10.この世界のこと
オデットと過ごした一週間は、美容強化期間と言うよりも、私のお勉強の時間だった。
元々髪の毛以外は何もする必要の無い上等なものだったので、お手入れの時間はほんの小一時間程度で終わるのだ。しかしオデットは終わっても帰る事はなく、本を持ってきて日が暮れるまでここで過ごした。
小さな身体に不釣合なとても大きくて分厚い本を読んでいるものだから、どんな内容のものなのかと覗いてみるも字が読めない。そもそもこの国の言葉が何語なのかすら理解していないのだ。
では、どうやって話しているのかと言うと、テレパシーとでも言うのだろうか。私には視覚以外の五感が無いので、実際には音を聞く事ができないし、声帯すら無いが、“感じる”のだ。
どこかで音が聞こえると、私の全てがそれを感じ、人間であった頃よりも鮮明に、正確に私へと伝わる。それは人間や動物の発する声でも同じ。ただ、それが“音”としてだけではなく、“意思”として私に伝わってくるのだ。そして、私も“意思”を飛ばして会話している。
そんな訳で、特に不自由は無かったのだが、さすがに字は読めない。以前、セルジュに反省文を書かせた時は、彼に朗読して貰ったので、今回も朗読して貰おうとオデットにお願いしたのだが、とても嫌そうな顔をされた後に「あまり大声で言えるようなものじゃない」と言われた。
大声で言えないなんて、一体どんな不道徳な内容なのかと聞けば、遠い国の聖書なのだと言う。信仰する神が違うため、あまり大っぴらに読めないのだそうだ。
聖書と言えばキリスト教だろうと思って、なけなしの知識を披露すれば、「まったく違う」とそっけなく返され、逆にどこの宗教だと聞かれた。だからキリスト教だ、と言えば、あの世界的に有名な宗教をまったく聞いた事が無いと言う。
そこで、やっと私の中で疑問が浮かぶ。
その疑問を消化するように、オデットに嫌な顔をされながらも色々な質問をぶつけてみた。今さらながら、この国の名前に年号、周りの国の名前、信仰している神の名前、他にどんな神がいるのか、等々。
それらの答えは、私の予想を確実に正確なものにしていく。さらに極めつけはオデットが持ってきていた聖書の中に書かれている絵だった。
二足歩行の獣の絵。
萌え要素たっぷりの人間の容姿に獣耳などではなく、狼のようなライオンのような獣の容姿そのままで、身体付きだけが人間に近くなった感じのものだった。
人間だった頃にも、そういう悪魔的な絵を見た事はあったので、神話の中のものだろうと思っていたのだが、オデットがその絵を指さし、「これが昔うちの国に攻めて来たゴリュール人」とあたかも実際に存在するかのように言うのだ。今もそのゴリュール人とやらは存在するのかと聞いてみれば、当たり前だという風にオデットは頷く。
そこでようやく気づいた。ここは、地球ではないのだと。
今まで、タイムスリップをしたのかと思っていた。私自身はファンタジーな存在ではあるけれども、普通の人間しか見た事無かったし、魔法のような不思議な存在も聞いた事が無い。名前の響きもフランスっぽかったし、フランス語なんて知らないから文字を見ても、フランス語ってこんなんだったっけ? 時代が違うなら、文字も違って当たり前かしら? と思うくらいだった。
何よりも、無関心すぎたのが大きい。
正直、ここが地球では無いと知った今でも、特に混乱する訳でも悲嘆に暮れる訳でもない。
それは順応性が良いからといった訳ではなくて、私の希薄になった感情では少しの驚きを齎しただけで、そういう事もあるもんなんだな、と他人事のように感じるだけなのだ。
そんな無関心溢れる私を見て、オデットは「この国の守護精霊のくせに何も知らないなんておかしいでしょ!?」と、次の日からオデット先生によるお勉強会が始まった。
オデット先生は、まだ九歳なのにとても博識だった。
まずはこの国と泉の精の歴史から始まり、経済学、宗教概念を通じての哲学、果てには戦術指南書まで持ち出してきた。一体彼女は何になりたいのだろうか。
まあ、そんなオデット先生のおかげで、ある程度この世界の事は分かったのだが。
まず、世界は丸いという概念が無い。それは純粋にこの世界の摂理が地球とは違うからか、単に文化レベルが低いからかは分からない。でも、戦術指南書なるものに描かれていた戦争に使う道具を見た限り、文化レベルはとても低いとうかがえる。地球で例えるならば、中世どころかそれよりも少し前くらいのレベルではないだろうか。
風呂に入らない、糞尿を道に撒き散らす、といった不潔なイメージが中世以前にはあるのだが、この国の住民達はとても清潔そうで違和感を覚える。それも、オデット先生によるこの国の歴史の授業で解消された。
汚物で大地や水を穢す事を良しとしない初代『泉の精』が、『上下水道をしっかりとしろ』と注文をつけたらしい。糞尿の一部は肥やしにするそうだが、それ以外は下水道を通って、二段階に分けて処理をし、最後に私がいる泉からひいている水で浄化してから川に流すのだそうな。
よく分からないが、この国の下水道は地球の中世以前に比べたらとても発展しているのではないだろうか。そもそも汚物を綺麗にする技術があったなら、疫病は蔓延していなかっただろうし。
文化レベルに、どうにもチグハグ感がある。
単に、積極的に戦争しないからそっちの技術が発展しなかっただけなのか。別の世界で地球の常識を当てはめて考えてはいけないのか。
それとも、初代『泉の精』もこことは違う世界から来て、上下水道の技術を提供したのか。
なんて事を考えていたら、オデット先生に「ちゃんと聞いてるの!?」とお叱りを受けた。言い訳混じりに考えていた事を話すと、水色の瞳が飛び出てしまうんじゃないかというくらい驚かれた。
どうやら、『泉の精』が代替わりしていて、しかも私がすでに二桁の代だという事を知らなかったらしい。国では、建国の時から三百年もの間ずっと同じ精霊だと思われていたようだ。
「寿命があるの?」
と聞かれたが、むしろそこは私が知りたい。
いや、本当のところを言うと、そんなに興味は無い。人間にさえならなければ、私は死ぬのだとしても、ミジンコになるのだとしても構わないのだから。
ただ、歴代の『泉の精』の記憶を覗いて見ると、代替わりの前後だけどうしても『荒れる』のだ。激しく波打つ水面のように、何かの意思が強く拒否しているかのように、私の意識の侵入を拒む。
特に興味は無いけれど、そんな意味あり気な現象が起きればちょっとした好奇心が疼くというもの。しかし、どう頑張っても見えないので、そこまで執着の無い私は早々に諦めたのだが、オデットの言葉でまた好奇心が顔を出す。また今度挑戦してみよう。
他にも、この国の情勢だとか、周辺諸国の不穏な動きだとか、主に政治的な事をオデット先生から聞いたのだが、馬ならぬ精霊の耳に念仏状態だった。
適度に相槌を打って、真剣に聞いているフリは頑張ってしていたが、興味が無かったので全く身に入らなかった。一生懸命教えてくれたオデットには悪いと思うけども、私は人間社会に興味は無い。この泉から広がる美しい世界を守れさえすれば、それでいいのだ。
うっかりオデットの美容強化期間だという事を忘れかけた日もあったのだが、ぎりぎりお手入れをしてから帰って貰ったりと、最初の二日は除いて五日間、あっという間に過ぎた。
結果的に言うと、大変満足だ。
絡まって手ぐしすら通すのが困難だったもじゃもじゃの薄灰色の髪の毛。それは予想していた通り銀色に輝いた。いや、予想を遥かに超えた美しさになった。
オデットが動くたび、ふわりと柔らかく波打つ銀色の髪。その煌めきと共にふわふわと揺れる髪のおかげで、冷然なイメージを抱かせるオデットの美貌が、若干柔らかいものへと変わる。雪の女王から、雪の妖精になった感じだろうか。
それに、髪だけでなく、何故か肌まで綺麗になった事が驚きだった。
あまり赤みを帯びていなかった白く透き通る肌は、より透明に、けれど頬と薄い唇にほんのり色づいた桃色が、健康的な美貌をあらわしている。
髪しかお手入れしていなかったのに、何故……と、一週間を思い出してみると、泉の水のせいかもしれない、と思った。
オデットはまずここに来て顔を洗い口をゆすぐ。起きてそのまま来るからだ。酷い時は寝着のまま来ていた。そして喉が渇くと泉の水を飲む。
下水処理も最後に泉の水で浄化すると言っていたし、何か色んなものを綺麗にする効能があるのかもしれない。そう考えると、オデットのこの髪の煌めきも納得がいく。とてもじゃないけど、一週間で綺麗になるなんて思えないほどに傷んでいたのだから。
泉の効能に驚きつつも、綺麗になったオデットをニコニコと眺めると、気味が悪いといった目で見られた。
「結局、一週間私をここに来させて、何がしたかったの?」
この子は鏡を見ていないのだろうか。ああ、寝着のまま来るくらいだから、そう考えるだけ無粋というものか。
最初に、薬剤調合道具セットと一緒に鏡を持って来て貰っていたので、それを取り出してまたニコニコとオデットに見せた。どんな反応をするのかと、少しワクワクしながらオデットを見ていると――
パリンッ!!
鏡を私の手と共に、勢いよく払いのけられた。
まるで穢らわしいものを見たような、穢らわしいものに触れたくないように――オデットは忌々し気に顔を歪ませる。
『オデット……? どうしたの?』
地面に散った鏡の破片が陽の光を乱反射させ、オデットの揺れる瞳に幾つもの光が映る。
そして、せっかく綺麗になった銀色の髪をぐしゃぐしゃと掻き乱し、乱れた髪の合間から覗く氷のような瞳が私を睨んだ。
「どんなことしたって、汚いものは汚いのよ」
『……え?』
何を言っているのか。そう問いかける前に、オデットは私に背を向け、そのまま走り去って行ってしまった。
何が汚いのか。何がオデットをそう思わせたのか。私は何か変な事をしたのだろうか。
思考がぐるぐる、ぐるぐると回る。
最初に訪れたのは混乱。それから不安。そして最終的に――怒りだった。
そうだ、あの子は偏屈の後輩だったのだ。自分が綺麗になっても、素直に喜ぶはずがない。きっと、よく分からないところで勘違いなりなんなりして、無駄に悩んでたりするに決まっている。絶対そうだ!
それともアレか。美的感覚がおかしいのか。ブサイク専門をB専と呼ぶアレなのか。人が望んでも手に入らないような美貌を持っているクセになんて贅沢な。世の中に化粧で誤魔化しきれない容姿に嘆く女が一体どれほどいると思っているのか。
許せない。その根性(美的感覚)叩き直してやる!
その日。
精霊になって初めて、靄のかかったような意識がハッキリした事に、その時の私はおかしな方向にいった怒りのせいで気がつかなかったのだった。