余りある美貌の悪役令嬢は、今世で地獄の女王になる
エリザベート・ローゼンヴェルクという悪役令嬢がいた。
王国の貴族なら、誰もが一度はその名を聞かされる。
教会では、傲慢な美貌を戒めるための悪女として。
貴族学院では、王家に逆らった公爵令嬢の末路として。
夫人たちの茶会では、男を惑わせ、女たちを嫉妬で狂わせた毒薔薇として。
そして王都の劇場では、断罪の夜に婚約者も聖女も貴族たちもすべて奪って去った、恐ろしく美しい女主人公として。
語る者によって、彼女の姿は変わった。
ある物語では、エリザベートは王太子を呪い殺した魔女だった。
ある戯曲では、王太子の愛を踏みにじった冷酷な悪女だった。
ある詩では、彼女は誰にも所有されなかった薔薇だった。
ある令嬢たちの間では、密かな憧れを込めて、こう呼ばれていた。
断罪の夜に、すべてを奪った女。
その夜、王宮の大広間には黒い夜蛾が迷い込んだという。
金の燭台の火へ近づき、翅を焼かれて落ちたという。
深紅のドレスを着たエリザベートは、王太子アルベルトから婚約破棄を告げられた。
隣には、白いドレスの聖女候補リリア。
宰相子息ユリウスが告発状を読み上げ、貴族たちは毒薔薇が散る瞬間を待っていた。
けれど、エリザベートは散らなかった。
泣かなかった。
縋らなかった。
むしろ、彼女は笑った。
階段から突き落としたという罪を返し、毒菓子の疑いを返し、男を惑わせたという侮辱を返し、最後には王太子の愛さえも否定した。
殿下は、わたくしを愛していたのではありませんわ。
わたくしに愛されているご自分が、好きだっただけ。
その台詞は、今でも王都の劇場で演じられている。
若い令嬢たちは、その場面で息を呑む。
夫人たちは眉をひそめながら、続きを見ずにはいられない。
男たちは笑いながら、なぜか目を逸らす。
最後にエリザベートは、王家の指輪を床に落とす。
青い宝石が赤い絨毯を転がる。
彼女は踊る。
自分を断罪しようとした者たちの前で、最も美しく踊る。
そして、こう言って去っていく。
誰か一人のものになれなんて、やんなっちゃうわ。
それが、伝わっている物語だった。
美しく、恐ろしく、少しばかり作り物めいた悪女譚。
その悪女譚の中でも、王都で最も有名な戯曲があった。
題は『シニスタ・シスター』。
白い聖女と、赤い悪女。
守られる妹と、恐れられる姉。
同じ男の弱さに触れながら、片方は白い檻へ入り、片方は黒い檻を壊した。
舞台の最後、エリザベートは客席に向けて笑う。
切り分けたいなら、お好きになさい。
薔薇は花弁になっても、香りまでは殺せませんもの。
その台詞は評判になった。
傲慢だと怒る者もいた。
美しいと涙ぐむ者もいた。
けれどヴェロニカ・ローゼンフェルドだけは、その物語を笑えなかった。
初めて乳母からその名を聞いた時、彼女はまだ五歳だった。
乳母は寝物語のつもりだったのだろう。
美しすぎる娘は傲慢になってはいけませんよ。
誰かを傷つければ、いつか自分も裁かれるのですよ。
そんな教訓めいた声で、エリザベートの話を聞かせた。
ヴェロニカは寝台の上で、黙ってそれを聞いていた。
怖かったのではない。
懐かしかったのだ。
黒い夜蛾。
金の燭台。
深紅のドレス。
白い指に滲む血。
床に落ちた青い指輪。
そのどれもが、物語の挿絵ではなかった。
ヴェロニカは知っていた。
燭台の火が揺れる音を。
夜風に含まれた湿り気を。
王太子の顔から血の気が引く瞬間を。
指輪を外す時、皮膚が裂ける痛みを。
そして、あの夜、自分がどんな顔で笑ったのかを。
乳母が言った。
「恐ろしい悪女でございますね」
五歳のヴェロニカは、薄い寝具を握りしめたまま、小さく首を傾げた。
「悪女?」
「ええ。王太子殿下を惑わせ、国中を騒がせた女でございます」
「違うわ」
乳母は目を瞬かせた。
「お嬢様?」
ヴェロニカは窓の外を見た。
月のない夜だった。
庭の薔薇が、闇の中で黒く沈んでいる。
「彼女は、ようやく息をしただけよ」
乳母はその言葉の意味が分からず、ただ青ざめた。
その夜から、ヴェロニカは同じ夢を見るようになった。
物語として語られる悪役令嬢の夢。
けれどそれは、誰かが作った戯曲ではない。
彼女自身の記憶だった。
黒い夜蛾が、火に落ちた。
その夢を、ヴェロニカ・ローゼンフェルドは何度も見た。
王宮の大広間。
金の燭台。
湿った夜風。
深紅のドレス。
黒いレース。
白い指に滲む血。
床に落ちた青い指輪。
そして、自分を見つめる男の顔。
「私は、君を愛していた」
男はそう言った。
けれど夢の中の女は、笑っていた。
美しく。
恐ろしく。
誰よりも冷たく、誰よりも熱く。
「いいえ」
女は言う。
「殿下は、わたくしを愛していたのではありませんわ」
赤い唇が、かすかに動く。
「わたくしに愛されているご自分が、好きだっただけ」
男の顔から、血の気が引いた。
その顔を見た瞬間、ヴェロニカはいつも目を覚ます。
絹の寝台。
薄い天蓋。
朝の光。
薔薇の香を含ませた水差し。
そして、白い寝間着の胸元で乱れる自分の呼吸。
ヴェロニカはゆっくりと身体を起こした。
寝台の脇では、侍女のネリスがすでに控えている。
「お嬢様。またお悪い夢を?」
「ええ」
ヴェロニカは額にかかった黒髪を払った。
黒と呼ぶには深すぎる髪だった。
夜を編んだような色。
光を受ければ、赤い艶が底から滲む。
「夜蛾が死ぬ夢を見たわ」
「不吉でございますね」
「そうかしら」
ヴェロニカは、白い指を見る。
左手の薬指。
そこには、今世でも婚約指輪があった。
王太子レオンハルトから贈られた、蒼玉の指輪。
王家の祝福。
王太子妃となる証。
そう呼ばれている。
けれどヴェロニカは知っていた。
指輪とは、祝福の形をした鎖である。
少なくとも、前の人生ではそうだった。
「火に近づいたのは、蛾の方ですもの」
ネリスは何も言わなかった。
ヴェロニカの言葉には、時折、意味が深すぎるものが混じる。
幼い頃からそうだった。
誰も知らない名を口にする。
見たことのない王宮の間取りを言い当てる。
まだ出会ってもいない者の顔を、懐かしいもののように語る。
ローゼンフェルド公爵家では、それを気味悪がる者もいた。
だが誰も、ヴェロニカを遠ざけることはできなかった。
美しすぎたからだ。
人は、あまりに美しいものを見ると、恐怖と崇拝の区別がつかなくなる。
ヴェロニカは生まれた時から、そういう娘だった。
赤子の頃から、泣けば乳母が震えた。
幼い頃から、笑えば使用人が息を呑んだ。
社交界に出れば、令嬢たちは嫉妬し、貴公子たちは熱を上げ、夫人たちは眉をひそめ、老貴族たちは神話の悪女を見るように目を細めた。
ヴェロニカは、そのすべてを浴びて育った。
憧れ。
欲。
嫉妬。
恐怖。
嫌悪。
隠しきれない恋慕。
人が自分へ向ける感情は、熱を持っていた。
その熱が、いつからか彼女の内側へ流れ込むようになった。
最初は気のせいだと思った。
誰かに羨まれた日は、肌が艶めいた。
誰かに憎まれた夜は、眠らずとも疲れなかった。
誰かに欲望を向けられた瞬間、胸の奥で黒い花が開くような感覚があった。
前世で、エリザベートは奪った。
視線を。
嫉妬を。
欲を。
恐怖を。
後悔を。
恋を。
そのすべてを抱えて、断罪の夜を去った。
けれど、奪ったものは死んでも消えなかった。
ばらばらにされた物語の中で、薔薇の香りだけが残ったように。
彼女の魂にもまた、あの夜の熱が残った。
そして王太子レオンハルトに婚約者として引き合わされた日、ヴェロニカは理解した。
ああ。
また、始まったのだと。
レオンハルト・グランヴァルト。
この国の王太子。
金の髪。
青い瞳。
整った顔。
優しげな声。
けれど、ヴェロニカを見る時だけ、その瞳の奥に怯えが混じる。
前の男と同じだった。
夢の中で「愛していた」と言った男。
王太子アルベルト。
エリザベート・ローゼンヴェルクの婚約者。
ヴェロニカは、初めてレオンハルトと目が合った時、思った。
また同じ顔をしている。
また、わたくしを怖がっている。
また、白い女へ逃げようとしている。
その予感は、外れなかった。
聖女候補ミレイユ・ラフィーネが王宮へ迎えられたのは、それから半年後のことだった。
白いドレスが似合う少女だった。
柔らかな銀茶の髪。
潤んだ薄青の瞳。
小鳥のように細い肩。
誰かに守られるために生まれてきたような姿をしていた。
最初、ミレイユは本当に怯えていた。
ヴェロニカの声が少し強いだけで肩を震わせた。
ヴェロニカが注意すれば、涙を浮かべた。
階段で足を滑らせた時、最初に手を掴んだのはヴェロニカだった。
けれど、その手は冷たかった。
「足元をご覧なさい」
そう言った声が、あまりに厳しかったから。
ミレイユは泣いた。
周囲はヴェロニカを責めた。
それから、すべてが簡単になった。
ドレスの裾が破れた時も。
菓子で気分が悪くなった時も。
神殿の儀式に遅れた時も。
ミレイユが俯けば、誰かがヴェロニカを疑ってくれた。
泣けば、レオンハルトが庇ってくれた。
震えれば、貴族たちが怒ってくれた。
「わたしのせいで」と言えば、皆が「違う」と言ってくれた。
甘かった。
怖いくらいに甘かった。
その甘さを、ミレイユはやめられなくなった。
ヴェロニカは、それを見ていた。
前世のリリアを見るように。
白いドレスの少女は、自分が檻に入っていると気づいていない。
守られることもまた、檻なのに。
怖がられることが檻であるように。
「ネリス」
「はい」
「今夜のドレスは、黒薔薇色にして」
「黒薔薇色、でございますか」
「赤を飲み込んだ黒よ」
ヴェロニカは左手の指輪を撫でた。
蒼玉が冷たく光る。
「前は深紅だったもの」
ネリスは、その意味を尋ねなかった。
王宮の大広間には、夜の始まりから甘いざわめきが満ちていた。
聖女候補ミレイユ・ラフィーネの祝福披露。
名目はそうだった。
彼女が神殿で授かった癒しの力を、王族と貴族たちの前で披露する。
だが、集められた貴族たちは別の理由を知っていた。
今夜、王太子レオンハルトが公爵令嬢ヴェロニカとの婚約を破棄する。
そして、聖女ミレイユを新たな妃候補として迎える。
それはまだ正式発表ではない。
けれど、誰もがそうなると信じていた。
白いドレスのミレイユは、レオンハルトの隣に立っている。
レオンハルトの袖を掴む指は、控えめで、弱々しくて、けれど決して離れない。
「殿下」
ミレイユは小さく言った。
「本当に、よろしいのでしょうか」
「君は何も心配しなくていい」
レオンハルトは優しく答えた。
「ヴェロニカの横暴は、今夜で終わる」
「でも、わたしのせいで……」
「君のせいではない」
その声に、周囲の若い令嬢たちがうっとりと息を吐いた。
優しい王太子。
可哀想な聖女候補。
恐ろしい悪役令嬢。
分かりやすい舞台だった。
誰にでも理解できる配役だった。
楽団の音が、ふと揺れた。
大広間の扉が開いた。
風が入る。
燭台の火が揺れる。
高窓の外から、黒い夜蛾が一匹、迷い込んだ。
それは火のまわりを頼りなく舞いながら、まるで誰かの到着を告げるように、大広間の中央へ影を落とした。
ヴェロニカ・ローゼンフェルドが、扉の向こうに立っていた。
黒薔薇色のドレス。
赤ではない。
黒でもない。
血を吸い、夜を纏い、なお底に熱を抱えた色。
喉元には黒曜石。
耳元には、赤い石が一粒ずつ。
髪は高く結い上げられ、細い首筋が燭台の光を受けて白く浮かぶ。
彼女が一歩踏み出すと、大広間の空気が変わった。
誰もが見た。
見てしまった。
美しい。
怖い。
憎い。
羨ましい。
近づきたい。
逃げたい。
その矛盾が、百人分、千人分、彼女へ向けられる。
ヴェロニカは微笑んだ。
美味しい。
胸の奥で、黒い花が開く。
前世のエリザベートは、この熱を飾りにした。
今世のヴェロニカは、この熱で咲く。
「ご機嫌よう、レオンハルト殿下」
彼女は王太子の前で礼をした。
ミレイユの指が、レオンハルトの袖を強く握る。
レオンハルトは喉を鳴らした。
見るな。
見てはいけない。
今夜はこの女を裁くのだ。
もう怯える必要はない。
もう、この女の目に自分を映される必要はない。
そう思っていたのに。
ヴェロニカが目の前に立つと、彼はまた、自分が裸にされるような感覚を覚えた。
「ヴェロニカ・ローゼンフェルド」
楽団の音が止まった。
囁きも止まった。
燭台の火だけが、わずかに揺れている。
夜蛾が、火に近づいた。
「私は、君との婚約を破棄する」
大広間が、小さく息を呑む。
ついに。
始まった。
誰もがヴェロニカを見た。
怒るか。
泣くか。
縋るか。
崩れるか。
けれどヴェロニカは、うっとりするほど穏やかに微笑んだ。
「ええ。存じておりますわ」
レオンハルトの眉が動く。
「何をだ」
「あなたはいつも、そうおっしゃるもの」
その一言で、大広間の温度が下がった。
ミレイユが顔を上げる。
レオンハルトは言葉を失った。
宰相子息ユリウス・クラウゼンだけが、わずかにこめかみを押さえる。
今、何かを見た。
赤いドレス。
血のついた白い手袋。
自分によく似た男が、深紅の女へ手を差し出している。
一曲、お相手願えますか。
知らない記憶。
ありえない記憶。
けれど、掌に血の温度が蘇った。
「ユリウス」
レオンハルトの声に、ユリウスは我に返る。
「罪状を」
「……はい」
ユリウスは告発状を開いた。
紙を持つ指が、わずかに震えている。
「ヴェロニカ・ローゼンフェルド公爵令嬢。あなたには、聖女候補ミレイユ・ラフィーネ嬢への度重なる嫌がらせ、王太子妃候補としての権威を利用した令嬢たちへの圧力、さらに殿下への不誠実な態度が認められます」
ヴェロニカは黙って聞いている。
「階段でミレイユ嬢を突き落とそうとした件」
「まあ」
「茶会で酒精入りの菓子を出し、ミレイユ嬢を倒れさせた件」
「懐かしいこと」
「ドレスを裂かせた件。神殿の儀式に遅れるよう侍女に命じた件。さらに、複数の令嬢に対してミレイユ嬢と距離を置くよう圧力をかけた件」
貴族たちがざわめく。
ミレイユは青ざめて俯いた。
レオンハルトは彼女を庇うように一歩前へ出る。
「弁明はあるか」
ヴェロニカは首を傾げた。
「必要ですの?」
レオンハルトが眉を寄せる。
「何?」
「証拠など、どうでもよろしいのでしょう?」
会場の空気が刺々しくなる。
ヴェロニカはゆっくりと周囲を見渡した。
「皆様は、わたくしが悪女であれば満足なのですわ」
令嬢たちが息を呑む。
「殿下は、わたくしが恐ろしければ逃げられる」
レオンハルトの顔が強張る。
「ミレイユ様は、わたくしが冷酷であれば泣いていられる」
ミレイユの肩が跳ねた。
「皆様は、わたくしが罪人であれば、安心して見物できる」
ヴェロニカは笑った。
「本当に、よく出来た舞台ですこと」
その言葉は、前世の大広間にも響いた言葉だった。
ユリウスの頭の奥で、何かが軋む。
赤い女。
深紅の裾。
王太子の敗北。
床に落ちた指輪。
そして、女の声。
今宵はよい夜でしたわ。
わたくしが悪女であることを、こんなにも熱心に証明してくださって。
ユリウスは息を飲んだ。
違う。
そんな記憶はない。
自分は今世で彼女と出会ったばかりだ。
それなのに、なぜこの手は、彼女の血を覚えているのか。
レオンハルトが声を荒げる。
「ごまかすな、ヴェロニカ! 君はミレイユを傷つけた!」
「傷つけた?」
ヴェロニカはミレイユを見る。
白いドレスの少女は震えていた。
今にも泣きそうだった。
けれど、泣けない。
ヴェロニカに見られているから。
その涙がどこから来るのか、見抜かれている気がするから。
「ミレイユ様」
ヴェロニカの声は柔らかかった。
柔らかすぎて、逃げ場がなかった。
「泣けば、誰かが守ってくださるのでしょう?」
「……違います」
「震えれば、殿下が怒ってくださる」
「違います」
「俯けば、周囲の方々があなたの代わりにわたくしを憎んでくださる」
「違う……」
「甘いでしょう」
ミレイユの唇が震える。
ヴェロニカは少しだけ近づいた。
「守られることは、天国にいるようでございましょう?」
ミレイユは答えられなかった。
レオンハルトが割って入る。
「やめろ!」
ヴェロニカは彼を見た。
「ですが殿下」
その目に射抜かれた瞬間、レオンハルトの声が喉で止まった。
「天国の高みは、案外、地獄の底と近いものですわ」
大広間の床が、かすかに鳴った。
最初は、誰も気づかなかった。
ただ燭台の火が、大きく揺れた。
夜蛾が火から離れ、ふらふらと天井へ上がる。
次に、令嬢の一人が悲鳴を上げた。
床に、花が咲いていた。
黒赤い花。
薔薇にも見える。
曼陀羅華にも見える。
蛾の翅を重ねたようにも見える。
絨毯の模様ではなかった。
石床の隙間から、影のような茎が伸び、薄い花弁を開いている。
ひとつ。
ふたつ。
十。
百。
黒赤い花が、大広間に広がっていく。
「これは何だ!」
騎士が剣に手をかけた。
だが足元の花に触れた瞬間、その騎士は膝をついた。
顔が赤く染まる。
彼はヴェロニカを見上げた。
憎しみではない。
欲でもない。
恐怖でもない。
そのすべてが混ざった目だった。
ヴェロニカは微笑む。
「触れてはいけませんわ。皆様の中にあるものを、少し花にしているだけですもの」
ユリウスが叫んだ。
「これは王家の結界ではない!」
「ええ」
ヴェロニカは彼を見た。
「わたくしのものですわ」
レオンハルトは青ざめた。
「君は、何をした」
「何も」
ヴェロニカは左手を持ち上げる。
蒼玉の指輪が、燭台の光を受けて冷たく光った。
「ただ、思い出しただけです」
指輪に触れる。
その瞬間、ヴェロニカの指に赤い線が走った。
皮膚が裂けた。
血が滲む。
前世と同じ場所。
同じ痛み。
同じ熱。
大広間が、別の夜と重なった。
深紅のドレスの女がいる。
王太子アルベルトがいる。
白いドレスのリリアがいる。
告発状を持つユリウスがいる。
床に落ちる青い指輪。
血のついた手袋。
やんなっちゃうわ、と笑う声。
貴族たちが一斉に息を呑んだ。
それは幻だった。
だが幻にしては、生々しすぎた。
レオンハルトは、見知らぬ男の目を通してヴェロニカを見ていた。
違う。
ヴェロニカではない。
エリザベート。
自分はその名を知っている。
知らないはずなのに、知っている。
自分によく似た男が、彼女に言った。
私は、君を愛していた。
彼女は否定した。
そして男は、壊れた。
レオンハルトは膝をつきそうになった。
「何だ……これは」
「前世ですわ」
ヴェロニカの声が、大広間に落ちる。
「わたくしの名は、かつてエリザベート・ローゼンヴェルクでした」
貴族たちは凍った。
古い名だった。
伝承に残る悪女の名。
断罪の夜に王太子を破滅させ、王宮中の貴族を沈黙させ、社交界を恋と嫉妬で焼いた女。
余りある美貌の悪役令嬢。
王都の舞台で何度も演じられた毒薔薇。
『シニスタ・シスター』の赤い悪女。
戯曲の中の女が、今ここに立っている。
ヴェロニカは笑った。
「前世で、わたくしは王家の指輪を外しました。誰のものにもならないと決めました。皆様の欲も嫉妬も恐れも、全部いただいて帰りました」
床の花が揺れる。
「けれど、不思議ですわね」
彼女の目が、レオンハルトへ向く。
「奪ったものは、死んでも消えませんでした」
レオンハルトは後ずさる。
ミレイユの袖を掴もうとした。
だが、ミレイユは動けなかった。
彼女もまた幻を見ていた。
リリアという白い少女。
守られて、庇われて、泣けなくなった少女。
逃げ場にされた女は、いずれ逃げ場ごと捨てられる。
その声が、ミレイユの胸を焼いた。
「嫌……」
ミレイユは小さく言った。
「わたしは、そんなつもりじゃ……」
「ええ」
ヴェロニカは優しく頷いた。
「前のあの子も、きっとそんなつもりではなかったわ」
ミレイユの顔が歪む。
慰めではなかった。
許しでもなかった。
ただ、同じ弱さを見つけられただけだった。
ヴェロニカは指輪を外そうとした。
蒼玉が冷たく光る。
王家の守護。
王家の祝福。
王家の鎖。
指輪は抜けない。
皮膚に食い込む。
血が増える。
レオンハルトが叫んだ。
「やめろ、ヴェロニカ!」
「なぜ?」
「血が……」
「ご心配くださるの?」
ヴェロニカは笑った。
「今さら?」
レオンハルトの顔が歪む。
彼は前へ出ようとした。
だが黒赤い花が足元に絡みつく。
動けない。
「君は私を恨んでいるのか」
「いいえ」
ヴェロニカは即答した。
「愛しておりますわ」
その言葉は、大広間を別の意味で凍らせた。
レオンハルトは目を見開く。
ミレイユは息を呑む。
ユリウスは、痛むように眉を寄せる。
ヴェロニカは微笑んだ。
「愛しているから、逃がしたくないのです」
指輪が少し動く。
「愛しているから、忘れられるのが嫌なのです」
血が白い指を伝う。
「愛しているから、あなたが別の女の袖を握るたび、少し殺したくなるのですわ」
ミレイユが叫んだ。
「そんなの、愛じゃありません!」
ヴェロニカはゆっくりと彼女を見る。
「では、あなたのそれは愛でしたの?」
ミレイユは固まった。
「あなたは殿下を愛していらした?」
「わたしは……」
「それとも、殿下に庇われるご自分が好きでした?」
ミレイユの瞳に涙が浮かんだ。
今度は、誰も彼女を庇わなかった。
庇えなかった。
自分にも同じ問いが刺さっていたからだ。
レオンハルトはミレイユを愛していたのか。
それとも、ヴェロニカから逃げた先にいる優しい女を愛していたのか。
貴族たちはヴェロニカを憎んでいたのか。
それとも、彼女を憎むことで自分の嫉妬を正当化していただけなのか。
誰も答えられない。
大広間の花は、さらに咲いた。
花弁の奥から、囁きが聞こえる。
美しい。
怖い。
欲しい。
憎い。
忘れられない。
愛していた。
愛していた。
愛していた。
それは、前世から彼女に向けられ続けた声だった。
ヴェロニカは指輪を引いた。
今度こそ、蒼玉の指輪が抜けた。
皮膚が裂け、血が一滴、床へ落ちる。
黒赤い花が、その血を吸って一斉に開いた。
燭台の火が、青く揺れる。
誰かが悲鳴を上げた。
大広間の天井が消えていた。
いや、消えたように見えた。
頭上には、夜空が広がっている。
月はない。
星もない。
ただ、天国と呼ぶには暗すぎ、地獄と呼ぶには美しすぎる空があった。
黒い夜蛾が、無数に舞っている。
ヴェロニカは指輪を床へ落とした。
硬い音が響く。
前世と同じ音。
けれど今回は、誰かが拾うことを待っていない。
「殿下」
ヴェロニカはレオンハルトへ歩み寄る。
花は彼女の足元だけを避ける。
黒薔薇色の裾が揺れるたび、花弁が礼をするように伏せた。
「選ばせて差し上げます」
レオンハルトは震えた。
「何を……」
「甘い夢の中で、永遠にわたくしを愛するか」
一歩。
「過去から積もった女たちの声に裁かれるか」
もう一歩。
「それとも、わたくしになさるか」
レオンハルトの喉が鳴る。
天国。
地獄。
ヴェロニカ。
どれを選んでも、救いには見えなかった。
天国を選べば、彼女のいない幸福へ逃げることになる。
地獄を選べば、自分の弱さを裁かせることになる。
ヴェロニカを選べば、二度と彼女から逃げられなくなる。
どれも選べない。
どれを選んでも、未練が残る。
レオンハルトの唇が震えた。
「私は……」
その先が出ない。
ヴェロニカは、彼の答えを待っていた。
大広間に咲いた黒赤い花が、呼吸するように揺れている。
燭台の火は青く、天井のない夜には黒い夜蛾が舞っていた。
長い、長い時間をかけて。
前世の断罪の夜から。
今世のこの夜まで。
彼女は待っていた。
それでも、レオンハルトは選べなかった。
「そう」
ヴェロニカは微笑んだ。
「やっぱり、選べないのね」
レオンハルトの顔が歪む。
「違う、私は……」
「いいえ」
ヴェロニカは静かに首を振った。
前世で、彼女は王太子の愛を否定した。
今世で、彼女は王太子の選択を否定する。
「殿下は、わたくしを愛していないのではありませんわ」
一歩、近づく。
「殿下は、愛することを選べないだけです」
その言葉に、レオンハルトの膝が崩れかけた。
ヴェロニカは彼の頬に手を添える。
血の滲んだ指先が、白い肌に赤い線を引いた。
「大丈夫」
彼女は微笑む。
「あなたはもう、選ばなくていいの」
それは赦しのように聞こえた。
けれど、大広間の花が一斉に黒く開いた。
「選べないのなら、今夜はわたくしが決めて差し上げます」
レオンハルトの瞳が揺れる。
「ヴェロニカ……」
「今夜のこの一瞬を、永遠のように覚えていなさい」
ヴェロニカは、歌うように言った。
「七つ先の生まで、わたくしを忘れては駄目よ」
彼女は、レオンハルトの頬へ軽く唇を寄せた。
触れたかどうかも分からないほど、淡い口づけだった。
だがその瞬間、レオンハルトの影から黒薔薇が咲いた。
「はい」
ヴェロニカは甘く笑った。
「約束できましたわね」
それは恋人の戯れのようで。
子どもの指切りのようで。
けれど、王太子の魂に刻まれた、地獄の最初の勅令だった。
レオンハルトの膝が折れた。
彼は玉座の足元に崩れ落ちる。
死んだわけではない。
生きている。
けれど魂の奥に、今の口づけが残っていた。
七つ先の生まで。
忘れては駄目。
逃げ場のないほど甘い言葉が、彼の中で鎖になっていく。
大広間が、玉座の間へ変わった。
黒薔薇と曼陀羅華の花弁が床を覆い、燭台の火は青白く燃え、天井には夜蛾が群れる。
その中央に、黒薔薇色の玉座が生まれる。
ヴェロニカは、そこへ座った。
深紅の悪役令嬢ではない。
黒薔薇色の女王。
悪女譚を超えて咲いた、地獄の花。
誰かが、声にならない声で呟いた。
地獄の女王。
ヴェロニカは笑った。
聞こえていた。
もちろん、聞こえていた。
「悪くない名ですわね」
その時、ユリウス・クラウゼンが静かに一歩前へ出た。
彼はレオンハルトのように跪かなかった。
かといって、ヴェロニカの手を取って横に並ぼうともしなかった。
玉座の一段下。
彼女の右側。
そこに立った。
「ユリウス様」
ヴェロニカが言う。
「あなたは逃げないの?」
「逃げません」
「わたくしは、地獄の女王になりましたのよ」
「存じております」
「では、あなたは何になるの?」
ユリウスは、深く礼をした。
「あなたの宰相に」
ヴェロニカは笑った。
「地獄に宰相など必要かしら」
「女王がおられるなら、必要でしょう」
「わたくしを止めるつもり?」
「必要なら」
「わたくしに仕えるつもり?」
「望まれるなら」
「わたくしを愛しているの?」
ユリウスは、すぐには答えなかった。
ほんの短い沈黙。
その沈黙は、レオンハルトのものとは違っていた。
逃げるための沈黙ではない。
選ぶための沈黙だった。
「所有したいとは思いません」
ユリウスは言った。
ヴェロニカの瞳が、わずかに揺れる。
「ですが、あなたが火の中に立つなら、燃え尽きるまで傍におります」
その言葉は、遠い夜の返事のようだった。
火の中へ来ることですわ。
燃え残る努力を。
そんな声が、二人の間に一瞬だけ蘇る。
ヴェロニカは沈黙した。
黒薔薇色の玉座に座る女王が、ほんの一瞬だけ、人間の娘の顔をした。
それから、笑った。
「物好きな殿方」
ユリウスは静かに答える。
「前世からです」
ミレイユは地上に残されていた。
彼女は膝をつき、泣いていた。
けれど、今度の涙は誰かに守ってもらうための涙ではなかった。
レオンハルトの袖は、もうそこにない。
周囲の貴族たちも、彼女を庇う言葉を持たない。
白い檻は壊れた。
その外に出るには、痛みが必要だった。
ミレイユは泣いた。
自分の足で立つ前に、一度だけ崩れるために。
大広間の幻が、ゆっくりと薄れていく。
貴族たちは元の王宮の床に立っていた。
燭台の火は赤く戻っている。
天井もある。
花も消えた。
けれど、何も元通りではなかった。
幻が薄れても、ユリウスだけは動かなかった。
彼はなお、ヴェロニカの右側に立っていた。
王宮の床の上でありながら、すでに地獄の玉座の傍らにいる者のように。
レオンハルトは大広間の中央で膝をつき、意識を失っていた。
頬には、血で引かれたような赤い痕が残っている。
誰も触れなかった。
誰も声をかけなかった。
彼がどこにいるのか、本能で分かっていたからだ。
選べなかった男は、もう地上だけにはいない。
彼は毎夜、玉座の足元で問いかけられるだろう。
天国になさいます?
地獄になさいます?
それとも、わたくし?
けれど選べない。
選べないから、夜が終わらない。
ヴェロニカは玉座で頬杖をつき、退屈そうに、けれど少しだけ楽しそうに笑うのだ。
大丈夫。
選べるまで、何度でも待って差し上げますわ。
王宮の外には、黒塗りの馬車が待っていた。
ネリスが扉を開ける。
ヴェロニカは乗り込んだ。
馬車の中は静かだった。
遠くで、王宮のざわめきが揺れている。
ネリスは黙ってヴェロニカの手を取った。
「お嬢様。お指を」
血はまだ止まっていなかった。
前世と同じ場所。
けれど、今世の傷は少し深い。
ネリスは清潔な布で、そっと血を拭う。
「お痛みになりますか」
「少しは」
「おつらくはございませんか」
ヴェロニカは窓の外を見る。
王宮の灯りのまわりに、夜蛾が飛んでいる。
そのうちの一匹は、火から離れて夜へ戻っていった。
「少しは」
ネリスの手が止まる。
「では、泣かれますか」
ヴェロニカは笑った。
「まさか」
その声は、前世よりも少しだけ疲れていた。
けれど折れてはいない。
指輪のなくなった左手は軽い。
軽いのに、何かが絡みついている。
レオンハルトの選べなかった沈黙。
アルベルトの未練。
エリザベートの否定。
ヴェロニカの執着。
愛と呼ぶには醜く、呪いと呼ぶには甘すぎるもの。
「お嬢様」
「何?」
「今度こそ、お幸せに?」
ヴェロニカは、その言葉をしばらく考えた。
幸せ。
なんて白々しい言葉だろう。
天国にも地獄にも、そんなものは落ちていない。
少なくとも、彼女の足元には。
けれど、レオンハルトは選べなかった。
それならば、自分が選んだ。
選べなかった未練ごと、永遠のような一瞬へ閉じ込めた。
それが救いかどうかは分からない。
呪いかどうかも、どうでもいい。
ヴェロニカは、血を拭われた指を唇の近くへ持っていった。
触れはしない。
ただ、その熱を確かめる。
「幸せなんて、天国にも地獄にも落ちていませんわ」
ネリスは黙っている。
ヴェロニカは窓の外へ視線を向けた。
王宮の灯りが遠ざかる。
夜道を馬車の車輪が進む。
「でも、あの人がわたくしを忘れられないなら」
彼女は、うっとりと笑った。
「どちらでも構いません」
その夜、王太子レオンハルトは聖女候補を失った。
聖女候補ミレイユは、守られるだけの白さを失った。
宰相子息ユリウスは、前世から続く血の記憶を取り戻し、自ら女王の傍らを選んだ。
そしてヴェロニカ・ローゼンフェルドは、恋という名の輪廻に、選べなかった王太子を一人、招き入れた。
選べなかった男は、女王の足元に。
選んだ男は、女王の傍らに。
泣くことしか知らなかった少女は、ようやく自分の足で立つために地上へ残された。
そしてヴェロニカ・ローゼンフェルドは、余りある美貌を抱いたまま、今世で地獄の女王になった。
黒い夜蛾は、もう火に落ちなかった。
火そのものが、彼女の玉座になったから。
お読みいただきありがとうございます。
今回は、前作『余りある美貌の悪役令嬢は、断罪の夜にすべてを奪う』のさらに後、というか、物語になってしまった悪役令嬢が、今世でまた断罪の夜に立たされる話でした。
前作のエリザベートは、「悪女」と呼ばれる檻を王冠に変えた令嬢でした。
今作のヴェロニカは、そのエリザベートが悪女譚や戯曲として語り継がれ、ばらばらに解釈されてもなお、香りだけは消えなかった先にいる女です。
バラバラにされても、薔薇は薔薇。
花弁になっても、香りまでは殺せない。
そんな感じの令嬢が書きたくて、この話になりました。
今回も、とある楽曲の空気感をかなり意識しています。
美しさ、怖さ、嫉妬、未練、輪廻、選べない恋、そして「それでも忘れさせない」と笑う女の愛。
レオンハルトは選べなかった男。
ユリウスは選んだ男。
ミレイユは、守られる檻から地上に残された少女。
そしてヴェロニカは、選ばれなかった女ではなく、選べなかった男の未練ごと玉座に変えてしまう女です。
救いかどうかは分かりません。
呪いかどうかも、たぶん本人にはどうでもいい。
でも、ヴェロニカにとっては、あれもきっと愛なのだと思います。
少しでも「怖い」「美しい」「忘れられない」と思っていただけたなら嬉しいです。




