51.刻まれた想いと、放棄する想い
「アドリ、エンヌ……?」
彼の掠れた声が、ありえない名前を呼んだ。
「え……? 何……? アドリエンヌは、あなたが浄化したんじゃないの……?」
「そ、れは……、ぐっ、ぅああっ!!」
何かを言いかけると、小さな影が彼から離れ、彼は呻き声を上げてのけぞる。同時に、ボタボタボタッ、と何かが落ちる音がした。
彼の、子供の手には、血に濡れた刃物。彼の背中は、真っ赤に染まっている。
なぜ。思考はそれで占められて、まともに働かない。けれど、無意識のうちに震える手はナースコールを押していた。
『はーい、どうしましたー?』
「早く!! 早く来て!!」
スピーカーから聞こえてくるのんびりとした声に苛立ち焦り、とにかく早く来てとそれしか言えない。
今の私は確かな肉体を持っていて、それが悪意の存在から心を守っているから、おぞましい穢れに対し恐怖で竦む事は無い。けれど。水の身体では無いからこそ、今彼女の手に持たれているものに恐怖を感じる。
「大丈夫!? しっかりして!!」
痛みでベッドに伏せてしまった彼に必死に声をかける。彼女はそれを見て、子供特有の高い声でケラケラと笑っていた。
「あなた……、アドリエンヌなの……?」
「そうだよ」
小首を傾げる可愛らしい仕草で答える。けれど、その表情はとてもじゃないが五歳程度の子供がする表情ではなかった。
「どうして? あなた、リュカと一緒に泉で……」
「ふふ、あれは茶番だったよ。その人の魂がすり切れて、本当に消えちゃいそうだったから、あの泉にいるいまいましいヤツらがその人だけをこっちの世界に送りだしたの。あとは自分たちに任せろ~!! なんてね。でも、しょせんは弱っちいなヤツらだったからさ、逃げるなんて簡単なことだったよ。でも、もうちょっとその人と一緒にいたら危なかったかなぁ? 本当に憎しみがなくなりかけちゃってたから」
無邪気そうに、ブンブンと刃物を振り回している。
「でも、あなたのおかげで、また取り戻せたよ。あなたが、ママを苦しめたりなんてしなかったら、“アドリエンヌ”は目を覚まさなかった。ありがとう」
血の気が引いていくのを感じた。あの頃の私は、まだ彼がどういう存在で、どんな因果を背負っているのかなんて知らなかった。それに、私がどう関わっているのかも。きっと、彼も気づいていなかったはず。
私達は知らず惹かれて、知らずまた同じような罪を犯していたのだ。
これは、いつまで続くのだろう。いつが、始まりだったのだろう。罪を犯して、憎まれて、憎んで。この連鎖は、途切れる事などなく、永遠に続くのだろうか――。
「……すまない、アヤカ」
額に冷や汗を浮かばせて、彼が痛みに顔を歪ませながら起き上がった。彼の突然の謝罪に、彼女は不機嫌そうに口を歪ませる。
「……何にたいして、あやまってるの?」
「お前の心が癒えるまで傍にいると言ったのに、お前を置いて行ってしまった事。お前に気づかずに、また苦しめてしまった事。そして……、ナミと離れる事ができそうにない事……。本当に、すまない」
ぼろり、と大粒の涙が彼女のつぶらな瞳から零れた。
「ごめんですんだら、ケーサツはいらないんでしょ? パパ?」
泣きながら笑う彼女が、刃物を両手で持ち直す。それを見た彼は、痛みと哀しみで目を細めている。彼のそんな顔を見たかったはずなのに、彼女もまた苦しげな面持ちでいる事の違和感。
先ほどの涙といい、もしかしたら彼女は、以前ほど彼を憎んでいないのではないのかもしれない。
「パパなんて、だいきらいっ!!」
刃物が、彼に向かって突き出された。彼はそれを避けようとする気配など無い。
「駄目!!」
足が動かず、手にすらあまり力が入らない身体を必死に動かす。けれど、やっぱりそんな身体では彼の服を掴む事すらできず、ベッドから滑り落ちてしまった。
落ちた身体が、彼の足に当たる。予想外の場所への衝撃に彼の身体が揺らぎ、そのまま私の上へと倒れ込んできた。
そのすぐ後に、彼がいたはずの場所で宙を切る刃物。
彼女の目が、憎々しげに私を射抜く。彼を庇うように、私は精一杯の力で彼を抱き締める。彼もまた、私を庇うようにして抱き締めてきた。
互いを守るように、求めるように抱き合う私達を見た彼女は、より苛立たちを募らせ、感情も顕に泣き叫ぶ。
「なんなの!? あなたたち、なんなのよ!? なんで、引き離しても、また出会ってしまうの!? なんで、傷ついて、苦しんで、何度も離れても、まだ一緒にいようとするの!? なんでなんでなんで……」
「“想い”が、魂に刻まれてしまったからだよ」
彼女の言葉を、彼が静かに遮った。
「数千の歳月を苦しみに苛まれたとしても、彼女と共に在れる一瞬の幸福が何よりも欲しいんだ。お前がこの肉体を刻んで、この肉体に居れなくなったとしても怖くない。この“想い”が刻まれた魂がまた、彼女を探して見つけ出すだろうから」
恋なんて、遺伝子を残すための本能が見せる錯覚だと思っていた。
魂がどうの、運命がどうの、そんな非科学的な事なんて、有り得ないと思っていた。
けれど、私にも、もう刻まれてしまっている。
彼への、永遠の想いが――。
想いが溢れて、私の頬を濡らす。
私も同じだという想いを込めて、彼を抱き締める手に力を入れて彼の胸元に頬を寄せた。
からん、と刃物が床に落ちた。
「……ぅ、いい……」
小さく呟いた彼女は、力なく腕をだらんと下げて俯いている。
「もう、いいよ……。バカみたい……。あなたたちには、もう、つきあいきれない……」
口元は嘲りの笑みを作っているけれど、その瞳にはもう憎しみの色は無かった。
「もう、疲れたから、わたし、眠るよ……」
最後に、一筋の涙が彼女の頬を伝った。
それは、とても哀しく、虚しいものだった。
彼女の身体がぐらりと揺れ、全身の力を失うように倒れた。
「き、きゃああああああ!!」
直後、見計らったかのように、先ほど呼んだ看護師がやって来た。床に転がる血に濡れた包丁と、彼の真っ赤に染まる背中を見て悲鳴を上げて人を呼ぶ。
それからは、アッという間の出来事だった。
悲鳴に周りにいた人が駆けつけ、怪我をしている彼の手当と、原因不明で倒れている少女を運び出して行った。私は説明を求められたけれど、起こった事だけを簡潔に言い、原因は分からないと言った。
しばらく経つと警察がやって来て、幸いにもそれほど傷が深くなかった彼はすぐに事情聴取をされていた。彼は今までの家庭の事情を話した上で、家族喧嘩がこじれてしまったと話すと、彼女の身体に目立った外傷が無かった事から、すぐに解放された。
そうして、深い夜は明けた。