24.光に潜む、狂気の足音
ファズルがここに住むようになってから、私は満たされた日々を送っていた。
朝起きて、おはようと言う。一緒に空を見て、雲の形を何かにたとえて遊ぶ。花を眺めて綺麗だねと笑い合う。夜になると、瞬く星にファズルの幸せを願う。そして、彼が寝静まったら、私は泉の中で彼がどんな夢を見ているのかを想像する。
特別な事など無い、ささやかで穏やかな日々。
それが、彼がいるだけでどうしようもなく嬉しくて、幸せだった。
どうして、ファズルがアレンの生まれ変わりだと思ったのか。それは“勘”と言うしかない。けれど、確信。
私の心が……魂と呼ぶのかもしれない心の深い所で、ファズルがアレンの魂を持っていると告げる。
あの時、私とファズルのやりとりを横で見ていたオデットは、呆気にとられたような顔をしていた。
まぁ、そうだろう。私の『ここで一緒に住む?』という発言もそうだが、その問いに何がどうなってそうなったのか『およめさんになってくれるの?』という問いに私が快諾したのだ。
元々、この泉は神聖な場所としてこの国に在るので、王族しか侵入が許されていないのにこの国の住民ではない者が住むというのだ。大問題である。
一歩どころか数歩も引いて、ファズルがこの国の住人だとしよう。
それでも私は紛う事なきショタコンになる。
アレンがこの世を去って八年弱。ファズルがアレンの生まれ変わりで間違い無いなら、七歳以下という事になるファズル。そんな子供と結婚するだなんて、日本にいれば間違いなくお縄になるか黄色い救急車のお世話になる事だろう。この国だって、価値観はそう変わらないはずだ。
それも数万歩引いたとしよう。それでも、ファズルは“人”の形をしていない。完璧な人間であるオデットからすれば、獣と結婚だなんて考えられないのだろう。しかし、よく考えて欲しい。
そもそも私だって人間では無い。
心は人であるけれど、今の私の身体は人では無いために子孫を残すという本能が備わっていない。
恋だの愛だのという感情は、子孫を円滑に残すための本能だという考えは今でもある。しかし、そんな本能から逃れた私にはそんな話は無関係だ。
それでも、私はアレンを好きになってしまった。そして、今もその気持ちは変わらない。
それは彼の姿形を好きになった訳ではなく、彼の子供が欲しいと思った訳でもなく、彼の純粋で愚直とも言えるほどの実直なその“心”に惹かれたのだ。今の私には年齢や姿など関係無い。
身体が彼を求めたのではなく、心が彼を求めたのだから。
ファズルがここに居つく事に渋るオデットを、私がいいって言ってるんだからいいのよ、と泉の精の権力を発揮し、泉の側にファズルの家を建てさせた。家と言っても、雨風を防げる程度の簡単な木の小屋で、寝るためだけの場所といった感じだけれど。
それでも、ファズルが心地好く寝れるためにまたもや泉の精の権力で高級なベッドを持ってこさせた。質素な小屋に、高級ベッドが置かれている様は不釣合すぎて笑ったけれど、ファズルが柔らかいベッドの上で尻尾を激しく振りながら跳ねて喜ぶ姿は、どうしてくれようかというほどに可愛かった。この世界にデジカメが無い事に憤りを覚えたのは初めてだ。
ファズルは、アレンだった頃の記憶を持っている訳ではなかった。言葉もたどたどしいし、私に認めて貰おうとあれだけ頑張っていたお勉強もサッパリだった。
「ディーナ! だいすき!」
ただ、アレンがつけてくれた私の名前だけは忘れていなかった。それがまた愛おしさを増す。
愛おしいと思うけれど、今はまだ子供に対する愛情だと思う。年齢など関係無いとは言ったものの、やはりまだ未熟な精神ではこちらが庇護する立場なので、それは仕方ない事だと思うし、それに対して不満も心配も無い。
彼が大人になった時――、私はまた、彼に恋をするだろうから。
ファズルがここでの生活に慣れた頃、アレンの長女シャルロットが本を数冊持って泉に来た。成人してからというものめっきり顔を出さなくなった彼女が一人で来たので、オデットに何かあったのかと心配になったが、それよりも心配になるような事を彼女は言った。
「ファズルちゃんにお勉強を教えて欲しいって、オデットから頼まれたの~」
天然兄弟の中でも二大巨頭を誇るシャルロット(ちなみにもう一人は次男)。彼女に任せて大丈夫だろうか。どうして、また彼女をチョイスしたのか。
後でオデットから聞いたが、暇そうなのが育児放棄並に子供を放牧しているシャルロットしかいなかったのだとか。まぁ……、育児を放棄していると言うか、育児を放棄させられていると言うか……(何かをしようとするたびに何か被害が出て、何もしなくていいと言われているらしい)。
そんな彼女に勉強を教えて貰う……。不安しかないのは気のせいだろうか……。
「そうそう、精霊様にも教えろって言われてるから、精霊様も一緒にお勉強しましょうね~」
なるほど。つまり、私にシャルロットの監視をしろと。
と、思っていたが、オデットは本当に私にお勉強して欲しかったらしい。オデット曰く、「文字くらい読み書きできるようになれ」と。
こうして、この世界に来て数十年、初めて文字の読み書きの勉強をするハメになった。正直、本気で面倒臭かったのだけど、ファズルが楽しそうに文字を覚えようとしていたので、私もつられて楽しくお勉強できたと思う。
しかし、やはり二大巨頭の名はダテではなかったシャルロットの授業は大変だった。
絵本を持ってくるつもりがエロ小説だったり(それにも気づかずに高らかに朗読しだした)。
足し算をしようと用意したリンゴを、ファズルが計算中に食べ始めたり(極々自然な流れで食べていたので、気づくのに時間がかかった)。
この国の歴史を独自の解釈で説明し始め、やがて愛と欲望が渦巻くドロドロの恋愛創作話になったり(意外と面白かったので、小説書いてみたらと勧めてみた)。
そんなこんなで、私が文字を修得するのにやる気の無さも手伝って二年もかかってしまって、オデットにすごくバカにされた。
まぁ、文字が分かればこっちのものだという事で。本だけ貰って、私がファズルに教える事になり、シャルロットはお役御免だ……と思ったら、何もしなくてもただファズルをモフモフするためだけに通うようになった。
その膝の上でゴロゴロ言ってるの、あなたの元お父様ですよ、と何度言いかけた事か。
言ってもいいような気はするが、言わない最たる理由は、もう彼は“アレン”ではなく、“ファズル”だという事。子供達は喜ぶであろうけど、私はファズルに、もう何のしがらみもなく生きて欲しいのだ。
泉の精が愛する前王の魂が宿る銀色の獣――。
変に担ぎ上げられる要素抜群だ。だから、オデットにさえ言っていない。私は、ファズルに自由に生きて欲しい。例えそれが私の側から離れる事になろうとも。
アレンの子供達に対して多少の罪悪感を抱きつつ、それでも穏やかに時は流れた。
ファズルが元々賢かったのか、それとも前世の記憶が多少は残っていたのかは分からないが、私とのお勉強を始めて二年ほどでもうオデットと政治の話もできるようになっていた。
そんなファズルをオデットが賢い賢い、偉い偉いと褒めそやす姿を見て、ライバル心を燃やしたのがオデットの息子コンラッドだった。
美しく聡明な自慢の母がファズルに盗られたと思ったのだろう。勉強が嫌いで、七歳になっても間違った文字ばかり書いていたコンラッドだったが、急にやる気を見せてメキメキと賢くなっていった。
オデットに褒めて貰うたびに、ファズルの方を向いてどや顔をしていたが、ファズルはと言うとヤンチャな弟を見る優しいお兄ちゃんという感じでニコニコとしているだけだった。
そんなお兄ちゃんを慕うのは当然の流れで、いつしか彼らは兄弟のような親友になっていった。
とても穏やかで、幸せな日々だった。
永遠に続くと思うほどお花畑な頭はしていないけれど、それでも彼がまたこの世からいなくなってしまうまで不変だと思ってしまうほど、幸せに慣れすぎた。
不幸せな事があるからこそ、幸せを実感できる。
けれど、その逆もまた同じ。
幸せがあったからこそ、その後の不幸せは、幸せだった分苦しみを齎す。
私は幸せすぎて忘れていた。哀れな“彼女”の事を。
命を燃やし尽くすほどの呪いを施しながら死んでいった“彼女”の事を。
呪いはすでに始まっていたのだ。彼が再びこの世界に生まれ落ちた瞬間から。
呪いが成就してしまうきっかけは彼が青年になった頃。
私が、もう一度彼に恋をした時だった。