50.夢のあと
――声が、聞こえる。
それは、どこか遠くで聞こえているような、でも、すぐそこで聞こえているような……。
そう、夢の中で、現実の声が聞こえてくるような、あんな感じの声。
ふわふわ、ふわふわ。
真綿に包まれているように、心地良い。
ここは、どこだろう。いつから、私はこうしているのだろう。
なんだか、とても幸せな夢を見ていた気がする。
ああ、でもこれも夢かもしれない。
だって、懐かしい声が聞こえる。
――えっちゃん、またあなた、落書きしようとして! 必死に落とすおばさんの身にもなってちょうだい!
――だって! この子、全然目を覚まさないんだもの! いつまでも寝てるこの子が悪いのよ!
キュポンっ、と何かの蓋を開ける音がした。私の中の警鐘が激しく鳴り響く。
――ヤバい! 青ヒゲ書かれる!!
咄嗟に、力があまり入らない手で、幼馴染の腕を掴んだ。
「きゃっ!?」
カラン。彼女の持っていた油性ペンが病院の冷たい床に落ちた。重い瞼をなんとか開けて、驚きに目を見開いて固まっている彼女を見る。まだ何が起きたのか分からない彼女に向かって、私は渇いた唇を震えながら動かした。
「ただ、い、ま……」
「ナミっ……!! おば……おばさん!!」
病室にある洗面所から、なぁにぃ~、と間の抜けた声が聞こえた。母は、私が目を開いているのを見ると、持っていたプラスチックのコップを落としたのもそのままに、こちらへ駆け寄り泣き崩れてしまった。
「ナミ!! ナミ……!! 良かった、もう、お母さん、あなたが目を覚まさないんじゃないかって……!!」
懐かしく、温かい声に、涙がこみ上げてくる。そんな自分に驚いてしまう。
ああ、私、泣けるんだ。それが嬉しくて、でももうあそこでは無いという事が寂しくて、余計涙が溢れて止まらない。
あれ、“あそこ”って、どこだっけ?
胸に広がる喪失感。何をなくしたのだろう。とても、大切なものだったはずなのに、それが何なのかが思い出せない。
それが哀しくて、私はまた泣いた。
◇
私が目覚めて、一週間が経った。
どうやら私は二年もの間ずっと眠っていたらしく、筋肉が衰えて一人で立つ事もままならない。けれど、他に異常は無いという事で、明日退院して家でリハビリを行う事になった。
病室に一人になって、何をする事もなく、ぼんやりと窓の外を見る。
あれから、母と父には泣かれた後に説教され、幼馴染には怒られた後にまた怒られ、他にも心配をかけた人達がお見舞いに来ては説教され……、と散々だった。けれど、それは全て私の事を心配してくれたからこそ。それは、とても幸せな事だと感じた。
それでも。足りない。
何かが足りない、そう思うけれど、何なのかが分からなくて、ただ訳の分からない苛立ちと、胸を掻き毟りたいほどの焦燥感が募っていく。
行かないと。
どこに?
探さないと。
何を?
これの繰り返し。胸の奥でくすぶる何かに、翻弄されては混乱する。
きっと、あの時のあの人も、こんな気持ちだったのかもしれない――。
「“あの人”って誰よ!?」
苛立ちを紛らわすためにベッドを殴りつけようと思ったけれど、今の私には腕を振り上げる力もなく、少し浮いただけで、ぽすん、と間の抜けた音が響いただけだった。
そんな自分が惨めで、情けなくて、一人なのをいい事に声を上げて泣いた。
「ふぁ、ああっ……!! ああああああああ!!」
「なんで、泣いてるんだ……?」
一人で泣きたかったのに、それに水を差す声がした。ドアの方を睨みつけるように見れば、そこには“彼”と五歳くらいの女の子の姿。
彼の姿を視界に捉えた瞬間、酷い痛みに襲われた。
子供を連れてまで、私に今さら何の用だというのだろう。私達は、もう二年前に終わったのに。
「何……? 何の用? あなたの顔なんて、見たくなかったんだけど」
揺らぐ心を必死に抑えつけようと、冷たく言い捨てる。それなのに、彼は酷く嬉しそうに私の方へ近づいて来る。それどころか、私の手を取り、優しく撫でるのだ。
「やめて! 触らないでよ!!」
「ほら。やっぱり、俺の勝ちだ」
笑みを深める彼が握った私の手が、温かい光に包まれた。
「えっ……?」
泣きたくなるほどの、その温かい光は銀色。
彼女が、そして彼が持っていたその温かい光に、止まりかけていた涙が、また溢れ出す。
光が収まれば、いつの間にか私の薬指には銀の指輪。
なんて、私は間抜けなんだろう。
探していたものは、すでに私の手の中にあったのに。
「ずるいわ……。私、まだ帰ってきたばかりなんだから……」
負け惜しみを言うけれど、そんな私の様子ですら彼は愛おしげに見つめる。
見慣れているはずの彼の顔に、アレン、ファズル、そしてリュカの顔が重なり、見慣れない顔に見えて、なんだか気恥ずかしくて目を逸らす。
逸らした先で、彼が連れて来た女の子と目が合った。
彼を見つけた嬉しさが先に立っていたけれど、彼が妻子持ちだった事を思い出して、痛む胸を抑えて彼の手から自分の手を抜き取る。
「……ねぇ。奥さんは、どうしたの?」
「ああ……。離婚して、今は精神病院にいるよ……」
「そう……」
鞄の中に手を入れている女の子を見る。彼女は、どうしてこここに来たのか、私がどういう存在なのか知っているのだろうか。私が、彼女の母親を狂わせてしまった原因である事には……
「ナミ。君に、こんな事を言うのは、間違っているのかもしれない。けれど……」
もう一度、彼は私の手を握り締める。その手は震えていて、すがるように私を見つめる。
「もう……、離れたくないんだ。色んなしがらみが、君を苦しめる事も理解している。だけど……!! 俺と、もう一度……」
言葉を最後まで言い切らず、彼は身体を揺らし、目を見開いた。
「どう、したの……?」
彼は、ゆっくりと、後ろを向く。彼の背後から、小さな影が見えて、それは私と目が合うと、にたり、と暗く不気味な瞳を細めた。