19.水面の向こう側、眩い世界
今日も空が青い。風に流されて真っ白な雲が形を変えながら流れていく。太陽に照らされて森が喜んでいる。
きらきら輝く美しい世界。
今までも美しい世界だとは思っていたけれど、今はもっと美しく見える。長く眠っていた心は目が覚めた瞬間、眩しすぎて泣いてしまいそうになるほどに世界を輝かせて見せた。
それはこの風景に留まらず、人の心にも言える事だった。
アレンやオデットの真っ直ぐな気持ち。他を思いやる心。私なんかに向けられるのは烏滸がましいと思うほどの綺麗な心は、目を瞑ってしまいそうになるほどに眩い。
私はなんて馬鹿だったのだろう。世界はこんなにも美しいのに、自分が好んでしていた恋愛が上手くいかなかったくらいで全てを捨ててしまおうとしていたなんて。
太陽に手を翳す。私の透明な身体は光をゆらゆらと地面に届ける。光を通さずに受け止めて煌めいているのは、薬指にはまった銀の指輪。
本当に今さらだけども、これがアレンの気持ちへの返事だった。
泉の精になってから、少し乙女チックになったかもしれない。これが人間だった頃なら指輪を売ってる可能性大だ。
今は、思い出をお金に替えるよりも、思い出を大切にしたい。アレンと過ごした時間は僅かな間だったけれど、今でも鮮明に思い出せるほど大切な時間だった。
この指輪を私が当たり前のようにはめているのを見たオデットは複雑そうな顔をしていたけれど。
それもそうで、元は大切な儀式の時に用いられる指輪らしいし、何よりもアドリエンヌの事を思うと複雑な気持ちになるのだろう。
私が最後に見たアドリエンヌの顔が忘れられない。
一見、ただ呆然としているだけのように見えたが、あれは確かに今まで信じてきたものが崩れた時の――“女”の顔だった。
私には、アレンがアドリエンヌを、家族を裏切ったなんて思えない。だって、彼は人生を国のために、家族のために捧げたのだから。けれど、アドリエンヌにとって、アレンが最後に私の元へ来た事は酷い裏切りだったのだろう。
アドリエンヌは、アレンの私への想いはただの初恋で、過去の話だと信じきっていた。自分達こそが一番大切にされているのだと信じきっていたのだ。
一番大切にされていたのは間違い無いだろう。けれど、それは“家族”としてで、“女”として愛されていなかったという事に、アレンのあの幸せそうに眠る顔を見て気づいてしまったのだ。
そして、“裏切られた”と思ってしまった。
現代日本でなら、不貞行為にまではならないのかもしれないけれど、裏切りの部類には入るのだろう。しかし、それは自由恋愛ができる日本だからこそだ。
アレンの身体はアレンだけのものではなかった。国民を守らなければいけなかったし、そのためには子孫も残さなければいけなかった。心がどこにあろうと、王族の務めを果たさなければいけなかったのだ。
アドリエンヌも他国の王族だったのだから、それくらいは理解していておかしくなかったはずだが、アレンの事を愛し過ぎて盲目になっていたのかもしれない。アレンもまた、どういう感情であれアドリエンヌの事を大切にしていたから、今までが幸せ過ぎて反動が酷かったのかもしれない。
――それは、世界の全てを呪ってしまうほどに……。
オデットから、アドリエンヌの最後を聞いた時は衝撃を受けた。
自分の心もままならないというのに、他人の心をどうにかするなんてできるはずもないのだけど、それでも思ってしまう。
私がもう少しアレンを強く突き放していれば、アレンも苦しむ事なく、アドリエンヌも絶望したままこの世を去る事もなく、オデットも二人の気持ちの間で一人思い悩む事もなかったのかもしれない。
過ぎ去ったどうしようもない事を後からウジウジ悩むのは好きじゃない。けれど……。アドリエンヌの最後が凄惨すぎて、後悔せずにはいられない。
心が痛い。
痛みを感じると、私の心を守ろうと泉の底へ引っ張ろうとする意思を感じる。けれど、私はそれを拒む。
苦しみも、哀しみも、歓びすらも何も無かった世界。それはとても心地よい世界だった。今でも戻りたい気持ちがある事は否定しない。
それでも、私はもう心を閉じ込めたりしない。
苦しくても、共に苦しんでくれる友がいる。哀しくても、それ以上の歓びがある。
幸せが分かるのは、不幸せな事があるから。苦しみも、哀しみも、全ての痛みは歓びを感じるために必要な事。
だから、私はもう逃げない。
私がここへ戻ってきてからというもの、オデットは三日とあけずに泉に来るようになった。私がまた引き篭ってしまうのではないかという不安があるようだ。今日も私が泉から顔を覗かせると、安堵の表情を浮かべた。
『またそんな顔して。あなたが棺桶に入るまではどこにも行かないって言ってるじゃない』
「何よ、どんな顔してるって言うのよ。私は髪のお手入れに来ただけよ」
最近、彼女は幼児返りみたいになっていて、妙に私に甘えてくる。素直じゃないところがまた可愛らしく思えるのだけれど、こんな事を言ったら怒られるだろうから、心の中だけに留めておく事にしよう。
『ここでわざわざお手入れしなくても、お城でできるんじゃないの?』
そう言いながらも、私は動物達にハーブを持って来て貰って、年季の入ってきた調合セットでゴリゴリとハーブを擦る。
「そうなんだけどね。一般に売る用の美容液を作るのに使う水を、泉のじゃなくて普通の水にする事にしたから、今城にあるやつはイマイチなのよね」
イマイチなら泉の水を使えばいいのに。不思議に思って聞いてみると、私でも驚いてしまうほどの事を彼女は言った。
まずアレンの事。彼が倒れてから一年も生き長らえたのは奇跡だったそうだ。そこで考えられるのは泉の水を飲ませ続けた事。だがそれだけで泉の水の効果だと言うのは早計だったので、オデットは極秘裏に臨床実験を行ったそうだ。
腰痛、肩凝りなどの軽症の人間から、この国の医療ではどうにもならない重症の人間までを数人集めて私がいなかった三百日の間、泉の水を飲ませ続けていたらしい。
そして、効果が出た。重症の人間は完治にまでは至らなかったらしいが症状が良くなり、腰痛や関節痛などの軽症の人間に至っては飛び跳ねるくらいに元気になったらしい。
オデットも風邪や疲れによる倦怠感やかすれ眼があった時に飲んだようで、三日も飲み続けると効果が出たようだ。
更には、生え際が怪しかったセルジュの髪量が増えたっぽく、城ではヅラ疑惑が浮上しているそうだ……。
グルコサミンや養○酒なんて目じゃなく、更には育毛剤まで兼ね備えているその効果に、私はただ驚くしかない。まさに万能薬。地球で売り捌く事ができるのなら世界一の大金持ちになってもおかしくない。
『どうして売らないの? 国が一気に豊かになるんじゃない?』
「周辺諸国ではね、『欲しいものがあるなら奪え』っていう思想の国が多いのよ。売るにしても『力づくじゃ手に入らない』という印象を強く焼き付かせないと……。だから今のところ、泉の水の効果は国家機密扱いね」
国家機密。これに驚かずにいられようか。
だって、この泉は私“達”の涙によってできたのだから。
その事と、ついでに泉の成り立ち、私がどうやってここに来たのかをオデットに教えてあげると、彼女も水色の瞳がこぼれ落ちそうなくらい驚いていた。
「いや……。まさか、他の世界の人間だったなんて……。しかも、不倫をした挙げ句に刺されてとか……。どうりで神秘さのカケラも無いと……」
驚くとこ、そこなんだ? 他にも驚くところあったはずなのだけど……。
なんだか複雑な気分になっていると、オデットはサラサラの銀髪を摘み、伏し目がちに呟いた。
「この髪の色、まだそんなに好きじゃなかったんだけど、泉の精を引っ張りあげる力があるって言うのなら……悪くないかもね」
どういう仕組みなのかは分からないけれど、王族は泉の底で閉じこもっている意識に触れられる力を持つ。銀色の髪を持つ人間はその力が顕著なようだ。
意識して使う事ができる訳ではない不思議な力。泉の底で見た銀色の光。あれは癒しの力を持っていたように思う。
哀しみに沈む心を癒し、癒された心は癒してくれた光を護る。
そうやって、この国と泉の精は共生しているのかもしれない。
私も護ろう。オデットを、オデットとアレンが愛するこの国を。オデットが生命の輝きを失う時まで。
そして、彼女の最後を見届けた後、私は帰ろう――元の世界へ。