35.水面の向こう側、知らない世界
――笑い声が聞こえる。
誰? まだ眠たいの……。静かにして……。
――……メよ……うふふっ
――い……だろ……誰……来な……
――あんっ
一気に覚醒した。
澄んだ水の向こうでゆらゆらと光る太陽に向かって浮上する。
『うるさい!! ここでナニしてるの!?』
勢いよく外に出ると、見たことのない男と女が呆然としていた。男の方は銀色の髪をしている。あれ、こんな子王族にいたっけ? と首を傾げてみるも、思い出せない。ふと、彼らがいる場所に気がつく。
彼らは服を乱しながら、ファズルの小屋の扉に手をかけている。
『あなたたち……。誰に断って、そこに入ろうとしているの……?』
「き、きゃぁぁぁぁぁ!! 化け物ぉぉぉぉぉぉ!!」
低く、不機嫌さを隠さない“声”で凄んでやると、女の方は転びながらも、ものすごい速さで逃げていった。……そんな、泣き叫びながら逃げなくても、取って食やしないのに。ちょっと傷つく。
「……あ」
震える声を出したのは、銀髪の男の方。そんな震えるほど怖いなら、さっさと逃げればいいのに。……自分で言って傷ついた。
「泉の……女神?」
『……は? 女神?』
「女神ディーナじゃ、ない、のか……?」
『ディーナは確かに私だけど……、どうして私の名前を……?』
それは、ファズルしか呼ばない名前。その名前を知っているオデットやコンラッドでさえ、私のことを“精霊様”と呼ぶのに……。
あれ、ちょっと待って。
その前に、私、どうしてここにいるのだろう。
私、消えたはずじゃ……。
混乱する頭のまま、周りを見渡す。
いつも変わらずある青い空。太陽の光を受けて瑞々しく揺れる木々。そして、鏡のように光る美しい泉。
……あれ? どうして、こんなに綺麗なの? いや、綺麗なのはいいことだけど……。あれ? 赤黒く変色してなかったっけ? え? あれ?
更に周囲を探ってみると、森の外に大勢の人の気配を感じる。それは、森を囲むように広がっていた。
え? 何コレ? え? まさか、また攻められてきているの? でも、そんな気配ではなくて、普通に生活しているような喧騒が聞こえる。……え?
男の服装は、よく見ると私の知る彼らが着ていたものと似ているけれど少し違う。例えるならば、かぼちゃパンツだった王子様が、タキシードになりました、って感じにスマートになっている。
……? もしかして、よく似ているけれど、またあそことは違う世界に来てしまったのだろうか?
『ねぇ、ここ、どこ?』
銀髪の男に問いかけ、彼の方を向く。……んん? ちょっと近すぎない? というより、いつの間にこんなに距離を詰めて……、って……、何腰に手を回してるの?
「どこって……、ここは“エビュマーニュ”ですよ。愛しの女神様」
彼はそう言って艶やかに微笑むと、笑みを作ったその唇を私の唇に押し付けた。
…………?
………………ぅわっ!! びっくりした!! 私キスされてる!!
パシャンッ、と音を立てて、私は彼の腕から逃げるために、人の形を崩して水の粒になる。体重をかけていた私の身体がなくなったことでたたらを踏んだ彼の背後に回り込み、人の姿になったその足で彼を蹴り倒し、そのまま背中を踏む。
『私、顔がちょっといいからって、何をしても許されると思ってるオツム軽い男は嫌いなの』
彼はこちらを振り向こうともがいているが、“泉の精”である私に敵うはずがない。結構強めに踏んでいるので、苦しそうに顔を歪めている。
……イケメンは、苦しんでてもイケメンね。なんだか悔しいので、持ち上げて泉に放り込んだ。けれど、大きな音を立てて泉に落ち、顔を出した彼を見て後悔した。……水もしたたるイイ男? ムカつく!!
一人、心の中で地団駄を踏んでいると、彼は濡れた髪を掻き上げ、濡れたことで色気を増した唇の端を上げ、怪しげに笑う。
「そうか、“泉の女神”だもんな。泉に入れて、人間と身体を重ねる……ということ?」
ヤダ!! こいつ気持ち悪い!!
間違った解釈をそこまで自信満々にどや顔で言われても!! ムリムリムリ!! こういうタイプほんっとムリ!!
「毎日、ここで水浴びしてたってことは、俺は毎日女神様と身体を重ねてたってことだな……ふふ」
『ムリ!! ホント気持ち悪いから、もう帰って!!』
私の叫びに、動物たちが唸りながらやってくる。その中の熊が彼を持ち上げ、そのまま森の外へと連れていく。
「ははは!! 俺の女神様は恥ずかしがり屋さんだなぁ!! また明日来るよー……」
遠ざかっていく彼と一緒に、気持ち悪いセリフも一緒に遠ざかっていく……。
え? また明日も来るの? ムリムリムリ!! 助けて!! オデット!! ファズル!!
心の中で助けを呼び、必死に彼らの気配を探すけれど、ファズルも、オデットも、セルジュも、オレリアも、私の知る人間の気配は一人として見つからない。
嫌な予感が心に広がる。
赤黒く濁っていたはずの泉を見る。それから、森の周囲の多過ぎる気配に意識を向ける。
最後に、ファズルの小屋を見る。
建ててから十数年経ってはいたが、まだまだ家としては新しく、木でできた小綺麗な小屋……だったはずなのに、一体何十年経ったのかというほどにしなびれていて、何度も修繕した後があり、ギリギリ雨風をしのげる程度のボロボロの小屋になっていた……。
恐る恐る、小屋の扉を開ける。
ギ、ギギッ……。建て付けが悪くなった扉の嫌な音が響いた。
入ってすぐ、簡単な料理ができるくらいの台所がある。何年も使われてなさそうなそこは、所々埃が溜まっている。
奥には、小さな小屋には不釣合な大きなベッドがある。台所は埃っぽかったのに、それは綺麗に整えられていた。
それは、ファズルが暮らしている時には考えられないほどに。
毎日洗濯していても、ファズルの毛だらけだったシーツ。今は、白銀の毛など一本も見当たらない。
この家を包む雰囲気は、主を失った家そのものだった……。
以前、オデットに泣きながら怒られた時に、泉の中で眠っていた時間は五ヶ月だった。今回は、一体どれほどの時間が経ったのだろう。
それはきっと、人が生を終わらせてしまうほどの長い、長い時間だったのだろう。
浦島太郎になった気分だった。いや、まだそれよりマシか。玉手箱なんてないし、この水の身体では歳をとることなんてないし。でも、元の世界に戻ったら、すごいシワクチャになってるかも……はは。
ファズル……私、戻って来たよ。存在そのものが消えて、もしあなたがまた生まれ変わって私を探したとしても、もう二度と会えないと思っていたけれど……。私、戻って来れた。
それなのに……、ファズル……、オデット……。もう、どこにもいないの? もう……、会えないの?
『ぁあ、ああああああああ!!』
涙なんて出ない。けれど、叫ばずにはいられなかった。
最初に、彼らを置いていったのは私。これも、因果応報なのだというのだろうか。
アレンの時は、私の心はまだ遠い場所にあって、どこか遠い世界のことのように感じていた。だから、浅はかな私は軽く考えていたのだ。私がいなくなっても、彼らはきっとすぐに目の前にある生を謳歌できるだろうと。
穢れを連れていなくなってしまうことに、彼らを置いていってしまうことに申し訳なく思っていたけれど、それでも、私は“置いていかれる側”の気持ちを軽く考えていた。
こんなに、切り裂かれるような思いをするなんて。
この痛みを、彼らに与えてしまったのかと想像するだけで、消えてしまいたくなる。
どうして、私はまだ生きてしまっているのだろう。あのまま、消えてしまえたらよかったのに。
せめて、涙を流すことができればいいのに。この水の身体では涙なんて出ない。もう、私の代わりに泣いてくれる人もいない。
そうだ、もう、誰もいない。
もう、ここにいる理由なんて、ない。
帰ろう、私は、私の世界に。