16.ココロの、行方
別に他の子に名前を聞かれなかった訳じゃない。
なんとなく、教えるのを躊躇ってしまったのだ。
アレンから貰った名前。それは銀の指輪と同じように、大切に大切に、誰にも見つからないように、泉の底にしまっておきたくて――。
「ディーナ……」
潤いをなくした唇から漏れる掠れた声が私を呼ぶ。
『アレン……。老けたわね……何歳になったの?』
「はは……。つれないな、久しぶりに会ったっていうのに……それだけかい?」
私がイタズラっぽく笑うと、アレンもつられて笑う。
立つ事すらままならないその姿は、可愛らしいものでもなく、逞しいものでもなく、痛ましいほどに弱々しいものだけれど。その笑顔はいつまで経っても変わらない。無邪気で、純粋な、私の可愛い王子様のまま。
しかし、その笑顔は長く続かなかった。アレンは笑みが浮かんでいたその顔を歪ませ、胸の辺りの服を掴みながら小さく呻いた。
『アレン。どうしてこんな身体でここに……?』
「僕は、きっと……もうすぐ死んで、しまう……。その前に、どうしても、君に……会いた、かった……」
彼は身体の痛みを抑え込むように、荒くなった息と共に吐き出すように言った。
私に会いたかった……? まさか、アレンはいまだに私への想いを断ち切れていなかったと言うの……? そんなはずはない。だって、子供達からいつもアレンとアドリエンヌの仲睦まじい様子を聞いていたのだから。もう私の事なんて、忘れていたんじゃないの……?
私の戸惑いをよそに、彼はいつかの逞しい腕など嘘のような痩せ細った手で私の頬を撫でる。まるで、とても愛おしいものを慈しむように。
「僕は、幸せだった……。少しおっちょこちょいだけど、献身的な妻。沢山の、可愛い子供達。温和な国民達。僕の人生は、“愛”に溢れていた……。それなのに……」
彼は何かを堪えるかのように眉を寄せた。それは病の苦痛によるものではなく、今までずっと心の奥底に閉じ込めていたものが溢れ出して、油断すると感情の波が彼を呑み込んでしまいそうに見えた。
「それなのに、僕は、君を忘れられなかった……!!」
その言葉で、ギリギリのところで保っていた彼の心の防壁が、決壊した。
「妻を愛しながら……! 子供達を慈しみながら……! 満たされた日々を過ごしているはずなのに……! 僕は、いつでも心のどこかで、君を求めていたんだ……!! 僕は、僕は、なんて、浅ましいんだ……!!」
感情の波が彼の瞳から溢れて、青白い頬を濡らす。
「確かに、一番大切なはずなのに、愛しているのに……。彼女達も、僕の愛を信じて、疑わなかったというのに……。
家族を想う、安らかな気持ちとは違う……君を想う、焦がれるような気持ちに、いつも僕の心は、君の元へ行きたいと叫んでいた……。
それは、なんて……なんて、酷い裏切りだろう……」
なんて事だろう。私にとってはほんの一瞬の時間だったけれど、人である彼にとって三十年近い年月というのは、とても長いものなのではないのだろうか。その長い年月を、私への想いと、家族への想いの間に挟まれて、ずっと苦しんでいたのだろうか。
彼が、純粋すぎるが故に。
『泣かないで、アレン。……まだ、私の事を好きだったなんて驚いたけど……。あなたは、あなたの義務を……いいえ、それ以上のものを全うしたわ。いつだって子供達も、アドリエンヌも、幸せそうな顔をしていたもの。彼女達に幸せを与えたのは、紛れもなくアレン。あなたなのよ?
あなたは、誰も裏切っていない。そうでしょ? 心がどこに行きたがっていたって、あなたはどこにも行かなかった。私の元へ来なかった。ずっと、家族の元にいたのよ』
そう、どんな事を言っても、結局私の元へ来なかった。人間だった頃、幾度となくその状況に心が悲鳴を上げていたのを覚えている。
口ではいくら私を愛していると言っていても、「土日は会えない」「子供が熱を出して」「嫁の実家に呼ばれて」――。いつだって、家族を一番に優先させていた『彼』。
そんな『彼』に嫌悪感を抱きながらも、離れられない自分も嫌いで、苦しくて、辛くて、思い通りにならない心なんていらないと思った。だけど――。
だせど、この虚無感はなんだろう。
今は、アレンが泣いていても、『彼』との事を思い出しても、自分が何を思っているのかが分からない。
アレンに哀しんで欲しくないと感じている事は分かる。だけど、それを感じている心が、何も感じていない私に遠くから教えてくれているだけのような気がして。全てのものがあやふやな存在に思えて、今、目の前で泣いているアレンでさえ、非現実的なものに見えてしまう。
「ディー、ナ……」
我に返りアレンを見ると、彼の息がより荒くなってきている事に気づく。
『アレン……。苦しいの? もう帰った方がいいわ。歩ける? 動物達を遣いに出して誰か呼んで来て貰いましょうか?』
しばらく待ったが、息をするので精一杯なようで返事はない。このままだと本当に死んでしまうのではないかという危機感に、私が動物達を呼ぼうと立ったその時。
痩せ細った手が私の腕を掴んだ。
「いい、んだ……。ここに、いたい……」
『でも……』
私の言葉を遮るように、彼は私の腕を掴む手に力を入れた。その痩せ細った手に、どうしてそんな力があるのかというくらい、強く、強く。
「君の、側で……死に、たい……」
もうあまり開かない瞼の中の翠色の瞳が、縋るように私を見つめた。けれど、確かな強い意志を持ったその眼差しに、私は何も言えなくなった。
純粋で、実直すぎるが故に、心と身体が自由にならないと泣いたアレン。誰にも見つからないのに、心に私を住まわせただけで家族を裏切ったと泣くアレン。
私には、そんな彼の精一杯の我儘を拒む事はできなかった。
最後に私を選んでくれたという浅ましい優越感もあったのかもしれない。
けれど、最後くらいは、彼の心を自由にさせてあげたかったのだ。
『アレン……。分かったわ。一緒にいてあげる……。あなたが、安らかに眠れるように』
彼の半身を起こして背中から抱き抱えると、荒かった息が少しマシになった。
彼の涙が頬を伝い、そのまま私の腕へと落ちて融けこむ。
家族への罪悪感。心を解き放った解放感。そして、私と共に居れる事の至上の幸福感――。
アレンの涙が、それを私に伝えてきた。
「ディー、ナ……。僕があげた、指輪……まだ、大切に、してくれてる、かい?」
『ええ、大切にしまってあるわ』
「今度こそ、誓う、よ……。死んでも……生まれ、変わっても……僕の心、は、君と、共に……」
アレンの息が、少しずつ小さくなってきていた。それと同時に、心臓の動きも緩やかになる。自然と、アレンを抱く腕に力が入った。
『アレン……。指輪、大切にするわ。ずっと、ずっと……』
「嬉しい、よ……。ああ、ディーナ……。僕は、幸せ、だ……。妻に、子供達に、どんな言葉で、罵られたって、いい……。僕は、ずっと……こうして、いた……ぃ」
途切れ途切れになりながらも、会えなかった分を取り戻そうと話すアレン。それもやがて空を覆っていた夜の闇が白み始めた頃、掠れて小さくなった声がより力を失い――
「ありが、とう……」
そう言って、アレンは何も言わなくなった。
『アレン。私の可愛い王子様……おやすみなさい……』
アレンと初めて会った日の事を、今でも鮮明に思い出せる。まだ私の自我がハッキリとせず、ただ泉の中で揺蕩っていただけの頃、足を滑らせて沈んで来たアレン。顔を真っ赤にさせながら、また私に会いに来ていいかと聞く姿がとても愛らしかった。
無邪気で、純粋で、可愛くて……。とても、大切だった。
その、アレンが今、私の腕の中で死んでしまった。
哀しい。
ああ、なんて哀しいの。
何も感じない。
あれだけ可愛がっていたのに。
会いたいと、思っていたのに。
どうして、何も感じないの。
哀しくない事が、哀しい。
アレンを抱きかかえたまま、太陽が昇っていく姿をただじっと眺めていた。
陽は昇り、やがて沈む。そしてまた陽は昇り、そうして世界は時を刻んでいく。時は人の身にも、動物にも、植物にも訪れる。
私だけ。私だけが変わらない。
変わりゆく世界に私だけが取り残されてしまったようで、人でない事に、初めて恐れを抱いた。
まだ太陽が昇りきっていない頃。数人の従者を連れたオデットとアドリエンヌが、息を乱しながらやって来た。
アレンがもう息を引き取ってしまったという事に、従者達も、いつも小憎たらしいオデットさえも慟哭していたけれど、アドリエンヌだけは、私の腕の中で幸せそうに眠るアレンを見て、ただただ呆然としていた。
その時のアドリエンヌの顔を、私は忘れる事ができなかった。
【ボツネタ集】
take1
アレン「ああ、あったかい……ディーナの身体は冷たいはずなのに……あったかい……なんだか……眠くなって、きた……」
『寝るなー!! 寝たら死ぬぞーーー!!』
私は必死に彼の頬をぶちました。するとどうでしょう。私のビンタと共に闘魂も注入されたようで、彼は勢いよく立ち上がり、「元気ですよー!」と叫ぶじゃありませんか。
そして彼は回復し、その後生きた化石となるまで長生きしたそうな。
~fine~
take2
アレンの息が、少しずつ小さくなってきていた。それと同時に、心臓の動きも緩やかになる。自然と、アレンを抱く腕に力が入った。
ネロ「僕はもう疲れたよパトラッs……」
『えっ!ちょっ!?アレンは!?アレーーーン!!?』
take3
加山雄三「ぼくぁ、幸せだなぁ」
『えっ!ちょっ!?アレンは!?アレーーーン!!?』
以上、ボツネタというより、小ネタ集でした(ノ∀`)