44.その瞳が見る世界
「あなたが……、書いた、ですって?」
「そうさ。俺が、獣の身体だった時に、書いたものだよ」
鈍器で殴られたような、鈍い衝撃を感じた。思考をもグラグラと揺らされて、彼が何を言っているのか分からなかった。
何も考えられない私に反応して、リュカを縛り付けていた草が萎えていく。束縛から解けた彼はゆっくりと近づいて来て、力なく項垂れている私の手から手紙を抜き取った。
ビリッ――、と何かが破ける音が聞こえた。
「最初から、こうしていれば良かったんだよな。あんたがこうなるのが分かってたから、見せたくなかったんだ。まったく、あの時の俺は何を考えてこんなもの書いたんだか」
細かく破かれた手紙がリュカの手から離れる。ひらひらと舞い散る紙の合間から見える彼の瞳は、やはり痛ましいほど、虚空なものだった。
『本当に……、あなたはファズルなの……?』
問うてみるけれど、きっと本当は疑っていない。もしかしたら、もうずっと前から分かっていたのかもしれない。けれど、無意識のうちに目を逸らしていたのだ。
信じられなかった。いや、信じたくなかった。彼が何の感情もこもっていない目で私を見る事に。うわべだけの愛を囁く事に。
哀しみを苛立ちと勘違いして、あまつさえテオドールが彼だったならいいのにとさえ思って、彼から目を逸らそうとしたのだ。
そんな私の心を見透かしているかのように、リュカは嗤う。そして、私の耳元で甘く囁くのだ。
「残念ながら、本当だよ、ディーナ」
彼の手が、私の頬を撫でる。手つきは酷く優しいのに、触れられた先から心が冷えていくようだった。
『どうして……、もっと早く、言ってくれなかったの……?』
「俺だって確信があった訳じゃない。ただ、あの手紙を見つけた時、漠然と“これは俺が書いた”と思っただけだった。今だって、俺が“神の獣”と呼ばれていた事を自覚しているだけで、当時の記憶がある訳じゃない」
オデットと同じ水色の瞳が私を映す。氷の中に閉じ込められたかのように、彼の瞳の中の私は動けない。
「でも、これだけは理解できる。俺がずっと、ずっと、探していたモノは、あんたが持ってる」
私が、リュカの心を、持っている。
彼はそう言うけれど、私は“穢れ”と憎しみの心しか連れていかなかった。それはもう浄化されて、どこにも無い。
それなら、彼の残りの心はどこに行ったのだろう?
「なあ、返してくれよ」
心が悲鳴を上げる。だって、私は持っていない。返したくても、彼に心を取り戻して欲しくても、私は持っていないのだ。
“穢れ”と共に浄化されてしまったのだろうか? もし、そうなのだとしたら――、彼は、永遠にからっぽのままでいるしかないのだろうか――。
「返せよ! 俺の、心を!! 俺の――“憎しみ”を……!!」
『……え?』
今、リュカは何と言った……? 憎しみ、と言った……?
彼が、欲しくて、欲しくて、ずっと探していたモノが、憎しみ? 歓びや、幸福を感じれる心ではなくて? どういう事?
「あれは、俺のものだ! 俺だけのものだった! 俺が、背負うべきものだったんだ……!!」
色を映していなかった彼の瞳が揺れる。心を失ったはずの、心を求める事だけに執着していただけの、からっぽだったはずの彼が、悲痛な声を上げる。
その声に反応するように、泉がさざめいた。
「誰が持っていって欲しいと言った!? 俺は失くしたくなんてなかったんだ!! 大切な人を失う痛みを!! 守りたかった国が燃えていく痛みを!! 全てが俺の手から零れていくのを、あんたが、消えていくのをただ見ているしかできなかった、惨めな自分を憎む心を!!」
“声”が聞こえる。
泉の底から、私を呼ぶ“声”が。
「あの時、命を燃え尽くすほどの憎しみがあったからこそ立っていられた! あの時の俺はそれが全てだったんだ! それなのに、あんたは持って行ってしまった! あんたが俺を、一番守りたかった相手に全てを背負わせてしまった、情けなくて間抜けな男にしたんだ! でも、そんな自分を憎む事すらあんたは許してくれなかった! なんでだ!? どうして持っていってしまったんだ!? 返してくれ!! 返してくれよ!!」
泉の底で、心から血を流しながら苦しんでいる。
泣きながら、私の名を呼んでいる。
『そう……そうだったのね……。ごめんね……、ごめんねリュカ……』
私の中で、全てが繋がった。彼の手を強く握り締めた。
彼も私と同じだった。痛みを持つ事で、私をその心の中に留めおこうとしたのだ。
それだけじゃない。あの時の彼は、あまりにも憎しみに心を囚われすぎて、それしか残っていないと思い込んでしまったのだ。
だから、それを奪われた事は、生きる糧を失うのと同等の痛みを伴った。
それを失いたくないと、強く願ってしまったのだ。
その悲痛なほどの願いは、心を泉の底に閉じ込めてしまうほど――。
ああ、確かに私があなたの心を持って行ってしまっていた。
私の身体が弾けた瞬間、その痛みに耐えられずに、あなたは知らず私に心を自ら差し出していたのだ。
それに気づかずに、私は泉に持って帰ってしまっていた。そして、あなたは泉の中にある自分の心に気づかずにからっぽのまま五百年の時を越えて、憎しみを求める事が妄執となってあなたを苦しめた。
なんて滑稽な話なのだろう。お互いを想うあまり、お互いを苦しめる事になっていただなんて。
けれど、それも今日で終わり。
『行こう。あなたの心を探しに』
泉の底で、私を呼ぶあなたを探しに行こう。
怪訝な顔をしたリュカを無理矢理引っ張り飛び込んだ泉の中は、あの夜の赤黒く濁った様は欠片も無く、どこまでも澄んでいた。
光が射す泉の中は、私達を守る揺り篭。
ゆらゆらとあやすように。母の胎の中のように、守られて眠る。
けれど、私達は、もう眠らなくていい。
だって、私にはあなたがいる。
あなたにも、私が傍にいる。
あなたに憎しみは返してあげられない。けれど、生きているだけで痛みを伴う。誰かを傷つけた記憶。誰かに傷つけられた記憶。何かを手に入れては失う無力さに嘆き、失う事を恐れて蹲る事もあるだろう。痛みは、なくならない。
それでも、私達は生きている。生きていく。
一瞬の幸福を手に入れるために。
幸福の記憶を、心の中に永遠に刻むために。
私はもう一度、あなたと共に幸福を探したい。
底で輝く銀色の光が明滅している。“声”が、近づいて来ていた。
掴んでいるリュカの手がこわばるのが分かった。光はすぐそこなのに、こわばったままの彼が動かないせいで届かない。
リュカの方に向き直る。心が近いせいか彼の瞳は雄弁になっていて、“恐れ”が揺れているのを隠せないでいた。
きっと、眠っている優しい彼の心は、私を傷つけたと嘆くのだろう。それを自覚してしまう事を、恐れているのだ。
『馬鹿な人。私が一番哀しいのは、あなたが心を閉じ込めてしまう事なのに』
少し笑って、リュカの頬を両手で包み込む。
『あなたに……、会いたい』
彼の震える唇に、私の想いを唇と共に重ねた。
銀色の光が急速に収束する。その次の瞬間。
光が弾けた。
光は泉を満たしていく。目を開けていられないほどの眩い光は柔らかく、唇を重ねたままの私達をも優しく包み込む。
“声”は、もう聞こえなかった――
――水飛沫が、太陽の光を受けて、キラキラと煌めいた。
「ぶはっ……! げほっ……ごほごほっ……」
『だ、大丈夫?』
水面に勢いよく飛び出し、岸に手をついたリュカが息苦しそうに咳き込んだ。私は陸の上で休ませてあげようと、引っ張り上げるために彼の手を取ると、彼は私を見上げる。
私の水の身体を通り抜けた陽の光が、彼をゆらゆらと照らした。
一瞬、彼は息を止め、小さく呟く。
「眩しい……」
虚空だった水色の瞳が揺れた。
「世界が、眩しいよ、ディーナ……」
静かに流れた彼の涙は、とても綺麗だった。