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33.穢れた獣

 

 オデットは言った。『一人生き残っても何の意味も無い』と。それは私にも言える事。いや、私にこそ言える事だ。

 いつだって元の世界に戻れるのに、何故まだここにいるのか。彼女を、彼らを、私の大切な人達を守りたいからではないのか。

 武闘の心得があるといっても、ゴリュール人に比べれば非力なのにも関わらず、オデットは守りたいモノのために行ってしまった。


 それなら、私は?


 私は、本当に何もできないのだろうか?

 人間のように傷つく肉体は無い。けれど、血に触れるのが怖い。『泉の精』の本能のようなものが、血に触れるなと訴えかける。

 この世界にいられなくなるだけならいい。遅かれ早かれ帰るつもりでいたのだから。けれど。

 もし、魂ごと消えてしまったら……?

 私の存在は真の意味で消滅する。運よく泉の精になる事もなく、元の世界に帰れる訳でもなく、どこにあるのか分からない天国に行ける訳でもなく、消滅する。

 それは漠然とした無の世界。

 底の知れない恐怖が私を支配する。


 それでも。


 会いたい。

 ファズルに、会いたい。


 見た事も、会った事も無い国民達のために命はかけられない。けれど、ファズルや、オデット達を見殺しにして得る未来なんて、何の価値があるだろう。


 泉の中から、優しい意思達が必死に私を止める声が聞こえる。

 ありがとう。でも、ごめんね。私は行くわ。

 私が消滅する事より、ファズルを失って生きていく事の方が怖い。大切な人達を守れない事の方が辛い。だから、私は行く。

 今ならオデットの言った言葉の意味がよく分かる。私は死にに行くんじゃない。


 守るために、行くのだ。


 数十年、一度も離れた事がない泉に背を向ける。すると、酷い虚脱感に襲われた。泉に潜む優しい意思達とのリンクを切ったからだ。私のワガママで彼らを道連れにはできない。だから、彼らとの繋がりをなくし、私という完全な個になった。つまりもう泉の精ではなくなって、行使できる力が激減したという事。

 それでも、私は行く。全てを守れなくても、たった一人だけでも守るために。


 私は移動するために人型であった形をなくし、地面に溶け込んだ。城へと繋がる水脈を見つけ、それを辿る。思ったよりも早く着けそうだと逸る気持ちをそのままに急いでいると、不意に何かが私の意識に触れた。同時に襲う激しい“痛み”。

 ――“血の穢れ”だ。

 悲鳴すら上げられないほどの激痛が私を襲う。肉体的ではない痛みは、私の精神を乱し、狂わせようとする。しかし、こんな所で消えてしまう訳にはいかない。ただファズルの元へ行きたいという想いだけで、私は意識を立て直した。

 少しの量だったけれど、こんな地下水脈にまで血が流れ込んでいるなんて、城では一体どれほどの血が流れているのだろうか。

 ああ、ファズル。どうか無事でいて。


 城に近づくにつれて血の穢れが濃くなり、水脈にはいられなくなった。穢れに触れないように慎重に土のなかを移動し、ようやく出れた先はオデット専用のあの逢引用庭園だった。

 彼方此方で上がる火の手が庭園を赤く照らし、遠くの方から怒号や悲鳴が聞こえてくる。漂ってくる血の匂いと、花の匂いが入り混じり、私の意識を混濁させる。

 早く、ファズルを探さないと。焦るけれど、穢れが充満したこの場ではうまく力が入らず、倒れ込んでしまった。


「あら、どうなさったの? あなた……、精霊様ね?」


 聞こえてきたのは、殺伐とした場には不釣合なのびやかで愉快げな声だった。

 後ろを振り向くと、そこにはファズルとこの庭園で抱き合っていた、赤毛の可愛らしいゴリュールの王女がたおやかな笑みで座っていた。その、腕の中には、


『ファズル……!!』


 その銀の体躯には矢が数本刺さっており、力なくぐったりとしている愛しい人の姿。その血で赤く染まる姿を見て、混濁していた意識が浮上する。


「あら、ダメよ、こちらにいらっしゃらないで」


 駆け寄ろうとすれば、王女は短剣をファズルの首元にあてた。それは、近寄ると刺すという事だろうか。


『あなた……。どうしてそんな事するの? ファズルの事が好きなのではないの?』


「ええ、そうよ。とてもとても愛しているわ」


『それなら、どうして!! ファズルを傷つけるの!?』


「傷つけられたのは、わたくしの方」


 王女は、一転してその笑みを醜悪なものにした。どこかで見た事のあるその暗い瞳に、腹部が疼いた気がした。


「わたくしが、こんなに、こんなに愛しているのに、どうして他の女を愛しているの? どうしてわたくしを愛してくださらないの? わたくしの何がいけないの? いいえ、わたくしは何も悪くない。悪いのは、わたくしの想いを裏切るこの人」


 口元は確かに笑っているのに、その顔には何の色も映していない。その瞳は確かに私に向けられているのに、私を映していない。

 これは、一体“何”なのだろう。私の目の前にいるのは、生き物なのだろうか。

 私には、深い、深い、底の見えない暗い穴に見えた。


「だから、わたくしは許さない。この人も、わたくし達を引き裂こうとするこの国も……、勿論、あなたも」


 穴から、手が伸びてくる。

 引き摺り込もうと、私達に手を伸ばしている。



 呑み、込まれる――。



「ぁ゛、あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!」


 叫んだのは、王女。

 彼女の叫び声で、呑み込まれそうになっていた意識を取り戻す。唐突な叫びに、何が起こったのか驚き見ると、彼女は左手で右肩を押さえて蹲っていた。足元には、赤い水溜まりが広がっている。

 そんな彼女の横で、ファズルがおぼつかない足取りながらも立っていた。

 口には、王女のものであろう腕をくわえて。


『ファズル!! ダメよ!! 早く“それ”を放して!!』


 彼にそんな残酷な事して欲しくないだとか、非力であろう王女になんて事をだとか、考える事は色々あったはずなのに、彼が引きちぎったところから流れる血を見た途端、そんな事はどうでもよくなった。

 優しい意思達の悲痛な叫びが聞こえた。繋がりをなくしたはずなのになお聞こえてくるその叫びが、いかにその血がおぞましいほどの負の感情が込められているのかを分からせる。

 その血に触れて欲しくなかった。そんな血で、穢れて欲しくなかった。

 私の声にファズルは腕を投げ捨て、私を庇うように前に立った。それから威嚇の声を唸らせながら憎々しげに王女を見据える。


「ふふ、ふふふふふ。驚いた。まだ、動ける、のね」


 痛みで声を詰まらせながらも、彼女は笑う。


「この、命が果てよう、とも、お前だけ、は、許さ、ない」


 朦朧としながらも、ファズルの王女を見る目は、憎悪の色で染まっていた。

 血で浴びてもその目の輝きを失わなかった彼がそんな目をする事に戸惑いを覚えつつも、私は彼の首に抱きついて止める。


『ダメよ。彼女の血に触れないで』


「ディーナ!! 止めないでくれ!! こいつのせいで……!! こいつのせいで、コンラッドが……!! 僕の子供達が、民達の命がっ……!!」


『子供達……? あなた、記憶が……? いえ、それよりも……。コンラッドが、なんだって言うの……?』


 嫌な予感に心がさざめき立つ。

 ファズルは何も答えず、ただ一粒の涙を零した。

 それが、何よりの答え。


 コンラッドが、その命を散らしてしまった。


「ふふ、あはは。あはははははは」


 哀しみに沈む暇もくれず、王女は高笑いをする。


「可哀想に。死んでいった方達は、“あなたがここにいたせい”で、巻き添えになってしまって、可哀想」


 なんて人だろう。そんな事を言ってしまったら、純粋すぎる彼は真に受けてしまうではないか。

 私の予想を裏切らず、彼は目に見えて動揺している。


「ディーナ……。僕、は……」


『王女の言葉に耳を傾けてはダメよ。あなたは何も悪くない。こんな状況になっているのも……、色んな人の命が奪われてしまったのも、全てゴリュールのせい。あなたは、ただ守っただけ。大切なものを守りたかっただけ。そんな気持ちが、間違いな訳ない』


「でも、守れなかった……!! 僕が愛し、守りたかったこの国を、民達を……!! 僕がいたせいで、僕自身のせいで!! 僕が……、僕が、災いを呼んでしまった……!!」


 災い。そうだ。きっと、彼女は、人の形をした“災い”。

 それには“心”などなく、ただ不幸をばら蒔くだけ。

 そんなものがどうして私達の前に現れたのか。理由などなく、天災のように避けられないものなのか。


「僕が……僕が、呼んでしまったのなら……、僕の手で、葬らなければ……!!」


『ダメ!! ファズル!!』


 牙を剥いて、ファズルは王女に飛びかかった。

 ファズルが、“穢れ”に触れてしまう……!!

 彼を止めるために、この庭園にある植物の蔦を操ろうとしたが、植物たちは火の煽りを受けてゆらゆらと揺れているだけだった。

 そうだ、私はもう“泉の精”ではなくなったのだ。この水の身体が届く範囲でしか、“力”が使えない。

 ファズルを止めようと手を伸ばす。けれど、手を伸ばした時には既に彼の牙は、王女の首に深く食い込んでいて――


 どさり。


 首が半分なくなった王女が、地に伏せる。

 まだ息はあるらしく、口元は笑みを作ったまま、言葉にならない声を、ひゅーひゅーと出している。

 それを、ファズルは憎悪で染まっているけれど、どこか冷めた瞳で見下ろしている。

 ファズルが、口元と同じように赤く染まった腕を振り上げた。

 王女の口が、動いた。


 ―― ま だ 終 わ ら な い


 血に濡れた獣の腕が、王女の頭を押しつぶした。


 オオオオォォォォォォ……ン!!


 獣が吠える。

 おぞましい“穢れ”をその牙に、その爪に、輝いていた白銀の毛に濡れさせて。

 彼そのものが、“穢れ”になったかのように、咆哮した。


 綺麗な涙を流す彼は、今は血の涙を流していた――。

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