39.月の光に、あなたを想う
私は泉の中でたゆたいながら、底の方で輝く銀色の光を眺めていた。
最近は、リュカが生きているうちは帰る事を諦めている。……もし、彼がいなくなった後でも、あれがそのままかもしれないと思うとぞっとするけれど……。それはできるだけ考えないようにした。
それよりも、リュカの考えている事が全く分からない。
口では私の事を『愛しの女神様』なんて言う。けれど、その瞳には私の事を愛しいなどといった感情は全く込められていないのだ。それなのに、時折見せる私への強い執着。
一体、彼は何を考えて、何のために、私をここに縛り付けているのだろう。
上から、誰かの笑い声が聞こえた。
――殿下、いけませんっ
――いいじゃないか、ここなら誰も来ない
――ぁ、ああんっ
水面の向こうで仄かに光る月に向かって浮上する。
『あなた達!! ここでナニしてるの!?』
「き、きゃああああああ!!」
リュカの連れて来た女が、また泣きながら逃げ出した。何このデジャヴ。
女を連れて来た当の本人はというと、逃げて行った女を追いかけもせず、イタズラがバレた子供のような顔をして笑っている。
「驚いた。夜はいつも見かけないから、眠っていると思ってたのにな。失敗した」
『あなたが来たら、いつも顔を出す義理は無いわ。それより……、この前とは違う子だったけれど、まさか、いつもファズルの小屋に色んな子を連れ込んだりしていたの……?』
彼は、肯定はしていないけれど、否定もせずにニヤニヤと笑っているだけ。こいつ……、絶対連れ込んでる!!
『帰りなさい!! またその小屋でそんな事をしようとしたら、許さないわよ!!』
悪びれもせず、ニヤつく顔はそのままに彼は肩をすくめて、手をヒラヒラとさせて去って行った。
小屋のシーツが綺麗に整えられていたのは、あいつが使うためだった。ファズルが眠っていたベッドで……、あいつは、女を抱いていた。ファズルが暮らしていた小屋を……、まるでラブホテルのように使っていたのだ……!!
許せない!! 仮にも“神の獣”と呼ばれていたファズルが住んでいた部屋で、なんて厚顔なヤツなのだろう。いや、あいつの信仰心の浅さなんて、そんな事はどうでもいい。ただ、ファズル以外の人間が我が物顔であそこを使っていた事が、どうしようもないほどに腹が立つ。
あそこは、ファズルの小屋だ。ファズルのための、小屋なのだ。
薬指にはめている銀の指輪を、ギュッと握り締める。
会いたい。ファズル……、会いたい……!!
「女神様……? どうなされたのですか……?」
指輪を抱くように蹲っていると、背後から柔らかな声がした。
『テオドール? ……こんな夜更けにどうしたの?』
「あ、申し訳ございません、女神様と我が王家の関わりをもっと知りたくて……。それよりも女神様、どこかお加減がよろしくないのですか……?」
座っている私の目線よりも低い位置に来て、テオドールは私の様子を心配するように覗き込む。
アレンと同じ翠色の瞳が、私を見つめている。
泣き出してしまいそうな心は、私に声を失わせる。何も言えなくて、ただ黙って私は俯いた。
「め、女神様……!? ど、ど、どうなさったのです!?」
なぜか彼が泣きそうになっている。
アレンが子供だった頃を思い出す。彼も、仮病を使った私を心配して、泣きそうになっていた。とても、純粋で、優しい人だった。……本当に、泣きたいくらいにアレンにそっくりだ。
私は少し笑って、なんでもない、と手を振る。
彼の目線は、その振った手にはめている指輪を追った。
「その……指輪……」
『これ……? これは、あなたのご先祖様に貰ったものよ』
そう言うが、彼は聞こえていないかのように、ただジッと指輪を見つめていた。
『……テオドール?』
「あ、申し訳ございません、エビュールの遺産がここに眠っていたのかと思うと、感慨深くて、つい……。失礼致しました」
恥ずかしそうに笑うテオドール。人の話が聞こえなくなるくらい夢中になるなんて……、もしかして歴史オタクなのだろうか。私と王家の関わりが知りたいと言っていたし。
『気にしなくていいわ。それよりも、リュカの事なんだけれど……。もう、ここに来ないように言ってくれる?』
「えっ……。しかし……、日課として、泉で水浴びをしなければ……」
『その理由は知っている?』
「いえ……」
『そう……、やっぱりオデットの日記をあまり見ていないのね。そうね……、あなたになら言っていいかもしれない。でも、今から話す事は、私の……この泉の命取りになる話だから、誰にも言わないと誓ってくれる? オデットの日記も、王族以外には絶対に見せないように厳守して欲しいの』
神妙な顔をして頷く彼を見て、私は話を続ける。
『あなた達が“奇跡の夜”と呼んでいるあの夜。私は、この地に滲んだ“穢れ”をこの身に吸い込む事によって、この地を救ったの。“穢れ”とは、血に宿っている“負”の感情。憎しみだったり、絶望だったり……、そんなよくない感情の事。それは、私にとって劇薬なの。そんな劇薬を吸い取った私は、あなたも知っているようにいつ目覚めるか分からない眠りにつき、そしてこの泉は赤黒く濁ってしまった』
「そういえば……私が幼少の頃、少し濁っていたように思います……」
『じゃあ、綺麗になったのは本当につい最近なのね。なぜ泉が綺麗になったのか分かる?』
「教皇代理としては、私達の祈りが通じた……、と言いたい所ですが」
『遠からず、近からずね。オデットの願いが私をここに戻らせてくれた。“王族”は私達……この泉を癒す力を持つの』
「泉を癒す……?」
『そうよ。教会のおじいちゃん達が来た時は適当な事を言ったけれど、本当はもっとちゃんとした理由があるの。私は、実体を持たない。それは、心が剥き出しの状態だという事。それは、良い感情も悪い感情も、必要以上に感じてしまうという事。だから、悪意を持つ人間には近づいて欲しくないの』
「それは……考えている事が分かる、という事でしょうか?」
『ふふ、怖がらなくていいわよ。考えてる事が分かる訳じゃないわ。漠然とした感情が分かるだけよ。それに、なぜかあなた達王族の感情は滅多な事では分からないの。不思議な事だけれどね。それだけじゃないわ。さっきも言ったけれど、あなた達には私を癒す力があるの。心を癒す力が』
「私達に、そんな力が……」
信じられないといった風に、テオドールは呆然としている。“お飾り”であった彼は、無力なだけの存在だと自分を卑下していたのかもしれない。そうだったのなら、今話している事が少しでも自信がつく事に繋がればいいと思う。
『どういう仕組みなのかは私にも分からないし、意識して使える力でも無い。けれど、力を持っている事は確かなの。銀色の髪を持つ人間はその力が特に強くてね、だからオデットは銀色の髪を持つ事を教皇になるための第一条件とし、泉に入る事を日課としたの。その全ては、泉を元に戻すために……。死と同等の眠りについていた私を、癒すために』
「そう……だったのですか……。私は、泉に浸りながら祈る事で、女神様のお力になれるのだと聞かされていました……」
『ふふ、まあ、似たようなものね。だからね、私がここにいるという事は、もう泉に入らなくてもいいという事なの。今まで、ありがとう』
「いえ、私はほぼ入った事がありませんので……。そういう事ならば、体調の事など気にせず入るべきでした……。とても、悔やまれます……」
『ふふ、バカね。そんな無理して体調くずされるなんて嫌だわ。私に罪悪感を持たせるつもり?』
「あなたは……本当に、慈悲深いお方ですね」
月の光が、彼の微笑みを浮かび上がらせる。柔らかいと感じたのは月の光なのか、それとも彼の微笑みなのか。揺れる心では冷静に考えられなかった。
恐れ多い事ですが……、と彼は切り出し、とても恥ずかしそうに言う。
「お手を、とらせて頂いても……、よろしいでしょうか?」
私は微笑んで、彼に手を差し出す。それを彼はとり、私を立たせて自分の胸の前に持っていく。そして両手で包み込むように持ち、まるで壊れ物を扱うように、大切そうに撫でた。
「女神様は……、不思議な方ですね。その存在は高貴にて神秘であるはずなのに、私にはまるで普通の女性のように感じてしまいます」
まあ……、元が普通の人間だからね。オデットにもよく「俗っぽい」と言われていたっけ。
それよりも、なんだかよくない流れのような気がする……。
「だからでしょうか……、私の中で、許されざる炎が灯ってしまいそうになります」
先ほどの恥じらいが嘘のように、今は何かを求めるような眼差しで私を見つめる。
翠色の瞳が、私の心を揺らす。やはり、あなたはアレンなの? ファズルとして生を終えてもなお、私を求めて生まれてきたの?
でも……、テオドールには何も感じない。ファズルに会った時のような、これはアレンだという確信を持てない。
それじゃあ、この心の揺れは何なのだろう。彼がアレンの顔でそんな事を言うからだろうか。それとも、やはりアレンなのだと無意識に感じているのだろうか。
分からない……、分からないけれど……。
『許されないと自覚しているのなら、そのまま消してしまいなさい』
握られていた手を引き抜き、私は冷たく言い放つ。彼は痛みをこらえるように顔を歪ませ、私に跪く。
「……女神様に対して、大変失礼致しました。いかような罰をも……」
『いいから、もう帰りなさい』
突き放すように言えば、彼は何かを言いたそうにしていたが、それでも口を開かず一礼をしてから去って行った。
許されないと自覚しているのなら、私に想いを寄せる事で生じる不利益が何かあるという事。彼がどんな責任を背負っているのかは知らないけれど、決して軽くは無いはずだ。
アレンとアドリエンヌの事を思う。私が、もう少し強くアレンを突き放していれば、綺麗に私への想いを捨てられたかもしれない。そうすれば、彼は死に際に私の元を訪れる事もなく、アドリエンヌも哀しい死を迎える事はなかったはずだ。
だから、テオドールが本当にアレンであったとしても、彼に憎まれたとしても、私は彼を突き放す。もう、アレンの時のような哀しい事を起こさせないために。
ぐらぐらと、泉に浮かぶ月が歪む。
……さざめく心が煩わしい。
しばらく帰れないのなら、もう一度心を泉に閉じ込めてしまうのもいいかもしれない。