42.翠の瞳が映すもの
リュカとテオドールが最後に顔を見せてから一ヶ月。平穏な日々を過ごしていた。
ファズルのベッドのシーツを洗ったり、部屋を掃除したり、ファズルがつけたのであろう爪の痕をなぞってみたり……。
正直、第三者がその場を見ていたら、引くくらいウジウジとして過ごした。可哀想な自分に酔っている……、というような感じだったかもしれない。
そんな状態になっていたのは、リュカが泉に入りに来ていないからかもしれない。心を閉じ込めてしまいたくなっても、彼が泉に入るだけで、認めたくはないが心が軽くなるのだ。
それがなくなってしまっただけで、鈍い痛みは日に日に重さを増し、泥のように沈殿していくかのよう。
それでも、心を放棄する事はできても、壊れる事ができないのが私のしぶとい所。けれど、それでいい。
壊れてしまったら、この痛みすらも感じなくなるだろうから。
今日も、泉の様子は変わらない。清らかな空気、緩やかに流れる時間。ドロドロと澱んでいる私には不釣合な、美しい世界。
この美しい世界に私がいてしまう事の違和感が、より虚しさを際立てていた。
今日も思いっきりジメジメウジウジしていようと、小屋にもたれて浸っている時に、ヤツはやって来た。
「やあ、愛しの女神様。俺に会えなくて寂しかった?」
飄々とした腹の立つ態度と、白々しいセリフは相変わらずで、いつもなら毒の一つでも吐く所なのだけれど、今の私にはとても――眩く見えてしまった。
……オデットかもしれない効果だろうか。恐ろしい……。
「あれ? なんか、いつもと様子が違うな? どうかした?」
『……何も無いわ。それより、その大荷物どうしたの?』
彼は台車を引いて来ており、その上には大きな箱が幾つも積み重なっていた。
「ああ、これとこれとこれが服だろ? で、こっちが美容道具。それからこれは……」
『そんな事聞いてないわ。なぜ、そんな物を持って来ているのか、と聞いているのよ』
「何……って、今日からここで暮らすために決まってるじゃないか」
胡散臭い爽やかな笑顔で言うリュカ。理解がついていかない私。
『国王になる人が……、何を、言っているの……?』
「それは、私がお話します」
後から現れたテオドールは、いつも神官服を着ていたのに、今はピッシリとした黒を基調とした礼服を着ていた。
彼が来るとは思っていなかったのか、リュカは片眉を上げ少し驚いた顔をしている。
「そこのリュカが……、先日、教皇の位を戴きました」
『は……? だって、テオドールにほぼ決まっていたんじゃないの……?』
「元々、教皇になる第一の条件は、“銀色の髪”を持つ事だったんだ。俺は、“己の役割”を果たしただけだぜ?」
台車に片肘を乗せ、肩をすくめながらいつもの皮肉っぽい笑みのまま言う。その人を食ったような態度が、テオドールの癇に障ったようで、顔つきが一気に険しくなった。
「“己の役割”を果たすと言うのなら、しっかり果たせ。教皇としての役目を全て放り投げるようにして、どうしてここで暮らすんだ」
「大事な式典には、ちゃんと顔を出すさ。それ以外はどうせ“お飾り”だ。いてもいなくても、どっちでも同じだって」
「リュカ!!」
「あ~、はいはい。うるさいな。俺、まだ取りに行く荷物あるから。じゃあな」
テオドールの引き止める声も聞かず、リュカは森の向こうに消えた。残されたテオドールは、俯いて拳を握り締めている。
『テオドール……』
声をかけると、少し顔を上げた彼の目が見えた。
――暗い、瞳。
ぞっとした。何を映しているのか分からないその暗い色は、あの夜見たものと同じもの。憎しみに狂ってしまった、王女と――、ファズルと、同じもの。
あの穏やかな目をしていたテオドールがそんな目をするなんて、一体彼らの間に何があったのだろう。
『テオドール……、何が、あったの……?』
私が背中を撫でると、暗い色はなりを潜め、翠色の瞳から一筋の涙が溢れた。
『泣かないで……。あなたが泣いてる姿なんて、見たくない……』
「申し訳ございません……。けれど……、けれどっ……!! 悔しくてっ……!!」
ぬぐっては、後から後から溢れ出る涙が、彼の心の傷の深さを表している。
「私は……、物心ついた時から、絵本の中や、聖典に描かれている女神様に思いを馳せては、この胸を高鳴らせていました。成長するにつれ、私が教皇になるのだという事が当然のようになってきて、女神様にお仕えする事ができる歓びを心の支えに、暴走する教会を私が止めるのだと……、そう決意して、今まで生きてきたのです……。それを……、リュカに、奪われたっ……!!」
『そう……。あなたの気高い志を、リュカに踏みにじられてしまった気がしたのね……。ねぇ……、それは、教皇じゃないとできない事なのかしら? 国王という立場でも、できるのではないの?』
「そうですね……。教皇の立場よりは、難しい立場にはなりますが、努力はできます。けれど……」
いつの間にか涙が止まった翠色の瞳が、私を真っ直ぐに見つめた。
「私は……、誰よりも、あなたの傍にいたかった……」
『テオドール……』
「あなたが眠りから覚まされて、初めてお目にかかれた時、私の心の全ては、あなたに奪われてしまった。例え、この想いが叶わなくとも、あなたの一番傍で、あなたに祈る事さえできれば、それだけで幸せだったのです……」
また、泣き出してしまいそうな顔になり、彼は背中を向けて俯いた。
「なんて、卑しい想いなのだろうとは思います。けれど……、教皇にさえなれば、妻など取らなくとも良かったんです……。私は……、この心にあなたがいるのに、他の女性を妻に迎えなければいけない事が、酷く不道徳な事に思えて、仕方がないのです」
やめて。そんな事、言わないで。
「心と身体が別の所にあるなんて、私には耐えられない……!!」
お願い。アレンと同じ事を言わないで。
アレンと、同じ苦しみを持たないで。
「だから、私はリュカが銀色の髪を持つから、教皇になるのは自分だと主張しだしても、それを許しませんでした!! それなのに、追い打ちをかけるかのように、あいつは言ったのです!! 『女神様の夫に選ばれた』、と!!」
『……え?』
「それは真実なのですか!? 本当に、女神様は、リュカを夫とするのですか!?」
そんな訳無い。だって、彼は私の嫌いな人種だ。あの目も、あの態度も、白々しく愛を囁く事も、腹が立って仕方がないというのに。
否定したい。けれど、それを否定してしまったら、どうなるのだろう?
一度教皇になってしまった人間を、辞めさせるなんてできるのだろうか? もし、できなかったとしたら、テオドールはこのまま国王になる。それならば、ここで否定するのは得策ではない。
テオドールは私への想いをそのままに、更には嘘をついた事で兄弟の亀裂はより深まってしまうだろう。
どう答えていいか分からず、黙ってしまっている所に、噂の最低なヤツが戻ってきてしまった。
「よお、なんか面白そうな話してるじゃないか」
「リュカ……!!」
「どうした? 女神様に告げ口でもして、慰めてもらってたのか?」
『やめなさいリュカ!!』
リュカに煽られて、テオドールは今にも殴りかかりそうな顔をしている。
『テオドール、今日はもう帰って興奮を冷ましなさい。今度、落ち着いてゆっくりと話しましょう』
「そう……、ですね……。少し……、頭を冷やします」
そう言ってからニヤニヤしているリュカを一睨みすると、テオドールはフラフラと来た道を戻って行った。
「ふう……。ねちっこいヤツだぜ、まったく」
全く悪びれもせずにそう言い放つリュカの頬に、私の水の手が激しくぶつかった。
『リュカ。あなたは今からお説教よ』