26.臆病な心の精一杯
火矢が一斉に森へと向かってきた。私は、高い土壁を瞬時に造りそれを防ぐ。
今のこの世界の文明では及ばない力を見せつけられても、なお彼らは攻撃を仕掛けてくる。土壁を造るために使った地面が抉れ、土壁を壊そうにも深く抉れた地面が障害になり飛び道具しか使えない。そのせいで、夜空は赤く照らされていた。
「精霊様、今はどんな感じ?」
オデットが赤く染まる不吉な夜空を不安気に眺めながら聞いてきた。
『まぁ、人数は多いけれど、今のところは余裕ね』
軽い調子で答える私に、彼女は幾分か和らいだ表情になった。それでも、油断してはいけないと緩みそうになった顔を引き締めた。
今この森の周りは、四方を四ヵ国の大軍に囲まれている。
現在戦時中の友好国の敵国は、どうやら以前からこの国を疎ましく思っていた国と同盟を組んだようだ。
今朝、夜が明ける前に攻め込んで来て今。陽が沈み、月が真上に来るまで、攻撃は止む事はなく続いていた。実に粘着質な脳筋軍団だ。
『本当にしつこいわね。いつまでいるつもりかしら? あんな稚拙な攻撃じゃ森に侵入する事はできないだろうけど、ずっと周りに居座られると困るんじゃないオデット?』
「そうね……。三ヶ月くらいは余裕だけど、それ以上は国民に我慢を強いる事になってしまうわね……」
少しの我慢だけで済めば良いけれど。もし、三ヶ月居座る事ができるのなら、こちらが飢えで滅びるまで居座る事ができるのではないだろうか。
そしてその予想は当たる事になる。
とりあえず一ヶ月様子を見るという事で、こちらからは一切攻撃はせず、ただひたすらに私が侵入を阻止した。
攻撃しないのには理由がある。大地に血を染み込ませたくないのだ。
血には、血を流したその生物の意思が宿り、大地に融け込む。そうなると、私“達”の力が及びにくくなり、それは“負”の意思が強ければ強いほど私達の力は及ばなくなる。
“負”の力とは、血を流した時の死への恐怖、他者から傷つけられた場合の相手への憎悪などの感情だ。その“負”の力は、時として私達にとって“毒”となる。
私達は安らぎを求め、見返りに優しさを世界へと流す。その正反対とも言うべき感情は、私達にとっては劇薬となってしまうのだ。
しかし、もうそんな事を言っていられる状況ではなくなってしまった。
最初の二週間で二ヵ国は引き上げて行った。このまま後の二ヵ国も近いうちに引き上げて行くだろうと安堵した二週間後、最初に引き上げて行った二ヵ国が残った二ヵ国と入れ替わりに戻って来た時には覚悟を決めざるを得なかった。
いよいよ兵糧攻めをするらしい。他国から送られて来た物資は奪われ、こちらから出向こうと出国したとしても、使者は帰って来る事はなかった。
向こうのスタミナ切れを待とうにも、二ヵ国が入れ替わりで居座るならば余程のアクシデントが起こらない限り、この状況は変わる事はないだろう。
「精霊様、出撃の許可を得に参りました」
浮いた様子が消えたコンラッドが、重々しい鎧を纏って現れた。側には、一般兵と共に戦闘訓練を受けていたファズルが胸当てを付けてコンラッドに寄り添っている。
「できるだけ遠い場所にて戦う事をお約束します」
『……それよりも、私はあなた達が傷つく事の方が嫌だわ』
ファズルが、困ったように喉を鳴らして私の手を舐めた。
「大丈夫。コンラッドには危ない事はさせないように、ちゃんと見張っておくから」
『それならファズルは? ファズルがコンラッドの代わりに危ない事するって言うの? そもそも、戦場で安全な場所なんてあるの?』
ゆっくりと、静かに言う。声帯があるならば、きっと凄く低い声が出た事だろう。
彼らを責めるような言い方に、二人は苦い顔をして無言になった。
分かってる。国を守るためには仕方の無い事だって。けれど、何も王子様直々に戦場に行かなくては良いではないか。国民のためだとか、兵の士気が云々とか、崇高な志なんてどうでもいい。そんなものでお腹がいっぱいになる訳でもないし、死んでしまえば何にもならない。
「あまり責めないであげて精霊様。コンラッドには、あくまで指揮官として前線には出ないようにキツく言い聞かせてあるから」
オデットが現れて、苦笑気味に私の手を取った。
「私だって、この子達を戦いになんて行かせたくないわ。だって、死ぬかもしれないし、誰かを手にかけるかもしれないんだもの。だけど、それでもこの子達は行くと言った。守られるより、守りたいのだと言ったの」
分かってる。二人を止めるのは私のただのワガママだって分かってる。
コンラッドにとって、国民は家族であり、守るべき存在で、ファズルにとってもコンラッドは家族で、守りたい存在。
私が彼らに行くなと言う事は、守りたいものを見殺しにしろと言っているのと同じ事。
真っ直ぐなキレイな心に、私のただのワガママが敵わないことなんて分かってる。分かっているけれど、心が追いつかない。
素直に笑顔で見送ってあげる事ができればいいのに。思い通りにいかない心がもどかしくて、私はファズルを強く抱き締める。
「ディーナ、僕を信じて。必ず無事に帰って来るから」
信じて、とか。なんて、都合の良い言葉だろう。
「だから、僕にコンラッドを守りに行かせて」
ファズルから少し離れて、抱き締めていた手を猫のような顔に添える。
覗き込んだ瞳は、一つの曇りもない宝石のようで、触れる事すら躊躇ってしまうほど、キレイだった。
傷つかないように、壊れないように、宝石箱に閉じ込めたとしても、きっと閉じ込めた方が輝きをなくしてしまうのだろう。
そっと、瞼に口付けを落とす。次に、猫のような愛らしい口にも口付ける。「精霊様、俺にも!!」と条件反射のように言うコンラッドに近付き、口付けた。
まさか本当にされると思ってなかったコンラッドは、驚きで目を丸くした後、急激に顔を真っ赤に染め、ファズルはというと白目を剥きそうなくらい放心している。
『今、口から泉の力を流したから。何かあった時には守ってくれるはず』
私の心移りではない事を知っても、ファズルは少し複雑そうな顔をしている。本当は別に口にしなくても良いのだけれど、私を心配させるのだからこれくらいのイジワルはしていいと思う。息子にチューするようなノリだし。
『早く、行きなさい』
それだけ言い捨てると、私は彼らに背を向けて泉の中へと潜った。
泉の中から水面を見上げると、ゆらゆらと揺れるファズルの顔がこちらを覗き込んで叫んでいた。
――ごめんねディーナ!! 絶対に帰ってくるから!! 心配しないで!!
謝るのは私の方。これから危険な場所へと行くのに、憂いを残したまま行かせてしまうのだから。
だけど、これが今の私の精一杯。
これ以上、顔を見ていると本当に閉じ込めてしまいそうだったから。
ごめんね、ファズル。あなたのキレイな心に釣り合わないほど、私の心は小さくて、卑怯で、臆病で。ごめんね。愛想を尽かされても仕方ない。
だけど。
どうか、私の元へ帰って来て。
二つの足音が遠ざかっていった後、白い手が泉の中に差し込まれた。
白い手の持ち主も、私と同じような不安で苦しんでいる。けれど、彼女は女王だから、表には出せずにここでしか弱音を吐けない。
それなのに、私まで弱っているから彼女は私を慰めようと手を差し伸べる。
きっと、もしファズルがこの戦いでいなくなってしまったら、また私が出てこなくなってしまうかもという不安もあるのだろう。
大丈夫。なんて、胸をはって言えはしないけれど、それでも私は白い手を握る。
大丈夫ではなくなっても、私には彼女がいるし。彼女を一人にはしないという想いを込めて。
白い手が私の手を強く握り返す。
水面の向こうの彼女が、笑った気がした。