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余りある美貌の悪役令嬢

余りある美貌の悪役令嬢は、今世で地獄の女王になる

作者: 月白ふゆ
掲載日:2026/07/09

 エリザベート・ローゼンヴェルクという悪役令嬢がいた。

 王国の貴族なら、誰もが一度はその名を聞かされる。


 教会では、傲慢な美貌を戒めるための悪女として。

 貴族学院では、王家に逆らった公爵令嬢の末路として。

 夫人たちの茶会では、男を惑わせ、女たちを嫉妬で狂わせた毒薔薇として。

 そして王都の劇場では、断罪の夜に婚約者も聖女も貴族たちもすべて奪って去った、恐ろしく美しい女主人公として。


 語る者によって、彼女の姿は変わった。


 ある物語では、エリザベートは王太子を呪い殺した魔女だった。

 ある戯曲では、王太子の愛を踏みにじった冷酷な悪女だった。

 ある詩では、彼女は誰にも所有されなかった薔薇だった。


 ある令嬢たちの間では、密かな憧れを込めて、こう呼ばれていた。


 断罪の夜に、すべてを奪った女。


 その夜、王宮の大広間には黒い夜蛾が迷い込んだという。

 金の燭台の火へ近づき、翅を焼かれて落ちたという。


 深紅のドレスを着たエリザベートは、王太子アルベルトから婚約破棄を告げられた。

 隣には、白いドレスの聖女候補リリア。

 宰相子息ユリウスが告発状を読み上げ、貴族たちは毒薔薇が散る瞬間を待っていた。


 けれど、エリザベートは散らなかった。

 泣かなかった。

 縋らなかった。

 むしろ、彼女は笑った。


 階段から突き落としたという罪を返し、毒菓子の疑いを返し、男を惑わせたという侮辱を返し、最後には王太子の愛さえも否定した。


 殿下は、わたくしを愛していたのではありませんわ。

 わたくしに愛されているご自分が、好きだっただけ。


 その台詞は、今でも王都の劇場で演じられている。

 若い令嬢たちは、その場面で息を呑む。

 夫人たちは眉をひそめながら、続きを見ずにはいられない。

 男たちは笑いながら、なぜか目を逸らす。


 最後にエリザベートは、王家の指輪を床に落とす。

 青い宝石が赤い絨毯を転がる。

 彼女は踊る。

 自分を断罪しようとした者たちの前で、最も美しく踊る。


 そして、こう言って去っていく。


 誰か一人のものになれなんて、やんなっちゃうわ。


 それが、伝わっている物語だった。

 美しく、恐ろしく、少しばかり作り物めいた悪女譚。


 その悪女譚の中でも、王都で最も有名な戯曲があった。

 題は『シニスタ・シスター』。


 白い聖女と、赤い悪女。

 守られる妹と、恐れられる姉。

 同じ男の弱さに触れながら、片方は白い檻へ入り、片方は黒い檻を壊した。


 舞台の最後、エリザベートは客席に向けて笑う。


 切り分けたいなら、お好きになさい。

 薔薇は花弁になっても、香りまでは殺せませんもの。


 その台詞は評判になった。

 傲慢だと怒る者もいた。

 美しいと涙ぐむ者もいた。


 けれどヴェロニカ・ローゼンフェルドだけは、その物語を笑えなかった。


 初めて乳母からその名を聞いた時、彼女はまだ五歳だった。

 乳母は寝物語のつもりだったのだろう。


 美しすぎる娘は傲慢になってはいけませんよ。

 誰かを傷つければ、いつか自分も裁かれるのですよ。


 そんな教訓めいた声で、エリザベートの話を聞かせた。

 ヴェロニカは寝台の上で、黙ってそれを聞いていた。


 怖かったのではない。

 懐かしかったのだ。


 黒い夜蛾。

 金の燭台。

 深紅のドレス。

 白い指に滲む血。

 床に落ちた青い指輪。


 そのどれもが、物語の挿絵ではなかった。

 ヴェロニカは知っていた。


 燭台の火が揺れる音を。

 夜風に含まれた湿り気を。

 王太子の顔から血の気が引く瞬間を。

 指輪を外す時、皮膚が裂ける痛みを。

 そして、あの夜、自分がどんな顔で笑ったのかを。


 乳母が言った。


「恐ろしい悪女でございますね」


 五歳のヴェロニカは、薄い寝具を握りしめたまま、小さく首を傾げた。


「悪女?」


「ええ。王太子殿下を惑わせ、国中を騒がせた女でございます」


「違うわ」


 乳母は目を瞬かせた。


「お嬢様?」


 ヴェロニカは窓の外を見た。

 月のない夜だった。

 庭の薔薇が、闇の中で黒く沈んでいる。


「彼女は、ようやく息をしただけよ」


 乳母はその言葉の意味が分からず、ただ青ざめた。


 その夜から、ヴェロニカは同じ夢を見るようになった。

 物語として語られる悪役令嬢の夢。

 けれどそれは、誰かが作った戯曲ではない。


 彼女自身の記憶だった。


 黒い夜蛾が、火に落ちた。


 その夢を、ヴェロニカ・ローゼンフェルドは何度も見た。


 王宮の大広間。

 金の燭台。

 湿った夜風。

 深紅のドレス。

 黒いレース。

 白い指に滲む血。

 床に落ちた青い指輪。

 そして、自分を見つめる男の顔。


「私は、君を愛していた」


 男はそう言った。

 けれど夢の中の女は、笑っていた。

 美しく。

 恐ろしく。

 誰よりも冷たく、誰よりも熱く。


「いいえ」


 女は言う。


「殿下は、わたくしを愛していたのではありませんわ」


 赤い唇が、かすかに動く。


「わたくしに愛されているご自分が、好きだっただけ」


 男の顔から、血の気が引いた。

 その顔を見た瞬間、ヴェロニカはいつも目を覚ます。


 絹の寝台。

 薄い天蓋。

 朝の光。

 薔薇の香を含ませた水差し。

 そして、白い寝間着の胸元で乱れる自分の呼吸。


 ヴェロニカはゆっくりと身体を起こした。

 寝台の脇では、侍女のネリスがすでに控えている。


「お嬢様。またお悪い夢を?」


「ええ」


 ヴェロニカは額にかかった黒髪を払った。

 黒と呼ぶには深すぎる髪だった。

 夜を編んだような色。

 光を受ければ、赤い艶が底から滲む。


「夜蛾が死ぬ夢を見たわ」


「不吉でございますね」


「そうかしら」


 ヴェロニカは、白い指を見る。

 左手の薬指。

 そこには、今世でも婚約指輪があった。


 王太子レオンハルトから贈られた、蒼玉の指輪。

 王家の祝福。

 王太子妃となる証。

 そう呼ばれている。


 けれどヴェロニカは知っていた。

 指輪とは、祝福の形をした鎖である。

 少なくとも、前の人生ではそうだった。


「火に近づいたのは、蛾の方ですもの」


 ネリスは何も言わなかった。


 ヴェロニカの言葉には、時折、意味が深すぎるものが混じる。

 幼い頃からそうだった。


 誰も知らない名を口にする。

 見たことのない王宮の間取りを言い当てる。

 まだ出会ってもいない者の顔を、懐かしいもののように語る。


 ローゼンフェルド公爵家では、それを気味悪がる者もいた。

 だが誰も、ヴェロニカを遠ざけることはできなかった。


 美しすぎたからだ。


 人は、あまりに美しいものを見ると、恐怖と崇拝の区別がつかなくなる。

 ヴェロニカは生まれた時から、そういう娘だった。


 赤子の頃から、泣けば乳母が震えた。

 幼い頃から、笑えば使用人が息を呑んだ。

 社交界に出れば、令嬢たちは嫉妬し、貴公子たちは熱を上げ、夫人たちは眉をひそめ、老貴族たちは神話の悪女を見るように目を細めた。


 ヴェロニカは、そのすべてを浴びて育った。


 憧れ。

 欲。

 嫉妬。

 恐怖。

 嫌悪。

 隠しきれない恋慕。


 人が自分へ向ける感情は、熱を持っていた。

 その熱が、いつからか彼女の内側へ流れ込むようになった。


 最初は気のせいだと思った。

 誰かに羨まれた日は、肌が艶めいた。

 誰かに憎まれた夜は、眠らずとも疲れなかった。

 誰かに欲望を向けられた瞬間、胸の奥で黒い花が開くような感覚があった。


 前世で、エリザベートは奪った。


 視線を。

 嫉妬を。

 欲を。

 恐怖を。

 後悔を。

 恋を。


 そのすべてを抱えて、断罪の夜を去った。

 けれど、奪ったものは死んでも消えなかった。


 ばらばらにされた物語の中で、薔薇の香りだけが残ったように。

 彼女の魂にもまた、あの夜の熱が残った。


 そして王太子レオンハルトに婚約者として引き合わされた日、ヴェロニカは理解した。


 ああ。

 また、始まったのだと。


 レオンハルト・グランヴァルト。

 この国の王太子。

 金の髪。

 青い瞳。

 整った顔。

 優しげな声。


 けれど、ヴェロニカを見る時だけ、その瞳の奥に怯えが混じる。


 前の男と同じだった。

 夢の中で「愛していた」と言った男。

 王太子アルベルト。

 エリザベート・ローゼンヴェルクの婚約者。


 ヴェロニカは、初めてレオンハルトと目が合った時、思った。


 また同じ顔をしている。

 また、わたくしを怖がっている。

 また、白い女へ逃げようとしている。


 その予感は、外れなかった。


 聖女候補ミレイユ・ラフィーネが王宮へ迎えられたのは、それから半年後のことだった。


 白いドレスが似合う少女だった。

 柔らかな銀茶の髪。

 潤んだ薄青の瞳。

 小鳥のように細い肩。

 誰かに守られるために生まれてきたような姿をしていた。


 最初、ミレイユは本当に怯えていた。

 ヴェロニカの声が少し強いだけで肩を震わせた。

 ヴェロニカが注意すれば、涙を浮かべた。


 階段で足を滑らせた時、最初に手を掴んだのはヴェロニカだった。

 けれど、その手は冷たかった。


「足元をご覧なさい」


 そう言った声が、あまりに厳しかったから。

 ミレイユは泣いた。

 周囲はヴェロニカを責めた。


 それから、すべてが簡単になった。


 ドレスの裾が破れた時も。

 菓子で気分が悪くなった時も。

 神殿の儀式に遅れた時も。


 ミレイユが俯けば、誰かがヴェロニカを疑ってくれた。

 泣けば、レオンハルトが庇ってくれた。

 震えれば、貴族たちが怒ってくれた。

「わたしのせいで」と言えば、皆が「違う」と言ってくれた。


 甘かった。

 怖いくらいに甘かった。


 その甘さを、ミレイユはやめられなくなった。


 ヴェロニカは、それを見ていた。

 前世のリリアを見るように。


 白いドレスの少女は、自分が檻に入っていると気づいていない。

 守られることもまた、檻なのに。

 怖がられることが檻であるように。


「ネリス」


「はい」


「今夜のドレスは、黒薔薇色にして」


「黒薔薇色、でございますか」


「赤を飲み込んだ黒よ」


 ヴェロニカは左手の指輪を撫でた。

 蒼玉が冷たく光る。


「前は深紅だったもの」


 ネリスは、その意味を尋ねなかった。


 王宮の大広間には、夜の始まりから甘いざわめきが満ちていた。


 聖女候補ミレイユ・ラフィーネの祝福披露。

 名目はそうだった。

 彼女が神殿で授かった癒しの力を、王族と貴族たちの前で披露する。


 だが、集められた貴族たちは別の理由を知っていた。


 今夜、王太子レオンハルトが公爵令嬢ヴェロニカとの婚約を破棄する。

 そして、聖女ミレイユを新たな妃候補として迎える。


 それはまだ正式発表ではない。

 けれど、誰もがそうなると信じていた。


 白いドレスのミレイユは、レオンハルトの隣に立っている。

 レオンハルトの袖を掴む指は、控えめで、弱々しくて、けれど決して離れない。


「殿下」


 ミレイユは小さく言った。


「本当に、よろしいのでしょうか」


「君は何も心配しなくていい」


 レオンハルトは優しく答えた。


「ヴェロニカの横暴は、今夜で終わる」


「でも、わたしのせいで……」


「君のせいではない」


 その声に、周囲の若い令嬢たちがうっとりと息を吐いた。


 優しい王太子。

 可哀想な聖女候補。

 恐ろしい悪役令嬢。


 分かりやすい舞台だった。

 誰にでも理解できる配役だった。


 楽団の音が、ふと揺れた。


 大広間の扉が開いた。

 風が入る。

 燭台の火が揺れる。


 高窓の外から、黒い夜蛾が一匹、迷い込んだ。

 それは火のまわりを頼りなく舞いながら、まるで誰かの到着を告げるように、大広間の中央へ影を落とした。


 ヴェロニカ・ローゼンフェルドが、扉の向こうに立っていた。


 黒薔薇色のドレス。

 赤ではない。

 黒でもない。

 血を吸い、夜を纏い、なお底に熱を抱えた色。


 喉元には黒曜石。

 耳元には、赤い石が一粒ずつ。

 髪は高く結い上げられ、細い首筋が燭台の光を受けて白く浮かぶ。


 彼女が一歩踏み出すと、大広間の空気が変わった。


 誰もが見た。

 見てしまった。


 美しい。

 怖い。

 憎い。

 羨ましい。

 近づきたい。

 逃げたい。


 その矛盾が、百人分、千人分、彼女へ向けられる。


 ヴェロニカは微笑んだ。


 美味しい。


 胸の奥で、黒い花が開く。

 前世のエリザベートは、この熱を飾りにした。

 今世のヴェロニカは、この熱で咲く。


「ご機嫌よう、レオンハルト殿下」


 彼女は王太子の前で礼をした。

 ミレイユの指が、レオンハルトの袖を強く握る。


 レオンハルトは喉を鳴らした。


 見るな。

 見てはいけない。


 今夜はこの女を裁くのだ。

 もう怯える必要はない。

 もう、この女の目に自分を映される必要はない。


 そう思っていたのに。


 ヴェロニカが目の前に立つと、彼はまた、自分が裸にされるような感覚を覚えた。


「ヴェロニカ・ローゼンフェルド」


 楽団の音が止まった。

 囁きも止まった。

 燭台の火だけが、わずかに揺れている。


 夜蛾が、火に近づいた。


「私は、君との婚約を破棄する」


 大広間が、小さく息を呑む。


 ついに。

 始まった。


 誰もがヴェロニカを見た。


 怒るか。

 泣くか。

 縋るか。

 崩れるか。


 けれどヴェロニカは、うっとりするほど穏やかに微笑んだ。


「ええ。存じておりますわ」


 レオンハルトの眉が動く。


「何をだ」


「あなたはいつも、そうおっしゃるもの」


 その一言で、大広間の温度が下がった。


 ミレイユが顔を上げる。

 レオンハルトは言葉を失った。


 宰相子息ユリウス・クラウゼンだけが、わずかにこめかみを押さえる。


 今、何かを見た。


 赤いドレス。

 血のついた白い手袋。

 自分によく似た男が、深紅の女へ手を差し出している。


 一曲、お相手願えますか。


 知らない記憶。

 ありえない記憶。

 けれど、掌に血の温度が蘇った。


「ユリウス」


 レオンハルトの声に、ユリウスは我に返る。


「罪状を」


「……はい」


 ユリウスは告発状を開いた。

 紙を持つ指が、わずかに震えている。


「ヴェロニカ・ローゼンフェルド公爵令嬢。あなたには、聖女候補ミレイユ・ラフィーネ嬢への度重なる嫌がらせ、王太子妃候補としての権威を利用した令嬢たちへの圧力、さらに殿下への不誠実な態度が認められます」


 ヴェロニカは黙って聞いている。


「階段でミレイユ嬢を突き落とそうとした件」


「まあ」


「茶会で酒精入りの菓子を出し、ミレイユ嬢を倒れさせた件」


「懐かしいこと」


「ドレスを裂かせた件。神殿の儀式に遅れるよう侍女に命じた件。さらに、複数の令嬢に対してミレイユ嬢と距離を置くよう圧力をかけた件」


 貴族たちがざわめく。

 ミレイユは青ざめて俯いた。


 レオンハルトは彼女を庇うように一歩前へ出る。


「弁明はあるか」


 ヴェロニカは首を傾げた。


「必要ですの?」


 レオンハルトが眉を寄せる。


「何?」


「証拠など、どうでもよろしいのでしょう?」


 会場の空気が刺々しくなる。


 ヴェロニカはゆっくりと周囲を見渡した。


「皆様は、わたくしが悪女であれば満足なのですわ」


 令嬢たちが息を呑む。


「殿下は、わたくしが恐ろしければ逃げられる」


 レオンハルトの顔が強張る。


「ミレイユ様は、わたくしが冷酷であれば泣いていられる」


 ミレイユの肩が跳ねた。


「皆様は、わたくしが罪人であれば、安心して見物できる」


 ヴェロニカは笑った。


「本当に、よく出来た舞台ですこと」


 その言葉は、前世の大広間にも響いた言葉だった。


 ユリウスの頭の奥で、何かが軋む。


 赤い女。

 深紅の裾。

 王太子の敗北。

 床に落ちた指輪。

 そして、女の声。


 今宵はよい夜でしたわ。

 わたくしが悪女であることを、こんなにも熱心に証明してくださって。


 ユリウスは息を飲んだ。


 違う。

 そんな記憶はない。

 自分は今世で彼女と出会ったばかりだ。


 それなのに、なぜこの手は、彼女の血を覚えているのか。


 レオンハルトが声を荒げる。


「ごまかすな、ヴェロニカ! 君はミレイユを傷つけた!」


「傷つけた?」


 ヴェロニカはミレイユを見る。


 白いドレスの少女は震えていた。

 今にも泣きそうだった。

 けれど、泣けない。


 ヴェロニカに見られているから。

 その涙がどこから来るのか、見抜かれている気がするから。


「ミレイユ様」


 ヴェロニカの声は柔らかかった。

 柔らかすぎて、逃げ場がなかった。


「泣けば、誰かが守ってくださるのでしょう?」


「……違います」


「震えれば、殿下が怒ってくださる」


「違います」


「俯けば、周囲の方々があなたの代わりにわたくしを憎んでくださる」


「違う……」


「甘いでしょう」


 ミレイユの唇が震える。

 ヴェロニカは少しだけ近づいた。


「守られることは、天国にいるようでございましょう?」


 ミレイユは答えられなかった。


 レオンハルトが割って入る。


「やめろ!」


 ヴェロニカは彼を見た。


「ですが殿下」


 その目に射抜かれた瞬間、レオンハルトの声が喉で止まった。


「天国の高みは、案外、地獄の底と近いものですわ」


 大広間の床が、かすかに鳴った。


 最初は、誰も気づかなかった。

 ただ燭台の火が、大きく揺れた。

 夜蛾が火から離れ、ふらふらと天井へ上がる。


 次に、令嬢の一人が悲鳴を上げた。


 床に、花が咲いていた。


 黒赤い花。

 薔薇にも見える。

 曼陀羅華にも見える。

 蛾の翅を重ねたようにも見える。


 絨毯の模様ではなかった。

 石床の隙間から、影のような茎が伸び、薄い花弁を開いている。


 ひとつ。

 ふたつ。

 十。

 百。


 黒赤い花が、大広間に広がっていく。


「これは何だ!」


 騎士が剣に手をかけた。

 だが足元の花に触れた瞬間、その騎士は膝をついた。


 顔が赤く染まる。

 彼はヴェロニカを見上げた。


 憎しみではない。

 欲でもない。

 恐怖でもない。

 そのすべてが混ざった目だった。


 ヴェロニカは微笑む。


「触れてはいけませんわ。皆様の中にあるものを、少し花にしているだけですもの」


 ユリウスが叫んだ。


「これは王家の結界ではない!」


「ええ」


 ヴェロニカは彼を見た。


「わたくしのものですわ」


 レオンハルトは青ざめた。


「君は、何をした」


「何も」


 ヴェロニカは左手を持ち上げる。

 蒼玉の指輪が、燭台の光を受けて冷たく光った。


「ただ、思い出しただけです」


 指輪に触れる。

 その瞬間、ヴェロニカの指に赤い線が走った。


 皮膚が裂けた。

 血が滲む。


 前世と同じ場所。

 同じ痛み。

 同じ熱。


 大広間が、別の夜と重なった。


 深紅のドレスの女がいる。

 王太子アルベルトがいる。

 白いドレスのリリアがいる。

 告発状を持つユリウスがいる。


 床に落ちる青い指輪。

 血のついた手袋。

 やんなっちゃうわ、と笑う声。


 貴族たちが一斉に息を呑んだ。


 それは幻だった。

 だが幻にしては、生々しすぎた。


 レオンハルトは、見知らぬ男の目を通してヴェロニカを見ていた。


 違う。

 ヴェロニカではない。


 エリザベート。


 自分はその名を知っている。

 知らないはずなのに、知っている。


 自分によく似た男が、彼女に言った。


 私は、君を愛していた。


 彼女は否定した。

 そして男は、壊れた。


 レオンハルトは膝をつきそうになった。


「何だ……これは」


「前世ですわ」


 ヴェロニカの声が、大広間に落ちる。


「わたくしの名は、かつてエリザベート・ローゼンヴェルクでした」


 貴族たちは凍った。

 古い名だった。


 伝承に残る悪女の名。

 断罪の夜に王太子を破滅させ、王宮中の貴族を沈黙させ、社交界を恋と嫉妬で焼いた女。


 余りある美貌の悪役令嬢。

 王都の舞台で何度も演じられた毒薔薇。

 『シニスタ・シスター』の赤い悪女。


 戯曲の中の女が、今ここに立っている。


 ヴェロニカは笑った。


「前世で、わたくしは王家の指輪を外しました。誰のものにもならないと決めました。皆様の欲も嫉妬も恐れも、全部いただいて帰りました」


 床の花が揺れる。


「けれど、不思議ですわね」


 彼女の目が、レオンハルトへ向く。


「奪ったものは、死んでも消えませんでした」


 レオンハルトは後ずさる。

 ミレイユの袖を掴もうとした。


 だが、ミレイユは動けなかった。


 彼女もまた幻を見ていた。


 リリアという白い少女。

 守られて、庇われて、泣けなくなった少女。


 逃げ場にされた女は、いずれ逃げ場ごと捨てられる。


 その声が、ミレイユの胸を焼いた。


「嫌……」


 ミレイユは小さく言った。


「わたしは、そんなつもりじゃ……」


「ええ」


 ヴェロニカは優しく頷いた。


「前のあの子も、きっとそんなつもりではなかったわ」


 ミレイユの顔が歪む。


 慰めではなかった。

 許しでもなかった。

 ただ、同じ弱さを見つけられただけだった。


 ヴェロニカは指輪を外そうとした。


 蒼玉が冷たく光る。

 王家の守護。

 王家の祝福。

 王家の鎖。


 指輪は抜けない。

 皮膚に食い込む。

 血が増える。


 レオンハルトが叫んだ。


「やめろ、ヴェロニカ!」


「なぜ?」


「血が……」


「ご心配くださるの?」


 ヴェロニカは笑った。


「今さら?」


 レオンハルトの顔が歪む。

 彼は前へ出ようとした。


 だが黒赤い花が足元に絡みつく。


 動けない。


「君は私を恨んでいるのか」


「いいえ」


 ヴェロニカは即答した。


「愛しておりますわ」


 その言葉は、大広間を別の意味で凍らせた。


 レオンハルトは目を見開く。

 ミレイユは息を呑む。

 ユリウスは、痛むように眉を寄せる。


 ヴェロニカは微笑んだ。


「愛しているから、逃がしたくないのです」


 指輪が少し動く。


「愛しているから、忘れられるのが嫌なのです」


 血が白い指を伝う。


「愛しているから、あなたが別の女の袖を握るたび、少し殺したくなるのですわ」


 ミレイユが叫んだ。


「そんなの、愛じゃありません!」


 ヴェロニカはゆっくりと彼女を見る。


「では、あなたのそれは愛でしたの?」


 ミレイユは固まった。


「あなたは殿下を愛していらした?」


「わたしは……」


「それとも、殿下に庇われるご自分が好きでした?」


 ミレイユの瞳に涙が浮かんだ。

 今度は、誰も彼女を庇わなかった。


 庇えなかった。

 自分にも同じ問いが刺さっていたからだ。


 レオンハルトはミレイユを愛していたのか。

 それとも、ヴェロニカから逃げた先にいる優しい女を愛していたのか。


 貴族たちはヴェロニカを憎んでいたのか。

 それとも、彼女を憎むことで自分の嫉妬を正当化していただけなのか。


 誰も答えられない。


 大広間の花は、さらに咲いた。

 花弁の奥から、囁きが聞こえる。


 美しい。

 怖い。

 欲しい。

 憎い。

 忘れられない。

 愛していた。

 愛していた。

 愛していた。


 それは、前世から彼女に向けられ続けた声だった。


 ヴェロニカは指輪を引いた。

 今度こそ、蒼玉の指輪が抜けた。


 皮膚が裂け、血が一滴、床へ落ちる。


 黒赤い花が、その血を吸って一斉に開いた。

 燭台の火が、青く揺れる。


 誰かが悲鳴を上げた。


 大広間の天井が消えていた。

 いや、消えたように見えた。


 頭上には、夜空が広がっている。

 月はない。

 星もない。


 ただ、天国と呼ぶには暗すぎ、地獄と呼ぶには美しすぎる空があった。


 黒い夜蛾が、無数に舞っている。


 ヴェロニカは指輪を床へ落とした。

 硬い音が響く。


 前世と同じ音。

 けれど今回は、誰かが拾うことを待っていない。


「殿下」


 ヴェロニカはレオンハルトへ歩み寄る。

 花は彼女の足元だけを避ける。

 黒薔薇色の裾が揺れるたび、花弁が礼をするように伏せた。


「選ばせて差し上げます」


 レオンハルトは震えた。


「何を……」


「甘い夢の中で、永遠にわたくしを愛するか」


 一歩。


「過去から積もった女たちの声に裁かれるか」


 もう一歩。


「それとも、わたくしになさるか」


 レオンハルトの喉が鳴る。


 天国。

 地獄。

 ヴェロニカ。


 どれを選んでも、救いには見えなかった。


 天国を選べば、彼女のいない幸福へ逃げることになる。

 地獄を選べば、自分の弱さを裁かせることになる。

 ヴェロニカを選べば、二度と彼女から逃げられなくなる。


 どれも選べない。

 どれを選んでも、未練が残る。


 レオンハルトの唇が震えた。


「私は……」


 その先が出ない。


 ヴェロニカは、彼の答えを待っていた。


 大広間に咲いた黒赤い花が、呼吸するように揺れている。

 燭台の火は青く、天井のない夜には黒い夜蛾が舞っていた。


 長い、長い時間をかけて。


 前世の断罪の夜から。

 今世のこの夜まで。


 彼女は待っていた。


 それでも、レオンハルトは選べなかった。


「そう」


 ヴェロニカは微笑んだ。


「やっぱり、選べないのね」


 レオンハルトの顔が歪む。


「違う、私は……」


「いいえ」


 ヴェロニカは静かに首を振った。


 前世で、彼女は王太子の愛を否定した。

 今世で、彼女は王太子の選択を否定する。


「殿下は、わたくしを愛していないのではありませんわ」


 一歩、近づく。


「殿下は、愛することを選べないだけです」


 その言葉に、レオンハルトの膝が崩れかけた。

 ヴェロニカは彼の頬に手を添える。


 血の滲んだ指先が、白い肌に赤い線を引いた。


「大丈夫」


 彼女は微笑む。


「あなたはもう、選ばなくていいの」


 それは赦しのように聞こえた。

 けれど、大広間の花が一斉に黒く開いた。


「選べないのなら、今夜はわたくしが決めて差し上げます」


 レオンハルトの瞳が揺れる。


「ヴェロニカ……」


「今夜のこの一瞬を、永遠のように覚えていなさい」


 ヴェロニカは、歌うように言った。


「七つ先の生まで、わたくしを忘れては駄目よ」


 彼女は、レオンハルトの頬へ軽く唇を寄せた。

 触れたかどうかも分からないほど、淡い口づけだった。


 だがその瞬間、レオンハルトの影から黒薔薇が咲いた。


「はい」


 ヴェロニカは甘く笑った。


「約束できましたわね」


 それは恋人の戯れのようで。

 子どもの指切りのようで。


 けれど、王太子の魂に刻まれた、地獄の最初の勅令だった。


 レオンハルトの膝が折れた。

 彼は玉座の足元に崩れ落ちる。


 死んだわけではない。

 生きている。


 けれど魂の奥に、今の口づけが残っていた。


 七つ先の生まで。

 忘れては駄目。


 逃げ場のないほど甘い言葉が、彼の中で鎖になっていく。


 大広間が、玉座の間へ変わった。


 黒薔薇と曼陀羅華の花弁が床を覆い、燭台の火は青白く燃え、天井には夜蛾が群れる。

 その中央に、黒薔薇色の玉座が生まれる。


 ヴェロニカは、そこへ座った。


 深紅の悪役令嬢ではない。

 黒薔薇色の女王。

 悪女譚を超えて咲いた、地獄の花。


 誰かが、声にならない声で呟いた。


 地獄の女王。


 ヴェロニカは笑った。

 聞こえていた。

 もちろん、聞こえていた。


「悪くない名ですわね」


 その時、ユリウス・クラウゼンが静かに一歩前へ出た。


 彼はレオンハルトのように跪かなかった。

 かといって、ヴェロニカの手を取って横に並ぼうともしなかった。


 玉座の一段下。

 彼女の右側。

 そこに立った。


「ユリウス様」


 ヴェロニカが言う。


「あなたは逃げないの?」


「逃げません」


「わたくしは、地獄の女王になりましたのよ」


「存じております」


「では、あなたは何になるの?」


 ユリウスは、深く礼をした。


「あなたの宰相に」


 ヴェロニカは笑った。


「地獄に宰相など必要かしら」


「女王がおられるなら、必要でしょう」


「わたくしを止めるつもり?」


「必要なら」


「わたくしに仕えるつもり?」


「望まれるなら」


「わたくしを愛しているの?」


 ユリウスは、すぐには答えなかった。


 ほんの短い沈黙。

 その沈黙は、レオンハルトのものとは違っていた。


 逃げるための沈黙ではない。

 選ぶための沈黙だった。


「所有したいとは思いません」


 ユリウスは言った。

 ヴェロニカの瞳が、わずかに揺れる。


「ですが、あなたが火の中に立つなら、燃え尽きるまで傍におります」


 その言葉は、遠い夜の返事のようだった。


 火の中へ来ることですわ。

 燃え残る努力を。


 そんな声が、二人の間に一瞬だけ蘇る。


 ヴェロニカは沈黙した。

 黒薔薇色の玉座に座る女王が、ほんの一瞬だけ、人間の娘の顔をした。


 それから、笑った。


「物好きな殿方」


 ユリウスは静かに答える。


「前世からです」


 ミレイユは地上に残されていた。


 彼女は膝をつき、泣いていた。

 けれど、今度の涙は誰かに守ってもらうための涙ではなかった。


 レオンハルトの袖は、もうそこにない。

 周囲の貴族たちも、彼女を庇う言葉を持たない。


 白い檻は壊れた。

 その外に出るには、痛みが必要だった。


 ミレイユは泣いた。

 自分の足で立つ前に、一度だけ崩れるために。


 大広間の幻が、ゆっくりと薄れていく。


 貴族たちは元の王宮の床に立っていた。

 燭台の火は赤く戻っている。

 天井もある。

 花も消えた。


 けれど、何も元通りではなかった。


 幻が薄れても、ユリウスだけは動かなかった。

 彼はなお、ヴェロニカの右側に立っていた。


 王宮の床の上でありながら、すでに地獄の玉座の傍らにいる者のように。


 レオンハルトは大広間の中央で膝をつき、意識を失っていた。

 頬には、血で引かれたような赤い痕が残っている。


 誰も触れなかった。

 誰も声をかけなかった。


 彼がどこにいるのか、本能で分かっていたからだ。


 選べなかった男は、もう地上だけにはいない。

 彼は毎夜、玉座の足元で問いかけられるだろう。


 天国になさいます?

 地獄になさいます?

 それとも、わたくし?


 けれど選べない。

 選べないから、夜が終わらない。


 ヴェロニカは玉座で頬杖をつき、退屈そうに、けれど少しだけ楽しそうに笑うのだ。


 大丈夫。

 選べるまで、何度でも待って差し上げますわ。


 王宮の外には、黒塗りの馬車が待っていた。

 ネリスが扉を開ける。


 ヴェロニカは乗り込んだ。


 馬車の中は静かだった。

 遠くで、王宮のざわめきが揺れている。


 ネリスは黙ってヴェロニカの手を取った。


「お嬢様。お指を」


 血はまだ止まっていなかった。

 前世と同じ場所。

 けれど、今世の傷は少し深い。


 ネリスは清潔な布で、そっと血を拭う。


「お痛みになりますか」


「少しは」


「おつらくはございませんか」


 ヴェロニカは窓の外を見る。

 王宮の灯りのまわりに、夜蛾が飛んでいる。


 そのうちの一匹は、火から離れて夜へ戻っていった。


「少しは」


 ネリスの手が止まる。


「では、泣かれますか」


 ヴェロニカは笑った。


「まさか」


 その声は、前世よりも少しだけ疲れていた。

 けれど折れてはいない。


 指輪のなくなった左手は軽い。

 軽いのに、何かが絡みついている。


 レオンハルトの選べなかった沈黙。

 アルベルトの未練。

 エリザベートの否定。

 ヴェロニカの執着。


 愛と呼ぶには醜く、呪いと呼ぶには甘すぎるもの。


「お嬢様」


「何?」


「今度こそ、お幸せに?」


 ヴェロニカは、その言葉をしばらく考えた。


 幸せ。


 なんて白々しい言葉だろう。

 天国にも地獄にも、そんなものは落ちていない。

 少なくとも、彼女の足元には。


 けれど、レオンハルトは選べなかった。

 それならば、自分が選んだ。


 選べなかった未練ごと、永遠のような一瞬へ閉じ込めた。


 それが救いかどうかは分からない。

 呪いかどうかも、どうでもいい。


 ヴェロニカは、血を拭われた指を唇の近くへ持っていった。

 触れはしない。

 ただ、その熱を確かめる。


「幸せなんて、天国にも地獄にも落ちていませんわ」


 ネリスは黙っている。


 ヴェロニカは窓の外へ視線を向けた。

 王宮の灯りが遠ざかる。

 夜道を馬車の車輪が進む。


「でも、あの人がわたくしを忘れられないなら」


 彼女は、うっとりと笑った。


「どちらでも構いません」


 その夜、王太子レオンハルトは聖女候補を失った。

 聖女候補ミレイユは、守られるだけの白さを失った。

 宰相子息ユリウスは、前世から続く血の記憶を取り戻し、自ら女王の傍らを選んだ。


 そしてヴェロニカ・ローゼンフェルドは、恋という名の輪廻に、選べなかった王太子を一人、招き入れた。


 選べなかった男は、女王の足元に。

 選んだ男は、女王の傍らに。

 泣くことしか知らなかった少女は、ようやく自分の足で立つために地上へ残された。


 そしてヴェロニカ・ローゼンフェルドは、余りある美貌を抱いたまま、今世で地獄の女王になった。


 黒い夜蛾は、もう火に落ちなかった。

 火そのものが、彼女の玉座になったから。

お読みいただきありがとうございます。


今回は、前作『余りある美貌の悪役令嬢は、断罪の夜にすべてを奪う』のさらに後、というか、物語になってしまった悪役令嬢が、今世でまた断罪の夜に立たされる話でした。


前作のエリザベートは、「悪女」と呼ばれる檻を王冠に変えた令嬢でした。


今作のヴェロニカは、そのエリザベートが悪女譚や戯曲として語り継がれ、ばらばらに解釈されてもなお、香りだけは消えなかった先にいる女です。


バラバラにされても、薔薇は薔薇。


花弁になっても、香りまでは殺せない。


そんな感じの令嬢が書きたくて、この話になりました。


今回も、とある楽曲の空気感をかなり意識しています。


美しさ、怖さ、嫉妬、未練、輪廻、選べない恋、そして「それでも忘れさせない」と笑う女の愛。


レオンハルトは選べなかった男。


ユリウスは選んだ男。


ミレイユは、守られる檻から地上に残された少女。


そしてヴェロニカは、選ばれなかった女ではなく、選べなかった男の未練ごと玉座に変えてしまう女です。


救いかどうかは分かりません。


呪いかどうかも、たぶん本人にはどうでもいい。


でも、ヴェロニカにとっては、あれもきっと愛なのだと思います。


少しでも「怖い」「美しい」「忘れられない」と思っていただけたなら嬉しいです。

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