3.『誓い』
「ディーナ! これあげる!」
嬉しそうにそう言って、彼は私の透明な頭に花冠を乗せた。
ディーナという名前は彼が私につけてくれた名前。前の名前は忌まわしい記憶と共に捨ててしまった。
『ありがとう。とても嬉しいわ』
そう言って微笑むと、彼は丸くて柔らかそうな頬っぺをりんごのようにさせて嬉しそうに笑った。なんて可愛らしいのだろう。きっと私が彼の初恋の人になるのだろう。役得だ。
彼――アレンは、あの日から頻繁にここに来るようになった。王子様らしいので、さすがに毎日通う事はできないようだが、隙あらば抜け出してきているらしい。
アレンは、私が守るこの森の真ん中に位置する小さな国の王子様。森の真ん中にあるのだから、必然的に私がその国も守っている事になる。何代か前の泉の精と、初代の王様が契約をしたらしい。外敵から国を守ると。
その話は国では当たり前らしく、国の民は皆泉の精と森を敬い生きているらしい。しかし、泉には王家にしか立ち入る事が許されず、一般の民には場所すら知らされていない。なぜなら、契約には『邪なる者を近付けさせるな』という泉の精の要望があるからだ。不特定多数の人間が訪れる事ができてしまうようになれば、その中に邪な気持ちを持つ人間がいては困るし管理ができない。
王家では、齢五歳になったら泉の精に会い、認めて貰わなければならないというしきたりがある。アレンはしきたり通りに泉に来たものの、どこに泉の精がいるのか分からずに泉の周りをウロウロしていたら、うっかり足を滑らせて泉に落ちたという……なんというアホの子。だが、それがいい。アレンを見てると私のS心が疼いて仕方がない。
彼が来るようになって気づいた事がある。人間をやめた私でも『心』があるという事。けれど、人間でない私は子孫を残す為の本能が無いからか、あれだけ有り余っていた性欲が皆無だという事。そういう事に関係しているのか知らないが、感情が希薄になった事だ。
アレンを可愛い、いじめたいという気持ちはあるけれども、何か膜を張ったような、どこか遠くから見ているような、言うなれば人事のように感じてしまうのだ。
けれど、それを哀しいと感じる事はなく、ふわふわ、ゆらゆらと、常に穏やかな気持ちでいる。
本当に人間をやめる事ができて良かったと思う。煩わしい思いをする事もなく、こんな可愛い子に懐かれて、穏やかな気持ちでいられる……。ここは天国かと思うくらいに素晴らしい世界だ。
はっ。本当に天国じゃないだろうか。だって、私は刺されて、頭を打ち付けて、あの世へ真っしぐらだったのだから。
もしくは、どこぞの猫型ロボット漫画の都市伝説として知られる最終回のように、全ては植物人間になってしまった主人公の夢オチでした~なんて、欝展開ではないだろうか。さすがにそれは泣ける。感情の薄くなってしまった私でも、そんな欝展開は有るのか無いのか分からない背筋が冷える思いだ。
私がちょっと泣きそうな顔になっていたからだろうか。アレンが心配そうな顔で私を覗きこんでいた。
「どうしたの? どこか痛いの?」
この全身水でできた身体のどこに痛覚があると言うのか。
しかし、イタズラ心でお腹に手をあてて、『お腹……、お腹がぁぁぁ……!! し、死ぬぅぅぅ!!』と大袈裟にごろんごろんと転げ回ってみる。目論見通り、アレンは涙目になりながらオロオロしている。ああ、その困った顔がまた可愛らしい。
そして、「痛いの、痛いの、とんでけ~!!」と真剣にやるのだ。たまらず吹き出してしまった私を見て、騙された事を悟りショックを受けた顔をしている。ふふ、そうやって人は大人になっていくのよ。
「ディーナ嫌い!!」
頬をふくらませてぷいっとそっぽを向いてしまうが、私にそんな攻撃はきかない。ただ可愛いだけだ。
私はそっぽ向いてしまった彼を背中から抱きしめて言う。
『私は好きよ』
「ボクは嫌い!」
『でも、私は好き』
何度か同じ事を繰り返した後、彼は黙ってしまった。不思議に思っていると、急にこちらに向き直り、私のお腹らへんに顔を埋めてボソっと言った。
「じゃあ、ボクのお嫁さんになって……」
そうきたか! これはマズい。子供だからと言って侮る事なかれ。軽くいいよって言ってしまったら、真に受けて大きくなっても一途に想い続ける人間も稀にいるのだ。
この子は特にダメだ。一応、将来国王となるのだから、こんな人外生物に心惑わされてはいけない。
『私はダメよ。お嫁さんにはなれないわ』
「どうして!? 好きだって言ったじゃない! ウソだったの!?」
『いいえ、嘘じゃないわ。でも、私はダメ。生殖機能が無いもの』
「せいしょ……?」
『つまり、私は人間では無いから子供を産めないの。アレンは大人になったら王様になるでしょう? 王様は子孫を残す事もお仕事なのよ。だから、私はお嫁さんになれないの』
アレンは傷付いたような顔をして、何かを言おうと口をパクパクさせた。けれど、幼い彼にはまだ、複雑な気持ちを言葉にする術は持たないらしい。
私はそんな彼の頬を両手で包んで、額に口付けした。
『私の可愛い王子様。あなたのお嫁さんにはなれないけれど、私はあなたの側にずっといるわ』
そう言って微笑むと、彼は泣きそうな顔をして、何も言わずに走り去って行った。
……可哀想に。人間であるが故に恋をする。そして恋に破れて哀しい思いをしなくてはならないんだわ。
この時の私はまだ、彼を、そして人間を、本当に哀れに思っていた。
アレンが来たのはあれから太陽と月が入れ代わるのを八回見た後だった。その時の彼の顔はまだ五歳だと言うのに、少し大人びた顔をしていた。
「ディーナ、ボクは立派な国王になる」
彼の手には王家の紋章がついた銀の指輪。それを私に差し出した。
「ボクはいつか人間の女の人と結婚して、いっぱい子供を作る。このからだは国のために捧げる。でも、心はディーナにあげる」
驚いた。これが五歳の子が言う台詞だろうか。私が人間だったら、うっかりショタの道に走っていたかもしれない。それだけ可愛らしい容姿に不釣合な大人びた雰囲気が魅力的だった。
『この指輪は……、王家の婚姻の儀に使う大切な指輪よね? 持ち出したら怒られるんじゃない?』
「だいじょうぶ! ボクが王になるんだ! つまりはボクが法だよ!」
無いはずの血の気が引いた気がした。いつかどこかで同じような台詞を聞いた事があるからだ。
それは人間だった頃の話。
私に煩わしい思いをさせた彼が仕事中に、あまりにも不自然に私と二人だけで進める仕事を作った為に周りから不興を買ったのだ。「オレ達もなみちゃんと二人だけになりたい!」と言ったふざけた感じではあったけれども。それに対し、うちの課の責任者である彼が言った台詞が……
「うるさい! 誰と誰がどんな仕事をするのかはオレが決める!! うちではオレが法律だ!!」
……である。普通、そんな事を言ったら信用はガタ落ちしそうなものだけれども、不思議と彼を慕う人間は多かった。
過去に気をとられているうちに、いつの間にか私の水でできた手に指輪が握らされていた。
「これはボクの『誓いの証し』だよ。ボクが結婚しても、死んでも、生まれ変わっても、ずっとボクの心はディーナと一緒にいるっていう証し。大切にしてね?」
私は曖昧に微笑むしかできなかった。
そういう気持ちが煩わしかったから、人間をやめたいと願ったのに、その煩わしい気持ちを他者から……、それも自分が可愛がっていた子供から向けられるなんて、どうすればいいのか困ったのだ。
なんとも思っていない人間だったら、酷い言葉で突き放す事なんていくらでもできるのに。
そんな事を思って、自分の気持ちが不思議になった。どうして、なんとも思っていなかったら酷い言葉を言えるのだろう。逆に、この子にどうして酷い言葉を言えないのだろう。
突き放して、嫌われてしまっても、この子がもうここに来なくなるだけだ。別にそれでもいいじゃないか。好きとか嫌いとか、面倒臭い。私は心静かにここにいたいだけ。
「ディーナ……、イヤなの……? やっぱりボクのこときらい……?」
指輪を返そうとアレンの方を向けば、彼は泣きそうな顔をしていた。
嫌い、その言葉を言おうとしたのに、私から出た言葉は全く逆のものだった。
『嫌いなわけないわ。ありがとう、大切にするわね』
嫌われたくない。アレンの心を傷付けたくないというよりも、アレンに嫌われたくないと、そう、思ってしまった。
この気持ちは、人間の時の名残なのだろうか。これは独占欲? それとも庇護欲? なんにせよ、私はなんて浅ましいのだろう。そんなものの為にこの子の気持ちを縛り付けるような事を言ってしまった。
人間でなくなって、心が鈍くなったと言っても、やはり私は私なのか。私という意志が持つ欲は消えないという事か。
幸福な夢の時間が壊された気がした。
またいつか煩わしい思いをするのだろうかという不安を抱きつつも、それでも嬉しそうに笑うアレンを見て、私の鈍くなったはずの心は幸福感に満たされるのだった。