25.安穏な日々の終わり
ファズルと共に暮らし始めてから十三年の月日が経った。
少し大きい猫のようだった彼の身体も、凄く大きい猫のようになり、愛らしくも威風堂々とした佇まいになっている。
お勉強を頑張っていてもやはりわんぱくな所は変わらないコンラッドに森中引きつられ、しょっちゅう汚れて帰って来るので、そのたびに泉で洗っていたら銀色の毛は益々なめらかに輝き、太陽や月の光の下で見る彼は神々しくすらある。
『ああ〜……。この身体では手触りを感じられないのがホント悔やまれるわ〜……』
「あはは、ディーナくすぐったいよ」
ファズルを仰向けにさせて、お腹の上に寝転がりセクハラ親父のごとく撫で回すと、彼はくすぐったそうに身をよじった。
しかし、私と密着している事が嬉しいのだろう、私を落とさないように器用にくねくねしている。可愛い。
あまりにも可愛いすぎて、胸のあたりに埋めていた顔を上へと移動させて、ちゅっ、と猫のような口に口付けた。
「……」
一瞬の沈黙の後、にへら、と彼の顔がだらしなく緩む。
キスなんて子供の頃からしているのに、嬉しそうだけどいまだに照れくさそうにモジモジする。まだ彼からしてもらった事は一度も無い。
いや、一度だけあったか。頬にだけど。すぐに離れて穴を掘り出して自ら入ったけど。純情すぎるのもたまに困りものである。絶倫アレンはどこへ行ったのだろう。
「精霊様、俺にも口付けしてください!」
「お前の顔で爪を研いでやろうかコンラッド」
一部始終を見ていたらしいコンラッドが、羨ましそうに指をくわえてこちらを見ていた。残念ながら可愛くない。図体がデカいのだ。
コンラッドは、確かまだ十五歳だったはずだが、もう百八十センチ以上はあるだろう高身長に、しょっちゅう森の中を野生児のごとく駆け回っているので筋肉もガッシリついている。
顔はほのかにアレンに似た甘い作りだが、ギラギラとしたヤンチャさが滲み出ていて、どちらかというと強面だ。なので残念ながらお嬢様方には恐がられてモテないようだ。
そんな肉食系はファズルに威嚇されながらも、まだ駄々をこねる。
「ファズルばっかりずるいぞ! 俺だって精霊様といちゃいちゃしたい!」
コンラッドは、大好きなファズルが好きなものは自分も好き、という性癖(?)がある。つまりは、ファズルの大好きな私の事が大好きで、それを恋と勘違いして言い寄って(というよりジャレついて)くるものだから、そのたびにこうやってファズルと言い争いになる。
二人の男に言い寄られて困っちゃう……というより、ママはボクの! と争う子供の喧嘩を見ているようで微笑ましい。
ここまでは、いつもと変わらない穏やかな日常だった。
しかし、それは少し沈んだ雰囲気のオデットが来たと同時に、二度と手にする事はできないほど遠い世界へと変わってしまった。
「戦争になるかもしれない」
彼女は開口一番に物騒な事を言い放った。
苦々しげに語る彼女の説明を聞いて、私はこの世界の好戦的な性質に呆れるしかなかった。
この世界は、大小様々な国が無数にあり、その中で保守的な国など数えるほどしか無い。
平和な国など、この国のように精霊の類に護られている所しかなく、それ以外は積極的に争いを仕掛けては他国を蹂躙し、蹂躙され、新しい国と消えていく国の多さから、地図など十年経てば役に立たないほどだ。
精霊に護られている国はどこも平和を望み、またそうした国だからこそ精霊に好まれるという。しかし、平和を望むからこそ国自体は大きくならず、小さな国では様々な物資の自給率は高くない。この国でも例に漏れず自給率は高くなく、他国からの援助で自国をギリギリ守っている。
そうした国を落とすのは、援助を断てば簡単な話なのだが、なぜ他国は精霊のいる国に援助するのか。
それは、この世界の性質に大きく関係する。
いつ他国から攻めいられるか分からない常に危険と隣り合わせの世界で、敗走した場合に逃げ込める安全な場所を確保しておきたいからである。
援助を受ける代わりに、もしもの時は全力で守る。それまでは勝手によそでやっていてくれと思うが、繋がりのある国が戦争を起こせば、敵国が先に逃亡先を潰しておこうと人外生物に果敢にも挑んでくる時がある。
今がまさにその状態になりそうだという。
今までの歴史の中で人外生物に人類が勝った試しが無いのに、それでも挑んでくるファイティングスピリッツは凄いと思うが、少しは学習をしろと言いたい。この世界の人間は脳筋ばかりなのか。脳筋世界。嫌すぎる。
「精霊様には申し訳無いと思うけど……。もし、そうなった時はお願いします」
あくまで“命令”ではなく“お願い”をしてくるオデット。そこには、打算も媚びもなく、純粋に嫌な役割を押し付けて申し訳無いという思いが感じとれる。
そんな人間がいる国だからこそ、私以外の人外生物達も護りたくなるのだろう。
『私だってこの国が好きなのだから護るのは当然よ。それに、私だけが頑張る訳ではないでしょう?』
私だって万能ではない。私達――この泉の中にいる意思達の力が及ぶのは、泉の水が届く範囲だけなのだ。正確には泉の水に意思が宿り、染み込ませたものを操るというものだ。人体への影響も多分その一環なのだろう。人体に良い影響を及ぼす細胞を操り活性化させているのだと思う。
逆を言えば、水が届かない所では何の力も発揮できない。周りを囲まれて、援助を受け取らせない状況になれば、国内は飢餓状態になり内側から崩壊していくだろう。まあ、その手は時間も人手もかかるので小国には無理だろう。
それでも諦めないのが脳筋世界の人間である。大打撃を受けないまでも、せこせこと地味な嫌がらせをされては生活に支障が出る時がある。そういう時には国民が動くのだ。
小さいこの国には、騎士団という戦闘に特化した存在がいる事にはいるが、軍というほど大きくはなく有事の際には一般人の中から有志を募って事に当たって貰わなければならない。
愛国心が強いこの国の人間は精一杯頑張るのだろうが、戦闘訓練を受けていない一般人ができる事には限界がある。死傷者を多く出す事を覚悟しなければいけないのだ。
「できるだけ死者を出さないように、もう既に一般兵を訓練しだしてるんだけど……。今回の相手は大国だから不安だわ……」
オデットは嘆息しながら泉に手を入れる。泉に触れていると落ち着くのだそうだ。
もう四十歳にもなる彼女は、泉の水の効果なのだろうかまだどう見ても二十代後半にしか見えず、物憂げな様子がまた妙な色気を醸し出していた。
そんな美貌の母の肩をコンラッドが抱き寄せる。
「母様、大丈夫です!! どんな大軍が来ようとも、このコンラッドがバッタバッタと薙ぎ倒してみせましょう!!」
「前線に出るなんてダメに決まってるでしょう!? 王太子としての自覚を持ちなさい!!」
脳筋代表ですと言わんばかりのコンラッドの頭を叩くオデット。王位継承権を持つ親戚は幸いにもわんさかいるが、さすがに危険な真似をしない方がいいと私も思う。
彼は私にとっても我が子のように思っているので、危ない場所に行って欲しくない。だって、無謀に突っ込んで真っ先に怪我してしまいそうだし。
けれど、彼は母のためだけに言った訳ではないようだ。
「後ろに隠れて守られているだけで何が王族でしょうか!? 民を守り、導く、それこそが王族の務めでしょう母様!?」
子供の成長は本当に驚くほど早い。つい最近まで青っぱなを垂らしながら動物の糞を棒でつついていたのに、いつの間にかアレンの想いを、オデットの気高さをその心に宿す立派な次期国王になっていた。
息子の成長に、オデットもなんと言って止めたらいいか分からず、戸惑っている。私に助言を求める視線を投げつけてくるが、私だって『王族の務め』とか言われれば何と言っていいか分からない。
「それは、僕も参加できる?」
オデットと二人で戸惑っていると、なんとファズルまでもが参加の意志を示した。
『え……、何言っているのファズル? ダメよ、行っちゃダメ』
「だって、僕は人間より速く動けるし、力も強い。きっとコンラッドを守る力になれる」
純粋な眼差しは、アレンだった頃の記憶がなくなっても変わっていない。
――ああ、私はその眼差しに恋したのだった。
私には彼を止める術が見つからない。
行かないで欲しいと思うのはただの私のエゴで、彼のコンラッドを守りたいと思う真っ直ぐな心を引き止めるのは無理だろう。
けれど、行かないで欲しい。もし何かあったらと思うと気が気じゃない。
まだ早い。いずれは死に別れる事は覚悟しているけれど、まだ早い。
もっと、抱き締めて。もっと、キスをして。もっともっと、側にいたいのに。
ああ、私が涙を流せるのなら、涙を見た彼は思いとどまってくれたかもしれないのに、なんて考える私は本当になんて浅ましいのだろうか。
「そんな顔をしないで。僕は大丈夫だから。ディーナを哀しませるような事はしないよ」
多分、情けない顔をしているであろう私の顔を、ファズルは慰めるように舐める。
「精霊様、ご安心ください! 俺が絶対ファズルを死なせませんから!」
「アンタは自分の身を一番に心配しなさい!!」
息子が戦地に行くかもしれないというのに、オデットはいつもどおりにコンラッドの頭を叩く。
彼女も心配だろうに、どうしてそんなに普通でいられるのか。女王という責任のある立場が彼女を強くさせているのだろうか。私には無理だ。
そんな葛藤を抱く私を見て彼女は苦笑する。
「まだ何も起こっていない状態で心配したって仕方ないでしょ? 戦争になるかもっていうのはただの杞憂で終わるかもしれないし、攻めてきたとしても何をどうされるのかはまだ分からないし。もし回避できないなら、被害が最小限に収まるように私も努力するし。だからそんな情けない顔しないでよ」
『そう、ね……。まだ、どうにかなるって、決まった訳じゃないものね……』
気づかわしげにこちらを見ていたファズルの背中を撫でて、微笑んでみせる。すると彼は安心したようにゴロゴロと喉を鳴らして身体をすり寄せてきた。
不安は拭いきれた訳ではない。けれど、それでファズルを不安にさせるような事もしたくなくて、私は無理矢理明るく振舞った。
どうか、平和なままでありますようにと、願いながら。
けれど、その願いは無情にも叶えられる事はなく、ひと月の後に大軍が攻めてきたのだった。