1.人間をやめた日
恋は錯覚だ。
遺伝子を残そうとするが故の本能がそうさせているのだ。
だから、この胸の痛みも、頬を伝う滴も、錯覚なんだ。
「もう、関係を終わりにしたい」
そう言われたのは、彼の奥さんが三度目の自殺未遂をした後だった。
彼が私と一緒になりたいと、奥さんに離婚を持ちかけたのが彼女をそういう行為に走らせた。
私は別に彼と一緒になりたいとか、そんな気はなかった。そもそも、付き合う気なんてなかったのだ。妻子ある人と付き合うなんて、面倒臭いにも程がある。
ただ、彼の長くて少し無骨な指はどう動くのか、その唇はどんな感触だろうか、腕は、足は、腰は……。言ってしまえば、彼に欲情したのだ。
酒とは恐ろしいもので、普段抑えられている欲望が剥き出しになってしまう。接待でぐでぐでに飲まされて、彼が家まで送ってくれたその時に、つい、彼の唇をぺろりと舐めてしまった。その後は一夜のアバンチュールってやつだ。
正直、最高だった。素敵な一夜をありがとうございます、幸せな夜の思い出として大切にします。そう拝んで終わらせようとしたのに、彼の一言で台無しになってしまった。
「ずっと、君の事が好きだったんだ」
なんて、面倒臭い。私はそんなドロドロの愛憎劇を繰り広げる気は無い。彼に控え目に、けれど少し突き放す感じで不倫はよくないと説得した。
それなのに、彼の私を見る目は日に日に熱を帯びていった。上司である彼は職権を乱用し、私と一緒に過ごせる時間を増やし、ストーカーよろしく家の前まで待ち伏せしていたりと、求愛行動は留まることを知らずに勢いを増していくだけ。肉食系ではあるけども、押しに弱い私。結局ずるずると流されて関係を続けてしまった。
それでも、嫌々ではなく彼と過ごす時間はとても穏やかで、女としての歓びと幸せを感じてしまったのは否定しない。
いや、そもそもそれは本当に私の気持ちだけからくる感情だったのだろうか。遺伝子は自分の作りに遠い遺伝子を求めるという。
私が好きだと思ったあの声も、指も、匂いも、目も唇も、全て遺伝子が求めていただけなのではないか。
彼の遺伝子を取り込んで子孫を残せと。
思えば、仕事が忙しく疲れている時は早く帰って寝たらいいのに、いつも私を求めてきた。
それも、疲れすぎて死を意識した体が死ぬ前に子種を残そうという本能が性欲を煽っているらしい。
だから、私を純粋に好きだからという訳ではなく、遺伝子がそうさせているのだ。私に自分の遺伝子を残そうと。
愛は、家族愛や隣人愛といった言葉もあるくらいだから別として。恋は、きっと遺伝子を円滑に残す為の錯覚なんだ。
ああ、なんて煩わしいんだろう。
そんな錯覚ごときに私の心は乱されるのか。
煩わしい。人間でいる限りこの煩わしいものから解放される事はないのだろう。
それなら、私は人間をやめてしまいたい。
……くだらない。どうあっても、死なない限りは人間である事には変わらないのだ。そんな現実逃避なんて時間の無駄だ。私の心がもう少し脆ければ壊れてしまう事もできたのかもしれないが、生憎無駄に丈夫にできている心が今は恨めしい。
それでも、今回はさすがに疲れてしまった。まだジクジクと疼く胸が煩わしい。柄にもなく傷心旅行でもしてみようか。まだ消化していない有休もある事だし。そうと決まれば即実行。まずは本屋に行って旅行本でも漁ろう。
鏡を覗いて身だしなみチェック。一晩中泣いてしまったから目がの○゛太のようだ。今日が休みで良かった。
鼻歌を歌いながら家の鍵を閉めていたら「すいません」と、か細い声がした。そちらを向くと、左腕に包帯を巻いたやつれた女が立っていた。
彼の奥さんだ――……!
見た事は無かったけど直感でそう思った。これはどうするべきか。とりあえず家に上げて粗茶でも? いや、有無を言わさず土下座すべき? ああ、慰謝料請求しにきたかな? 参ったな。傷心旅行代をそちらに回さなければ……。
そんなくだらない事を考えていると、腹部に衝撃がきた。奥さんがいつの間にか鼻と鼻がくっつくくらいの距離にいて、にたり、と不気味に微笑んでいる。
――え?
ゆっくりと、奥さんが離れていく。あらわになったのは、私の腹部に刺さった刃物。
え? まさか、ドロドロの愛憎劇の悲惨な結末ってやつ?
痛い。いや、痛いって言うより、なんか、熱い? ジンジンと熱い。確かに刺されているのに、なんか、実感が無い。ああ、血があまり出て無いからかな? この刺さってるヤツ抜くとぶわーって出てくるんだっけ? ああ、でも血が滲んできてる。ヤバイな。救急車呼ばないと。携帯。携帯を……、掴めない。手が震える。なんだろう、これ? ちょっと刺されたくらいでこんな風になるもの? もしかして、刺されたショックでパニックになってるとか? なんだ、私も可愛いとこあるじゃないか。
「なんで!? なんでまだ死なないの!? 早く死んでよ!!」
もぞもぞとしている私に奥さんは金切り声を上げ、顔を醜く歪めて私を思いっきり両手で突き飛ばす。
後ろはコンクリートの壁。そこに、私の頭は打ち付けられた。
「ナミ!!」
私が意識を手放す前に聞いたのは、私を呼ぶ彼の声。
何しに来たのよ。また私に煩わしい思いをさせる気?
ああ、でも、もうどうでもいい。
だって、これでもう人間やめれるかもしれないんだもの。