18.共有する痛み
◇
遠くで誰かが泣いている声が聞こえる。
哀しいの? だったら、あなたもここに来ればいいのに。ここは、哀しい事も、苦しい事も、煩わしい事なんて何も無い世界。
そう、何も無い。心を震わす楽しさも、歓びも、何も無い。
けれど、ここは優しい世界。
何も感じないけれど、悠久の平穏がここにはある。
それなのに、あなたはどうして私を呼ぶの?
私は、ここにいたいのに。
ここにいたいのに、その声に、引き寄せられてしまう。
透明な声が私を呼ぶたび、閉じ込めているはずの心に波紋が広がる。
いつもは強気な声が涙で震えるたび、隠しているはずの心が震える。
徐々に声が近くなる。それと同時に、明滅する銀色の光。
心の目を瞑っていても瞼を通り抜けて射し込むその光は、泣きたくなるほどの温もりを伴い私を侵していく。
抗う気など起こさせない不思議な光は徐々に大きく、近くなる。
そして、一際大きく煌めいた瞬間、眩い光の向こうに、甘く優しい記憶を見た。
銀色の髪を持つ青年。水色の瞳は、癒しの力を持つ水のように優しく揺れる。
彼が何かに呼ばれたかのように泉に手を差し入れると、水は美しい女の姿へと形を成した。
それは、“泉の精”の始まりの記憶。
ほんの一瞬だった。一瞬だけだったのに、原初の泉の精が感じた甘く焦がれるような気持ちが、鮮烈に私の心に焼き付いた。
狂おしいほどに心を締め付ける、その感情の名は何だっただろう。
思い出したくて、でも思い出したくなくて。
何かが私を突き動かし、叫んでしまいそうになる。
甘い記憶に溢れた光が温かすぎて、泣いてしまいそうになる。
全ての感情を閉じ込めたはずなのに。光が、水の檻を溶かしていく。
――やめて!! そう、叫ぼうとした時。
光が裂けた。
裂いたのは、白く華奢な手。
発光しているかのようなその白い手は、迷いなく伸びてきて――
私を、すくい上げた。
――せ……ま……
――せいれ……さま!!
誰かが泣いている声が聞こえる。
それは、とても近く。手を伸ばせば届く場所で、彼女は泣いている。
『オデット……? どうして、泣いているの?』
気がつくと、朝靄が薄く漂う中、オデットが全身ずぶ濡れになって泣いていた。
「どうしても、こうしてもないわよ!! 馬鹿!!」
ぽよん。白い手が何度も私めがけて振り下ろされる。そのたびに間の抜けた音が響き、私の身体はゆらゆらと揺れる。
……馬鹿? って、私に言っているのだろうか? ここにはオデットと私以外いないものね。きっと私に言ったのだろう。……私、何かしたかしら?
『オデット? 馬鹿って言った方が馬鹿なのよ?』
「うるさい!! 茶化さないでよ!! 私、怖かったんだから……!!」
『……怖いって……何が?』
今は朝方。怖い夢でも見たのだろうか? それとも、朝のお散歩中に変質者にでも追いかけられたのだろうか。私もそういう類の人間に遭遇するのは、いつも何故か朝方だったからよく分かるわ。まだ明けきっていない薄明るい中、人の気配が少ない時間に丸出しで追いかけてくるアレは怖いわよね。
……え? あ、違うの? その目付きは、明らかに私を責めているわね。冤罪を主張するわ。だって、私何もしてないもの。私はただ、あそこで……って……あそこって、どこ?
「五ヶ月も出て来ないで何してたのよ!?」
オデットが涙声で叫んだ。五ヶ月? 確か、ここの一ヶ月は地球の約二ヶ月分だったはずだから……十ヶ月……約三百日、私は外に出ていないと、そう言うの? いくら時間に感心の無い私でも、さすがにそれは異常だ。私は何をしていたのだろう? なんだかぼんやりとして、思考が纏まらない。
「前、言ってた、寿命が来たのかと……!! 精霊様まで、私を置いていってしまったのかと……!! わた、わたし……!!」
寿命? ああ、そう言えば、泉の精が代替わりするって言った時にそんな話になったような……。
『大丈夫よ。私達には寿命なんて無いから』
「じゃあ、前の泉の精はどこに行ったの? あなたもいつか、どこかに行っちゃうの?」
どこに? どこだろう? 私は知っている気がする。どうして知っているの? 以前は、記憶を覗こうとしても覗けなかったのに。
ぐるぐる。ぐるぐる。思考が回る。混乱している私に気づかずに、オデットはその光を放っているかのように見えるほどの白い手を伸ばし、私を掴んだ。
その、銀色の光を裂いた白い手が、三百日の記憶を呼び起こした。
「ゆ、許さないから……!! あなたまで、いってしまうなんて、許さない……!! 私を、一人にするなんて、許さないから……!!」
いつもは冷静な色を浮かべている瞳が揺れて、零れる宝石のような涙。言葉こそ強気だけど、その様子はみっともないほど私に縋っていて、私がいない孤独がどれほどオデットを押し潰そうとしていたのかが窺い知れた。
震える。銀色の光によって曝け出されてしまった心が震える。
『オデット……。あなたは……なんてことをしてくれたの……』
全ての痛みから守ってくれる優しい世界から、強制的に連れ出された絶望。
全ての感情をなくしてしまう哀しい世界から、すくい出してくれた安堵。
二つの感情がせめぎあい、相殺されてはまた浮かぶ。今まで閉じ込めていた心は、激しい二つの感情についていけずに混乱する。
「なに……? 私が、何をしたって言うの……?」
『あなたのせいじゃない……。いや、でも、あなたのせいで、私は……』
「はぁ!? 意味が分からない!!」
オデットのせいじゃない。分かってる。分かってるのに、久しぶりに外に出た心が昂って抑えがきかない。
水でできた身体は涙なんて出るはずもなく、それが余計にもどかしくて苛立たしくて、沸騰して蒸発してしまいそうで、苦しみを紛らわすために私は心にもない事を叫んでしまう。
『私は!! ずっと泉の中にいたかったのよ!! それなのに、あなたが無理矢理私を連れ出したの!!』
「何よ、それ……。もう、出てくるつもりが無かったっていう事……? 私だけだったって言うの? 私だけが、あなたを大切に想ってたって言うの……? あなたは!! 私にもう二度と会いたくなかったって言うのね!?」
オデットの哀しみが雫となって瞳から零れ、怒りが震えとなって唇をわななかせている。
――傷つけてしまった。嫌われてしまう。
心が鈍い痛みに襲われた。
八つ当たりで身勝手にオデットを傷付けたくせに、私の狡い心は嫌われたくないという思いで占められ、皮肉にもそれで少し冷静になれた。
『……嘘。嘘よ。ごめんなさい、オデット。嘘なの。泉の中にずっといたかったなんて嘘。私だって、オデットに会いたかった。あなたは私の大切な友達。でも、あなたがここに来ない日が淋しくて堪えられなかった。あの人が、アレンが、もう、いない事に堪えられなかった……!!』
今さら心を締め付ける甘い痛み。
原初の泉の精が、オデットの先祖に抱いたものと同じもの。その、感情の名は何だっただろう。
それは――恋心。
そんなものに心を乱されるのが煩わしくて、捨ててしまいたいと思った。
人間ではなくなったら、そんなもの無くなると思っていた。
だって、それはただの子孫を残すための人間の本能だとか、遺伝子だとか、そんなもののせいだと思っていたのに。
何故、こんなに心を乱されてしまうの。
分かっていた。予感はあった。
アレンの真っ直ぐに私を想う心が嬉しかった。綺麗な涙を流す彼が手に入れ難い宝物のように見えた。
彼の子供達の温もりに触れて幸福感に包まれた。誰も来ない日は淋しくて仕方がなかった。
それも、これも、“人”だからこそ感じるものだと思っていたのに。それを感じてしまうのが怖くて、私はきっと無意識にあの哀れで優しい意識達に助けを求めていたのだ。
それなのに、心が失くなっていく事が哀しくて、怖くて、また助けを求めて……。
『ごめん……ごめんね、オデット……。あなたがそんなに心配してくれるなんて思わずに、私は逃げていたのよ……。ごめん……』
オデットの水色の瞳が大きく見開かれている。私がこんなに取り乱す事なんて今まで無かったから驚いているのだろうか。しかし、次の瞬間には全てを委ねてしまいたくなるほどの優しい瞳をして呟いた。
「……精霊様も、お父様の事、愛してたのね……」
愛なんて、きっとそんないいものではなかった。私のこの想いは、ただの自分勝手な恋だった。
オデットの白い手が私の手を握る。初めて会った時、氷のようだと思った水色の瞳は、今は癒しの力を持って私を見つめる。
「私だって、愛するお父様がいなくなってしまって哀しかった。それどころかお母様もあんな事になってしまって……。皆が哀しみに暮れる中、私はこの国を導く務めがあったから、哀しんではいけないと思った。でも、やっぱり哀しいものは哀しくて。でも、皆の前では毅然としていなくてはいけなくて。心の行き場所がなくて苦しかった」
そう言うと、また一筋の涙がオデットの頬を伝った。
「でも、あなたがいてくれると思っていたから、私はなんとか立っていられたの。私がどんな立場であろうと、どんな事があろうと、あなたなら受け止めて、未来を指し示してくれると思っていたから」
こんな私の事をさも大切な存在であるかのようにオデットは言う。
そんな価値なんて無いのに。私はただ臆病で、卑怯で、自分勝手なだけなのに。
「私も、あなたにとってそんな存在でありたい。どんな哀しみに襲われて立っていられなくなったとしても、支えてあげられるような、そんな存在でありたい。だから、私が側にいるから。出てきたくなかったなんて、そんな哀しい事言わないで」
オデットの気持ちが痛い。でもそれは、鋭い痛みではなく、温かい痛み。
心を締め付ける痛みがやわらいだ気がした。
私の痛みを、オデットが受け止めてくれている。オデットの事も考えず一人だけ痛みから逃げ出した臆病な私を、それでもまだ必要としてくれている。
それがとても痛くて、とても嬉しい。
私の何が彼女をそんな風に思わせたのかは分からないけれど。私の事を必要としてくれているならば、私は側にいたい。
たとえまた痛みが私を襲っても、彼女が受け止めてくれる。そして私も、彼女の痛みを受け止めて、やわらげてあげたい。
『ごめんね、オデット……。もう、大丈夫。もう、あなたを一人にしないわ』
彼女の手を握り返すと、堪えていた不安を全部吐き出そうとするかのように泣き出した。
そうして私達は陽が真上にくるまで、オデットが泣けない私の代わりに泣いて、私は泣き続けている彼女の代わりに笑った。