23.おかえり
一瞬。このライオンの子供のような子が何を言ったのかが理解できなかった。
だって、その名前は、彼がつけてくれて。彼にしか呼ばれた事の無い名前。
彼がいなくなってもう数年。彼がいない寂しさも、哀しみも、もう慣れた。それなのに、何故私をその名で呼ぶの? どうしてその名を知っているの?
慣れたはずの哀しみが、また私の心を乱そうとした。
「うわ!! この子、今喋ったわよね?」
少しの曇りも無い透明な声が私に話しかけてくる。
『え? あ……。そう? 喋ったかしら?』
「ぜーったい喋ったわよ!! 凄い凄い!! ねぇ、あなた、お名前なんて言うの!?」
「ぅ……ぅうー? な、まえ……?」
「ほらほら喋った!! そうよ、お名前は?」
私の動揺なんて知らないオデットは無邪気に瞳を輝かせていて、その声は波打っていた私の心を静まらせる。
それは、私の彼女への信頼がそうさせたのか、それとも不思議な力が声にまで宿っているのかは分からないけれど。確かに今、私は彼女にまた救われたのだ。
「ぼくの、なまえ、ふぁずる」
ファズルと名乗った彼は、獣だからだろうか、それとも単に子供なのだからだろうか、舌ったらずだけれど懸命に喋ろうとしている。その愛らしさに、先程の鈍い痛みなど完全に消え去ってしまった。
「ファズル? ……ぁあ~、ゴリュール系の名前ね」
『ゴリュール? どこかで聞いたような、気のせいのような……』
「何忘れてんのよ!? 私が子供の頃に周辺諸国のお勉強の時間にちゃんと教えてあげたじゃない!!」
そんな事言われても困る。三歩歩いただけでも忘れるのに、そんな約二十年前の事なんて覚えてる訳ない。そもそも覚える気すらなかったのだが。
「ああ、もういいわ。あなたのヤル気の無さを忘れてた私がバカだったわ。ゴリュールはね、“獣人”の国なの。顔はライオンのような、狼のような獣そのままなんだけど、身体つきは私達と変わらない種族よ」
『ふ~ん? ファンタジーねぇ。それじゃあ、この子はそのゴリュールの子なのね?』
「う〜ん、名前といい、普通に喋れる事といい、ゴリュール人っぽいのは確かなんだけど……。この子、身体も動物じゃない? 全身が動物のゴリュール人なんて聞いた事無いのよね……」
『知らないだけで、向こうじゃ当たり前かもしれないわよ? ねぇ、ファズル。あなたはゴリュールから来たの?』
私の問いにファズルは小首を傾げるだけ。幾つかは知らないが、まだ幼いから分からないのかも。それとも、獣に近くて知恵が発達していないのかもしれない。
少し質問を変えて、どこから来たのか、どうやってここに来たのかを聞いてみると、やはり全てを理解できないようだったがファズルの置かれた状況は予想できる返答が返ってきた。
「あのね、あかいじめんしかないとこでね、おとーさんとおかーさんがね、どこかいっちゃったの……」
赤い地面しか無い所……それがどこかは分からないけれど、そこで迷子になって彷徨っているうちにここに迷い込んで来たのだろうか。
「赤い地面しか無い所……? もしかして、ダンコナー砂漠の事かしら……? だとしたら、よく生きてたわね……」
オデットが眉間に皺を寄せて呟く。どういった場所なのかを聞いて私はやっぱりここは地球とは違う世界なのだと実感する。
“ダンコナー砂漠”とは、別名“死の大地”。赤い砂と赤い岩で覆われていて、砂漠につきもののオアシスなどそんな優しいものはなく、植物など皆無だという。
大きく凶暴な獣はいないが、代わりに独特の進化を遂げた微生物や虫などが徘徊しており、不用意に砂漠に立ち入ると知らぬうちに寄生されて、悲惨な最後を遂げるらしい。
唯一、砂漠に生息する生物の驚異を防ぐ術は、“ガンチー”という香木の匂い。退治まではできないが、砂漠の生物はその匂いが嫌いらしく、一切近寄ってこないのだとか。
そして、その“ガンチー”はゴリュールにしか生息しておらず、国民には安価で売っているが、国外ではとても高値で取り引きされている。
『ねぇ、ファズル。あなたのおうちはお金持ちだったの?』
私の問いにファズルは小さく首を横に振る。
「つまり、この子の父母はガンチーを安価で手に入れられるゴリュールの人間って事ね」
オデットの言葉に私は頷く。これでファズルがおそらくゴリュールの子だという事は分かった。しかし、ゴリュール人の特徴である『獣の顔に人の身体』ではなく、喋れる事以外獣であるこの子は一体何なのだろうという疑問が残る。
一番予想できる事は、ゴリュール人である事は確かだが、完全に獣の身体を持ってしまったために忌避されて捨てられてしまった……とか。いや、まだ捨てられたと決まった訳ではないけれど……。もし、そうなら、“死”が前提の場所に置き去りにするのはあまりにも残酷ではないだろうか。
オデットも私と同じ想像をしているようで、滑らかな肌に刻まれた眉間の皺がより深くなる。それでも、ファズルに話しかける時には優しく穏やかな口調になる。
「ねぇ、ファズル。おうちに帰りたい?」
ファズルは俯いて答えない。無垢な表情からは、答えたくないのか、どう答えたらいいか考えているのか、という事は分からない。
私達はただ黙ってファズルの言葉を待っていると、やがて力なく首を振った。
「おかあさんにはあいたいけど、おとうさんはきらい。それに、おうちは、くらいし、おなかがすく。おそとには、きれいなものがいっぱいだし、ここはおいしいものがいっぱいある。ぼくね、あのあかいのがすき」
ファズルはふさふさの尻尾を激しく振り、視線は泉の対岸にある木に実っている赤い果実に釘付けになっていた。ちょうど近くにいたリスに採ってきて貰うと、小さい前足で押さえて嬉しそうに齧り付く。そんな愛らしいファズルを横目に、オデットが小声で話しかけてきた。
「……精霊様、どう思う?」
『おうちは暗くて、お腹がすく……って、よほど変な所や貧乏じゃない限りは、閉じ込められてご飯もろくに与えられてなかった……って事かしら?』
「やっぱり、そう……なるわよね……?」
美味しそうに果実を食べるファズルを見て、どうにも痛ましく思えてしまう。だからなのか、それとも予感のようなものがあったのかは分からない。でも、私は思わず言ってしまった。
『ねぇ、ファズル。私と一緒にここに住む?』
ファズルは果実を食べるのを止め、私の言葉に果実でベタベタになった口を開いて小首を傾げながら私を見る。その姿が愛らしくて、私は微笑みながら口元を拭ってあげた。その間、自分の口を拭う透明な手の薬指に付いている銀色の指輪をジッと見つめていたかと思うと、その猫のような口元は笑みを浮かべた後、指輪をペロっと舐めた。
「ぼくの、およめさんに、なってくれるの?」
心が、震えた。
まだ小さかったあの人が私に言った言葉を今でもよく覚えている。この銀の指輪をくれた時に彼は言った。
『死んでも、生まれ変わっても、ずっとボクの心はディーナと一緒にいるっていう証し』
この指輪はその証しだと、彼はそう言った。
実直な彼は、生まれ変わる前の、更には幼い頃の約束を――ずっと守っていてくれたのだ。
そして、“帰って”来てくれた。
ああ、アレン。帰って来てくれたのね。
『ええ、お嫁さんになってあげる』
今はファズルになった彼を思わず抱きかかえ頬ずりをすると、彼はくすぐったそうに、けれど嬉しそうに笑い声をあげた。
おかえり。おかえりアレン。
ファズルになったあなたを縛るものは何も無い。もう、心と身体が自由にならない事に嘆かなくていい。
自由になったあなたと、心を取り戻した私。
もう私は自分の心から逃げない。
もう、あなたと離れたくない。