17.優しい檻
◇
気がつくと、私はまた現実なのか幻なのか分からないものを見ていた。
そこは真っ白な部屋ではなく、ぐちゃぐちゃになったどこかの部屋。
壁は所々陥没しており、床には色んな物が散らばっていた。割れた食器。引き裂かれたぬいぐるみ。乱雑に散らばる子供用のオモチャ。
ただ散らかったのではなく、明らかに誰かが暴れたのであろう後の部屋には、ヨレヨレになった服を着て無精ひげを生やした『彼』の姿。
この部屋の主であろう項垂れる『彼』の手には、一枚の紙。
それに書かれている文字に、私は目を見張った。
そこには、彼の名前と、おそらく奥さんのものであろう名前。そして、その上部には――『離婚届け』の文字。
え……? どうして? 私はもう、いなくなったんだから、安心して奥さんと子供と、暮らせばいいじゃない。
ああ、人を刺すくらい狂ってしまった人とはもう一緒にいられないって事? そんな身勝手な。彼女を追い詰めた原因は私にもあるけれど、それは彼だって同じ。
自分の欲のために一人の人間を狂わせてしまったんだから、『離婚』という形で逃げるんじゃなくて、ちゃんと責任を取りなさいよ。
「それは、違うよ」
私のひとり言に答えるように、彼が呟いた。
私はまたもや目を見張る。今の私は、水の身体さえない意識だけがここにいるのだ。“声”が届くはずが無い。いや、でも、そういえばこの前も、幼なじみが私の“声”に反応を示していたような……。
――何が、違うの?
「逃げたんじゃない。どれだけ君が大切か、気づいてしまったんだ……。どんなにアイツや子供に恨まれようと、俺は、もう……」
試しに彼に話しかけてみれば、また私の“声”に答えるようにして彼は言う。
そして、彼が俯いていた顔を上げた時――真っ直ぐな瞳が、私を捕らえた。
瞬間、意識だけだったはずの私は、人間であった頃の姿へと形を成した。
戸惑い、自身の姿を確認する。水では無い、肌色の腕がある。けれど、確かな存在ではないらしく、顔の前まで持ち上げた右手の向こうで、彼がこちらに向かってくる姿が透けて見えた。
彼は腕を広げ私の身体を包み込もうとするが、不確かな存在の私に触れられるはずもなく、彼の手は空を切る。
ここにいるけれど、ここにはいない私を感じ、彼は血色の悪い顔を泣いてしまいそうなほど哀しげに歪めた。
「お願いだ……!! 戻って来てくれ!! 今度こそ……今度こそ、俺は、君の側を離れたりしないから……!!」
馬鹿な人。もう、遅いの。私はもう人間ではないし。どうやって戻れるのかも分からない。戻れるのかすら分からない。もし、戻れたとしても、まだあなたを愛しているのかも分からない。
私の心は水の檻に囚われて、何も感じなくなってしまった。それが、とても哀しい。その哀しいと思う気持ちすらも、ただの知識として認識しているだけであって、私の中にはただ空虚なものが広がるだけ。
ああ、なんて哀しいの。
あなたがどんなに泣き喚いても、あれだけ求めていたあなたが私の元へ来てくれると聞いても、少しの歓びも、猜疑心も、憐憫の情さえも、何も感じない。
泉の精になったばかりの頃は、確かにまだ近くに心を感じていたはずなのに。それなのにもう、どこにあるのか、存在しているのかすら分からない。
いつからだろう、心がどこにあるのか分からなくなってしまったのは。私の周りだけに流れる緩やかな時が、そんなものを感じさせなかった。
それは、水の流れに削られる石のように、緩やかに形をなくし、いつか私という自我すらなくしてしまうのかもしれない。
――怖い。
唇が、無意識のうちに、その言葉を紡ぎだした。
彼が目を見張る。触れられないというのに、また手を伸ばし、そしてまた空を切る。
私も触れられないと分かっていながら手を伸ばさずにはいられなかった。けれど、やはり彼が差し出した手を掴む事はできず、彼の手を通り抜けた。
――怖い。怖いの。助けて……!!
「待ってくれ!! 行くな!!」
私に必死に手を伸ばす彼の姿がさざめく波のように歪む。
直後、渦巻く奔流が私を呑み込んだ。
何が起こっているのか考える余裕などなく、それは私を急激に流していく。
流れはごうごうと荒れ狂い、“何か”の悲痛な叫声を伴い渦巻く。
――怖い。嫌だ。消えたくない。助けて。
叫び、もがいてみても、流れはそれをせせら笑うかのように易々と私を押し流していく。
私は為す術も無く、ただ“何か”の意識の波に流され、混ざり合い、自分が何なのか分からなくなってきた時、それを見た。
幾人もの人間の嘆きを。
意識の奔流の中は嘆きの記憶が渦巻いていた。
ある者は恋人に。またある者は友に。さらにまたある者は血縁者に。心を裏切られ、慟哭し、そして叫ぶ。
心などいらないと。
ああ、これは私だ。別個の存在だけれど、求めたものは同じ。
心を放棄し、人間である事すら放棄した、幾人もの“私”。
そして知った。あの泉の存在意義を。
幾千、幾億もの痛苦の叫びが時空を裂き、流した涙が泉となり、膨大な嘆きはうねりとなって同じ痛みを持つ者を呑み込み、泉へと流れ着く。
そして、痛みから己を守るために自ら優しい水の檻に閉じこもるのだ。
私は一人ではなかった。
私が気づかなかっただけで、あの泉の中には私以外にも多くの意識が揺蕩っていたのだ。
きっと、私の心はその中にある。
恐れる事なんて何も無かったのだ。だって、私は守られていたのだから。同じ痛みを持つ者達に。
心が表に出ようとするたびに引き戻し、守ろうとしてくれていたのだ。痛みを感じてしまう前に。
ああ、なんて優しくて、哀しい檻だろう。
それは身を切り裂くような痛みを失くす代わりに、沸き立つような歓喜をも齎さなくなる。
誰かと共に在る歓びも、大切なものを喪失した哀しみも、情の全てを失くしてしまう。
哀しい。哀しい。歓びすらも否定してしまうほどの痛みが哀しい。
心を放棄してしまうほどの傷を負ったのに、それでもまだ誰かを守ろうとする、その優しい心が哀しい。
人に傷つけられたのに、まだ人の温もりを求めてしまうのか。
求めているのに、痛みを恐れてその檻から出てこれないのか。
いいわ。私もあなた達と共にいよう。
臆病で、孤独を嫌う哀しいあなた達のために。あなた達と同じ、哀しい私のために。
共に、哀しみも、苦しみも、歓びも、全てを閉じ込めて。少しでも孤独が和らぐように、混ざり合い、揺蕩い、少しの優しさを世界に流しながら。
この、心地よい世界に、融けてしまおう――