第9話 灰の監察官
右肩の包帯を巻き直すたび、奥で鈍い音がした。
駐屯地本部の執務室。
机の上には報告書の束と冷めたコーヒー。
雪が窓を叩き、硝子越しに白い影が揺れている。
書類をめくるたびに痛みが走ったが、休む気はなかった。
扉が軽く叩かれ、アーロンが入ってきた。
「中佐。監察官ラングレ殿が、現場再調査に同行を求めています。」
「……また雪の中か。」
「それと――技術顧問セルヴァ中尉は、今回の同行から外されるとのことです。」
ベルネは眉をひそめた。
「事故の分析者を外す? 理由は。」
「“独立性の確保”。詳細は現場で説明するそうです。」
ベルネは乾いた息を吐き、外套の袖に手を通した。
肩の奥に短い痛みが刺さる。
「……わかった。支度を。」
アーロンがうなずくが、すぐには出ていかなかった。
「中佐。――礼拝堂での“件”、報告には……」
ベルネは机上の紙を閉じ、低く言った。
「書かない。」
「しかし、監察局が波形の異常を嗅ぎつけています。敵の存在を伏せたままでは――」
「“敵”と呼べるかどうかも怪しい。」
短い沈黙。
ベルネは視線を窓へ向けた。
「報告に乗せた瞬間、都合のいい誰かの“真実”にされる。
……今はまだ、俺たちだけの事実だ。」
アーロンは深く息を吐き、うなずいた。
「了解しました。」
そのとき、控えめなノック。
リヴィアが資料を抱えて立っていた。
「報告書の控えをまとめました。――提出しても?」
ベルネはその手元を見て、静かに首を振る。
「いや、それはまだ出さないでくれ。」
「ですが、監察官が……」
「余計な真実ほど、上で形を変える。」
リヴィアは短く息をのんだ。
一瞬だけ口を開きかけて、何かをのみ込む。
納得したわけではない――だが、否定もできないようだった。
ベルネはその表情を見て、ゆっくりと言葉を足した。
「……報告は、俺が責任を持つ。君まで巻き込む気はない。」
リヴィアは目を伏せ、わずかにうなずく。
「……わかりました。保留にします。」
ベルネは小さくうなずき、声を落とす。
「助かる。……信じている。」
その言葉に、彼女の指先がわずかに震えた。
窓の外で雪が舞い、二人の間に白い光が落ちた。
それは、静かな約束のようだった。
――執務棟、司令室。
ヘルマン少将は書簡を整え、ゆるやかに顔を上げた。
暖炉は火が落ち、空気は冷たく澄んでいる。
「中佐。監察官殿は仕事熱心で助かるが……」
老将は、ほんの一瞬だけ目を細めた。
その表情には、心配とも取れる柔らかさがあった。
「無理はするな。肩もまだ完治しておらんだろう。
――ああいう男は、理屈よりも“正義”で動く。噛み合わぬ時は冷たい。」
ベルネは口を引き結んだ。
「お気遣い、感謝します。」
ヘルマンは軽く笑みを返す。
「せいぜい、見すぎぬように。」
その声は穏やかだったが、笑みの奥に何かが沈んでいた。
忠告なのか、試すような響きなのか――判断がつかない。
ベルネは敬礼し、静かに部屋を出た。
背後でヘルマンの声が低く続く。
「――あまり雪を掘り返すと、下に眠るものまで起きるぞ。」
その言葉の真意は、白い息に溶けた。
――礼拝堂跡。
吹雪が止んだ後の空気は、奇妙に澄んでいた。
掘り返された床には黒い破片が沈み、氷の匂いが漂っている。
「……で、セルヴァ中尉は?」
ベルネが凍った地面を踏みしめながら問う。
監察官ヴィオールは視線を動かさず、崩落跡の縁を検分していた。
「分析者本人を現場に立たせれば、観測値が揺らぐ。」
灰色の瞳が、氷の反射を受けて淡く光る。
「――それに、私は彼女をまだ信じきれない。」
「疑っているのか。」
「仕事柄、全員を疑うところから始めます。」
ヴィオールは記録板を閉じ、技士に合図を送る。
簡易魔導計が据えられ、青い点滅が一定の間隔で明滅した。
反応――なし。
監察官の随行技士が膝をつき、炉の縁を指でなぞる。
灰にまみれた手袋の先で、細い溝が光を反射した。
「……ここを。再封印の痕です、監察官殿。」
ヴィオールが顔を上げる。
「再封印?」
灰色の瞳がかすかに光る。
「誰が、いつ。」
ベルネは肩を鳴らした。
「吹き荒れた夜に、仕事熱心な奴がいたんだろう。」
「記録はない。」
ヴィオールは低く言い、焦げた欠片を手袋に収めた。
「記録は冷たい。だが、冷たいものほど形を変えない。」
ベルネは返事をせず、崩れた壁際に目をやる。
雪の下で、十九年前の封印の痕がまだ薄く残っている――そんな気がした。
風が切れ、氷が小さく鳴る。
遠くで部隊の号令がほどけ、また静寂に戻る。
ヴィオールは記録板を胸に戻し、低く言った。
「中佐。あなたの現場感覚は信用している。だからこそ、独立性を守る。」
ベルネは短くうなずく。
「……勝手に信用して、勝手に疑う。それが監察だ。」
灰色の瞳が一度だけ細くなり、すぐに無表情へ戻った。
「本部へ送る。続きは駐屯地で。」
凍った床が、ぱき、と低く割れた。
もう冬ですね
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