの妻であろう女と、苦労していそうな従者達を見ながらそう思った。
彼女達のコントのようなやりとりを遠巻きに眺め、少し経つと、狼に囲まれていまだ戦々恐々としているセルジュが私達の前に姿を現す。
「は……ははうえーーー!!」
セルジュの叫びに狼達はビクッとした後、逃げるように森へと帰って行った。そして障害が何もなくなったセルジュは、昼間の賢そうな顔もどこへやら、すでに涙なのか鼻水なのか分からなくなっている液体を垂れ流しながら母の腰らへんへとタックルする。
女は泣き喚きながら腰にへばりつく我が子と、泉に映る我が子を見比べて「あら? セルジュ? え? こっちは?」と混乱しているようだ。そこでどちらが本物か分からないというのが私には理解しがたいが、きっと天然という生き物は我々の理解を超える思考回路をしているので仕方ない事なのだろう。
女は一通り混乱した後、やっとどちらが本物のセルジュかを悟り、そしてここがどこであるのかも思い出したようだ。
「せ、精霊様、失礼致しました……! わたくし、王太子アレンの妻、アドリエンヌと申します。ご挨拶が遅れました上に、見苦しい姿をお見せしてしまい大変申し訳ごさいません……。なにとぞ、ご容赦のほどを……」
そう言って、今にも頭を地面に力の限り擦りつけながらの土下座をしそうなくらい恐縮しきっている彼女の顔は、まるで死刑宣告を下されるのを待っている人間のようだ。よく見ると身体も軽く震えている。
私を一体何だと思っているのだろう? 少し粗相をしただけのメイドを容赦なく切り捨てるような暴君では無いのだが。
『顔をあげて? 私は何も気にしていないわ。そもそも、もっと早くにセルジュを帰さなかった私に否があるのだから』
「……!? お、お前には関係無いだろ!? 僕が勝手に森にいたんだから!!」
生意気な態度は健在のようだ。いや、責任を私に押し付けない潔さと正義感のあらわれ……にも見えなくもない、かな?
「セルジュ、そもそもこんな時間まで何をしていたの? お父様も心配なさっていたのよ?」
アドリエンヌの言葉に、セルジュは私に『認めない』と言われた事を思い出したのだろう。顔をまた青くさせて黙り込んでしまった。よし、ここはお婆ちゃんが助けてあげよう。
『セルジュが今ひとつこの国と私の在り方を理解していないようだったから、そのままだと認める事はできないと言ったら拗ねてしまったのよね?』
まるで助けになっていないのは自覚している。ちょっとしたイタズラ心だ。しかし、よく聞くとちゃんと理解できたら認めると言っているようなもの。それに気づいてくれるだろうか?
「セルジュ……。あなた、何か精霊様に失礼な事をしたのね……!?」
「僕は何も悪くない!! 悪いのは、コイツと……父上だ!!」
私のちょっとした気遣いはあわれ無かった事にされ、何故か悪者扱いされる私。それに何故今アレンが出てくるのだろう?
「僕達や、母上がいるっていうのに、こんな……こんなバケモノを“愛人”にしてるだなんて……!!」
パシン!!
アドリエンヌがセルジュの言葉を遮るようにその頬をぶった。
その後に誰も口を開く者はおらず、従者達が持つたいまつの燃える音と、遠くから聞こえる獣の鳴き声が、静かなこの場によく響いた。
我が子をぶった彼女の顔は悔しそうに歪められていて、そんな母親に対して何故自分がぶたれたのかを理解できずただ彼は呆然としている。
私も呆然としている。セルジュがぶたれた事に対してではなく、セルジュの“愛人”発言に対してだ。もう何年もアレンと会っていないというのに、何がどうなってそうなったのだろうか?
「あなたは、お父様の何を見ているの!? あんなにも、わたくし達を愛してくださっているお父様がわたくし達を裏切るはずがないでしょう!?」
「だ……、だって……。泉の精の話をする時の父上は……、いつもいつも嬉しそうで……。僕たちよりも、母上よりも、大切なものを、自慢するように話す、から……」
「精霊様が特別なのは当たり前でしょう!? お父様にとって初恋の方であり、わたくし達のこの国を守ってくださっている敬愛すべき方なのよ!?」
何故アレンの初恋の相手が私だと知っているのだろう。いや、深く考えずとも分かるか。きっとあの実直すぎる彼は、馬鹿正直に赤裸々に告白したのだろう。
「ただ勘違いしてはいけないのはわたくし達と、精霊様に対する感情は全く別のものなの! お父様にとってわたくし達以上に大切なものはないのよ!! どうしてそれが分からないの!?」
心が、軋んだ気がした。
アレンにとって、彼女達家族以上に大切なものなんてないだろう。それは、分かっている。
ただ、今のこの感情が、人間の時に『彼』と『彼』の奥さんに対して抱いた感情と似通っているような気がして、あれだけ煩わしいと思っていたものがまた私の中に芽生えてしまったのかと、絶望にも似た暗い感情が私の中に渦巻く。
……いや、大丈夫。大丈夫だ。ほら、私の心はあの頃のように疼いてなんていない。アドリエンヌの言葉に、一瞬、過去を思い出してしまっただけだ。
「本当に……? 本当に、僕たちの事が一番、大切……? 母上のこと……、ちゃんと、愛してる……?」
「勿論よ。お父様は、世界で一番、わたくし達を愛してくださっているわ」
アドリエンヌがそう言ってセルジュを優しく抱きしめると、セルジュは堰を切ったように大声で泣きだした。
私の前では、ただの小生意気な子供でしかなかったセルジュは、今は母に抱かれ年相応の顔をして、無防備にただ泣いている。
そんな我が子を抱いて慈しむように背中を撫でるアドリエンヌの顔はとても穏やかで、セルジュに向けているものはまさに無償の愛といったところだろうか。
そんな疑う事も、変わる事も無いものを持っている彼女らを、少し羨ましく思う。
人間だった時には私にも親はいて、それなりに愛情を貰っていたはずだが、それは当たり前すぎて気づく事はなかった。親がいなくなってありがたみが分かるとよく聞いていたが、まさか私がいなくなる立場になった後に気づくなんて皮肉な話だ。
アドリエンヌは、セルジュが帰りが遅くなっただけで酷く取り乱していた。きっと、本当にいなくなってしまったら、絶望よりも酷い哀しみが彼女を襲うのだろう。
そう思うと、私の両親も哀しんでいるのかな……と想像して、今さらながらにとんでもない親不孝をしたものだ、と思う。
アドリエンヌの腕の中で泣いていたセルジュの泣き声は、段々と小さくなっていき、やがてしゃくりあげるだけになった頃、俯きながら私の方を向いて言った。
「ひっく……、ご、ごめ……、ひっ……、なさ……、ひっく……」
私へのあの生意気な態度は、ただ家族を想うあまりの態度だった。まぁ、ただの勘違いだった訳だけど、子供だから勘弁してあげよう。
私は彼の額に『泉の精』の加護を込めた口付けを落とす。
そして、耳まで赤くなってしまったセルジュに、私は言う。
『セルジュ、昼間の話は撤回しするわ。でも、今日の出来事に関しての反省を五百文字以上、二千文字以内の文にして後日持ってくるように』
ごめんなさいで済んだら警察はいらないってね。
なんて、ちょっとしたイジワルで言っただけだったのだが、後日セルジュが二千文字ピッタリに反省文を書いて来た時は少し驚いた。