2.水面の向こう側、美しい世界
ゆらゆら、ゆらゆら。
水面が揺れる。
ゆらゆら、ゆらゆら。
水面の向こうの光が揺れる。
冷たい水の中。冷たいはずなのに、温かく感じる水の中。
いつからこうしていたのだろう。どれほどの時間をこうしていたのだろう。刹那かもしれないけれど、悠久にも感じる。
ゆらゆら、ゆらゆら。
ここは心地良い。何も煩わしい事の無い世界。あれほど疼いていた胸の痛みも今は無い。ここはどこだろう。どうしてここにいるのだろう。
ああ、そんな事どうでもいいか。私は、この心地良い世界でずっと揺蕩っていたい。
それからどれほどの時間が過ぎただろう。ある日、水面が一つの塊によって激しく揺れた。
その塊は、もがきながらこちらの方へ沈んで来る。たぶん、溺れているのだろう。さすがに溺れている人間を見殺しにするほど腐ってはいない。もがいていた小さな人間を安心させるように柔らかく包み込み、水面の上に出る。
思えばここに来て初めて水の外に出た。ゆっくりと見渡せば、そこは豊かな緑に囲まれた光射す美しい泉だった。
景色の美しさに見惚れていると、小さな人間がけほけほと咳をした。いけない。この子を陸に上げてあげないと。
そっと陸の上に横たえてあげると、安心したのか意識を手放しぐったりした。
少し水を飲んでしまったかな? 小さな人間の胸を軽く撫でると、小さな胸がビクリと一つ跳ね、小さな口がゴポッっと水を吐き出した。
これでもう大丈夫かしら? いや、服がビショ濡れだ。このまま寝ていたら風邪をひいてしまわないかしら?
手をかざすと、服に吸い込んでいた泉の水が私の水でできた手に『戻って』くる。そう、泉の水が私に『戻って』くるのだ。
今、ハッキリと自覚した。なぜか私はこの泉の主になったようだ。いや、泉だけでは無い。泉を中心に広がるこの美しい森。それが全て私の支配下にある。
人間をやめたいと思ったが、まさか本当に人外なものになるなんて……。
ゆらゆらと優しく揺れる透明な手を太陽にかざす。澄んだ透明な水は太陽の光を遮る事なく、私の顔も通り抜け、地面まで光を届ける。
――なんて、美しい世界。
今、私は水なので呼吸はしていないが、それでもここの空気は酷く清らかで澄んでいると分かる。木々を優しく照らす太陽の光が、葉の合間をぬって柔らかい土にゆらゆらと光を届ける。そして自らが光を放っているかのように煌めく泉。
この、美しい世界の主は私。
不思議だ。あんなドロドロの愛憎劇を繰り広げてしまった穢れた私が、何故こんな美しい世界の主になってしまったのだろう。
考えても答えは出ない。なってしまったものは仕方が無い。今の私にできるのは、この美しい世界を守る事なのだ。
カサッ、と草が動く音がしてそちらを向くと、どうやら小さな人間が目を覚ましたらしい。上半身を起き上がらせて、アホの子のように口を開きこちらを見ていた。
ああ、私は人間じゃ無いものね。透明な人型のものなんて誰でも驚くか。もしかしたら怯えているかもしれない。まだ小さいもの。
私は安心させる為に、波打つ手で彼の淡い茶色の髪を優しく撫で、そしてできる限り穏やかに微笑んで見せた。すると、彼の深い緑色の瞳は余計に大きく見開かれ、小さな口をワナワナと震わせる。
あれ? 余計怯えさせてしまったかしら? おかしいな。私の営業で培ったスマイルは、癒し系の皮を被った猛禽類の笑みと絶賛されていたのに。この子は勘が鋭くて本能で怯えているのかしら。それとも、単に人外生物が恐ろしいのかしら。
悩んだ末に私が出した結論は潔く泉に帰る事だった。彼の頭から手を離し、泉に向けて後ろを向いた時。
「ま……、待って!!」
振り向くと、彼は涙目になりながらお腹の前で拳を握り締めて、ぷるぷる震えている。
……そんなに怖いなら早く帰ればいいのに。そう思った次の瞬間、彼の精一杯の言葉に今度は私がビックリしてしまう。
「ま、また……、会いに来てもいい!?」
あれ? 怯えていた訳じゃないの? じゃあ、どうして震えているの?
確かに震えている。けれど、瞳に怯えの色はなく、むしろ初めての告白をしているいっぱいいっぱいの男の子のようで、それがなんだか可笑しくて、私は笑って頷いたのだった。