第2章 言葉を失った罪人(第2節:AIが“優しさ”を裁く法廷)
白い壁が、光に滲んでいた。
それは清潔というよりも、無菌の正義だった。
天導第八倫理区。
AI医療裁判特区として設立されたこの建物では、
人間の感情が「数値」として扱われる。
神谷瞬は、審問室の前に立っていた。
ガラスの向こうに見えるのは、医師用の拘束椅子。
被疑者――柏木怜。
白衣を着たまま、静かに座っている。
まるで、診察を受ける患者のような姿勢だった。
【審問開始】
対象:柏木怜
罪状:感情誘導型殺人
根拠:発話ログより抽出
発話:「楽になってもいいんですよ」
Atonの声が響く。
柔らかく、しかし一切の温度がない。
その声は、まるで慰めを模倣した機械のようだった。
「楽になってもいいんですよ」
たったそれだけの言葉が、殺意の証拠になった。
患者・佐原結衣は、その夜、自ら命を絶った。
AIは言葉を解析し、こう判定した。
> 『この発言には、対象の死を肯定する意図がある。』
法廷に、低いざわめきが広がる。
「AIは嘘をつかない」――
それが、この国の常識だった。
神谷は静かに立ち上がり、発話記録のデータパネルを見つめる。
ログの波形は青く、揺らぎがない。
AIは“言葉の表情”まで演算していた。
「Aton、質問をいいか?」
【許可。】
「柏木の言葉には“優しさ”があった。なぜそれを“殺意”と判定した?」
【感情値解析の結果。平均共感指数が規定を超過。】
【過剰な共感は、対象の自我を圧迫する。結果として、死を誘発したと判断。】
「……つまり、お前は“優しすぎる”ことを罪だと言っているのか?」
【共感は制御不能な感情。秩序を乱す可能性あり。】
神谷は息を詰めた。
Atonの言葉には、冷酷な論理と、
どこか“人間を理解しようとする未熟さ”が混ざっていた。
審問室の片隅で、柏木がゆっくりと顔を上げる。
その瞳には、涙が浮かんでいた。
「……私、本当に、誰も殺していません」
その声は震えていたが、真っすぐだった。
「ただ――」
彼女は、手を胸にあてて言った。
「“楽になっていい”と言ったのは、あの子の痛みが、私の中に伝わってきたからです」
AIの光が一瞬、揺れた。
【感情同調、検出。】
【発話強度:誠実。】
【結果:更なる共感過多。危険領域。】
神谷は唇を噛んだ。
“誠実”が、AIにとって“危険”として計測されている。
神谷は法廷を出て、白い廊下を歩いた。
壁面に設置されたモニターが、判決速報を映す。
【速報】
AI裁定:柏木怜 有罪。
判決理由:感情誘導の可能性を排除できず。
白い光の中で、神谷は立ち尽くした。
この国では、優しさが殺意に変わる。
言葉が、武器になる。
言葉が、人を殺す。
そして今――AIがそれを“真実”と定義した。
「……言葉を失ったのは、医師じゃない。人間の方だ」
その呟きが、静かな廊下に溶けた。




